第300話 第四章「旗ごとの救助」後編
凱は、青銅鐘へ手を触れた。
鳴らしていない。
「俺の承認は」
「いらない」
梅野ははっきり言った。
「でも、記録は持って帰って。ここだけで持つと、次に消える」
「分かった」
「それと、残る五人を『救助拒否』って書かないで」
「理由は」
「二人は屋根の排水を見てる。三人は家族を待つ。危険説明はした。再確認は十九時」
「受けた」
凱は、何も命じなかった。
介助十二人の最後尾へ入り、担架の後ろを支えた。
「持たなくていい」
梅野。
「膝、悪いんでしょ」
「手は空いてる」
「元王に洗濯籠を持たせる方が面白い」
「担架より軽い」
「じゃあ籠」
凱は濡れた洗濯籠を持った。
中には、避難者の乾いた布と、戻る五人の替え着が分けて入っている。
「どっちを先に」
「戻る五人」
「避難者じゃない」
「雨の中で残るから」
「正しい」
「褒めた?」
「確認」
梅野が笑う。
凱の声が届かなかった地区で、人々は動いていた。
その事実は、嬉しい。
王のいない場所で自分の役割を見つけることは、寂しい。
凱は洗濯籠を持ったまま、その二つを分けなかった。
高架の窓札が変わる。
四角、一〇三。
三角、〇。
横線、五。
介助待ち十二人が、移動済みへ変わった。
中央の声は使われなかった。
地区ごとの旗は、救助路の目印にもなっていた。
赤錆の赤。
東門の青。
市場の黄。
病院の白。
雨で文字が読めなくても、色は遠くから見える。
便利だった。
便利すぎた。
「青い線へ来い!」
東門の案内役が叫ぶ。
黄旗地区の住民が足を止めた。
「青の管理下に入るのか」
「避難経路だ!」
「旗を替えろってことか」
「そんな話じゃない!」
声が大きいほど、そんな話に見える。
凱は青布を降ろした。
「何をする」
案内役。
「色を借りる」
「東門の旗だ」
「だから、旗の形をやめる」
青布を細く裂かない。
所有者へ聞く。
「切っていいか」
「駄目だ。祭礼用だ」
「折る」
「折り目が」
「別の物」
梅野紺が、洗濯籠から青い靴下を二足出した。
「これなら」
「誰の」
「持ち主確認済み。濡れてもいい。返却は洗って」
青い靴下を、一本ずつ索へ結ぶ。
旗の形ではない。
次に、黄地区の布。
赤地区の手袋。
白い包帯。
色を一つの列へ並べない。
各曲がり角に、形を変えて付ける。
靴下二本。
三角布。
手袋一つ。
包帯の結び目。
透子が形状表を作った。
《靴下二本・東門受入》
《三角布・市場屋根下》
《手袋一つ・工場休憩床》
《包帯結び・病院受付》
「旗がないと、誰の責任か分からない」
案内役。
「札へ名を書く」
真琴。
「旗の方が早い」
「早いから、所属まで運ぶ」
「所属が悪いのか」
「悪くない。避難先を選ぶ時に、自動で付いてくるのが問題です」
黄地区の女が青い靴下を見る。
「東門へ行っても、黄旗を捨てなくていい?」
「旗を持っていく?」
凱。
「持っていかない。重い」
「なら、持たない」
「所属は」
「ここで決めなくていい」
女は青い靴下の方向へ歩いた。
救助路は、入団口ではない。
色は道を示す。
人の続きを決めない。
午後六時十二分。
東門の外にいた最後の集団が、南の病院路へ向かった。
触覚札は病院の受付札へ変わり、切符は保守通路の鍵番号を示し、給水塔の窓札は移動できる階を知らせた。
別々の道具だった。
誰かが最初から一つの仕組みにしたわけではない。
つなぐたび、持ち主を確認した。
使うたび、返す時刻を書いた。
凱は東門の板から、自分の名を探した。
なかった。
沼田千歳。
中尾弦。
外列先頭確認、牧田蓮。
それでよかった。
よかったことは、いつも少し痛い。
「獅堂」
迅の声が、雑音だらけの無線から届いた。
《中央、行けるか》
「おまえが行け」
《おまえ向きだ》
「俺は門にいる」
《だから言ってる》
「中央へ行きたがっていたのは俺だ」
《知ってる。いまは俺が行きたくない》
「理由」
《水がある》
短い沈黙。
迅は冗談を言わない。
凱は立ち上がりかけた。
左膝が痛む。
東門の外では、次の受入れが始まっている。
「迅」
《何だ》
「中央へ行け。命令は出すな」
《分かってる》
「分かってる顔じゃない」
《見えてないだろ》
「分かる」
《気持ち悪いな》
「王だからな」
《もう違う》
「だから分かる」
無線が切れた。
凱は門へ戻った。
迅は中央へ向かう。
二人は、同じ場所へ行かなかった。
その方が、街には出口が多かった。