第302話 第五章「病院を動かす」後編

 午前三時十二分。

 携帯電源が一台、屋上へ届いた。

 出力は、三つ全部を同時に動かせない。

 吸引器。

 保冷薬箱。

 照明。

「吸引」

 医療者が言う。

「照明」

 搬送者が言う。

「保冷」

 薬品担当が言う。

 三人とも正しい。

 正しい要求が三つある時、電源は三台に増えない。

 ミソラは患者の状態を読む。

 吸引が必要な患者は、痰が増えている。

 いま停止すれば、十数分で呼吸が悪化する可能性。

 保冷薬箱には、六人分の薬。

 常温許容は残り二十七分。

 照明がなければ、屋上斜路の搬送速度が半分になる。

「九分ごと」

 ミソラ。

「切り替えるの?」

 電気係。

「吸引九分。保冷九分。照明はその間、手回し灯」

「吸引を九分止める時間が出る」

「携帯吸引を手動へ」

「人が要る」

 澪が搬送表を見る。

「階段椅子の次枠を一つ遅らせる。二人を手動吸引へ」

「搬送が遅れる」

「九分」

「薬が先?」

 付き添いがまた言う。

「薬だけじゃない」

 ミソラは三つの仕事を指した。

「あなたの家族の吸引。六人の薬。次の患者の足元。どれか一つが偉いんじゃない」

「じゃあ誰が損する」

「皆が少しずつ不便を引き受ける。ただし、危険が同じになるとは限らない」

「公平じゃない」

「公平に九分ずつではなく、悪化したら途中で変える」

 タイマーを九分にする。

 最初は吸引。

 五分四十秒で、患者の呼吸が落ち着く。

「保冷へ」

「九分じゃない」

「必要が変わった」

 電源を切り替える。

 保冷薬箱の温度が下がる。

 屋上斜路では、手回し灯を三人が交代で回す。

「暗い!」

「足元だけ見て!」

「先が見えない!」

「先は、前の人が言う!」

 光を全部へ広げず、次の三歩へ絞る。

 照明へ電源が戻ったのは、十四分後だった。

 三つの仕事は、同じ時間を受け取らなかった。

 代わりに、誰が何分待ち、何が悪化し、どこで予定を変えたかが残った。

「電源一台で、会議が三つ」

 澪。

「機械は黙ってる」

 ミソラ。

「だから人が喋る」

「喋りすぎ」

「あなたが復唱するから」

「聞こえにくい」

「知ってる」

 二人は同じ電源へ手を伸ばさなかった。

 切り替えたのは電気係だった。

 医療も救難も、最後のスイッチまで自分の権限にしなかった。

 午前三時二十三分。

 地下薬品庫から、冷蔵薬を運び出す必要が出た。

 患者より薬を先に運ぶのか、と付き添いが怒った。

「薬を使う患者がいる」

 ミソラ。

「目の前に人がいる」

「薬も人の時間」

「箱だろ」

「箱の中に、次の一時間がある」

 澪は搬送列を見た。

「人の列へ箱を混ぜない」

「別経路は」

「洗濯用の小昇降筒」

「止まってる」

「索で上げる」

「温度」

「保冷布」

「何分」

「九」

 澪は患者搬送を止めなかった。

 ミソラも薬を諦めなかった。

 タマキが保冷箱を受け取る。

「送り主」

「薬品庫担当、紙屋セツ」

「受取人」

「三階医療台、時雨ミソラ」

「目的」

「残留患者と移動患者、計六名の投薬」

「公開範囲」

「薬名と数量は医療内。搬送時刻は公開」

「受けました」

 鉄箱には入らない。

 タマキは別の布索へ保冷箱を固定する。

 箱が昇る。

 患者の列は動く。

 人と薬が、同じ道を奪い合わずに済む。

 付き添いは、箱が上がるのを見た。

「箱にも順番があるんだな」

「人のための」

 ミソラ。

「箱が偉いわけじゃない?」

「箱は偉くない。必要」

「必要と偉いは違う?」

「違う。病院で一番間違えやすい」

 ミソラは、自分にも聞かせるように言った。

 医療者の必要性を、権威へ変えない。

 救難者の速さを、命令権へ変えない。

 暗い病院で、二人の仕事は交わった。

 同じにはならなかった。

 午前三時四十一分。

 残留患者の一人が、酸素を外した。

「いらない」

 呼吸器疾患の男。

 酸素飽和度、八十八。

「外すと危険です」

 ミソラ。

「機械音が嫌だ」

「流量を下げる選択」

「外す」

「意識が落ちる可能性」

「分かった」

「死亡の可能性」

「脅すな」

「説明」

「皆それ言う」

「皆が正しい時もある」

 男はチューブを握る。

 澪が入口に立っている。

「運ぶ?」

「酸素のある屋上へ移動できる」

 ミソラ。

「機械音は」

「携帯酸素なら小さい」

「階段が嫌だ」

「ここで流量を下げる」

「音は」

「布で機器を囲う。ただし吸気口は空ける」

「まだ聞こえる」

 澪が自分の耳栓を一つ外した。

「これを使う?」

「救難の人が耳栓?」

「右耳、高い音が入らない。左を守る時に使う」

「借りていい?」

「返す時、洗って」

「死んだら」

「返却先を家族へ頼む。嫌なら貸さない」

「縁起が悪い」

「事実」

 男が笑い、咳をした。

 耳栓を左耳へ入れる。

 酸素流量を一段下げる。

 機械音が遠くなる。

 飽和度、九十一。

「これなら」

「続ける?」

「続ける」

 拒否を説得で消さない。

 嫌なものを一つ減らし、選び直す。

 澪は右耳を男へ向けず、左側へ立つ。

「あなた、高い音が聞こえないの?」

「聞こえにくい」

「怖くない?」

「怖い。だから復唱する」

「不便」

「不便。役に立つ時もある」

「どんな」

「人に、もう一度言わせる」

 男は少し考えた。

「酸素、続ける」

「復唱。酸素継続」

 澪は低い声で返した。

 難聴は、患者を救うための特別な力にはならない。

 不便を隠さず、別の手順へ変えるだけだった。

 屋上へ移る七十二人の名簿には、同じ呼称が二つあった。

《ハル》

 一人は八十代の女。

 一人は年齢を公開していない若い患者。

「姓」

 受付係。

「言わない」

 若いハル。

「薬を間違える」

「呼び方と薬札を分けて」

「同じ呼び方が」

 ミソラが二種類の触覚札を出す。

 丸の中に一本線。

 丸の中に二本線。

「本人へ選んでもらう」

 八十代のハルは一本。

 若いハルは二本を選ぶ。

「囚人番号みたい」

 若いハル。

「番号ではない」

「線が二本」

「変えられる」

「じゃあ、波」

「形を描けますか」

 本人が札へ波を描く。

 薬札にも同じ波。

 担架にも同じ波。

「これで、姓なしで運べる?」

「この搬送内では」

「病院へ着いたら」

「使い続けるか、本人へ聞く」

「戸籍名を言えって言われたら」

「医療に必要な範囲と、登録に必要だと言われている範囲を分ける」

「言われている?」

「必要だと決めた人へ、根拠を聞く」

 若いハルは少し笑った。

「あなた、医者なのに面倒」

「患者が一人ずつ違うので」

 八十代のハルが横から言う。

「私は春子。姓も言えるよ」

「言いたい?」

「聞かれたから言った。皆へ言いたいわけじゃない」

 受付係が名簿を直す。

《春子・医療担当のみ姓照合済み》

《ハル・波札・姓非公開》

「二人ともハルでいい?」

「私は春子」

「私はハル」

「受けた」

 同じ呼称を、登録の都合で奪わない。

 同じまま間違えないため、札と薬と本人の声を結ぶ。

 屋上へ着いた時、波札のハルは自分で担架札を外した。

「返す?」

「捨てないで。次の薬まで」

「自分で持つ?」

「持つ」

 本人確認は、本人の名前を奪って台帳へ預けることではない。

 必要な間だけ、互いに同じ人を指せるようにすることだった。

 午前四時二十一分。

 搬送者の一人が、階段で座り込んだ。

 古橋巡。

「足」

 サナ。

「違う。目が回る」

「最後に水」

「二時間前」

「食事」

「昨日の夜」

 澪が振り返る。

「なぜ言わなかった」

「運べた」

「運べると運んでいいは違う」

 古橋が苦笑する。

「みんなそれ言う」

「流行ってる。交代」

「あと二人」

「二人を運んで、あなたが三人目になる」

「大丈夫」

「大丈夫を受け取らない」

 澪は二番手を呼ぶ。

 自分が決めた交代条件を、自分の班へ使う。

 古橋は水と糖を取り、横になる。

 澪は搬送表へ書く。

《四時二十三分 古橋巡、脱水・低血糖疑いで交代》

 救助者の空白を、恥として消さない。

 交代した者の名も書く。

 仕事が続いた証拠は、同じ人が最後まで立ったことではない。

 途中で別の名前へ変わったことだった。

 六月十三日 午前四時五十八分

 屋上へ移動、七十二人。

 高所施設へ残留、十四人。

 死亡確認、一人。

 八十七人の所在欄に、空白はなくなった。

 新規の入院処置が必要になった者は四人。

 低体温二。

 右前腕裂創一。

 誤嚥性肺炎疑い一。

 屋上へ上がったから入院を終えたわけではない。

 病院の中で入院先が変わっただけだった。

 澪の担当時刻が終わる。

 彼女は濡れた板をミソラへ渡した。

「五時。医療主導」

「受領」

「移動経路、屋上南は一時間停止。四階西は継続。北斜路は六時に再確認」

「受けた」

「私が間違ってたとは言ってない」

「私が正しかったとも言ってない」

「次は、午前で切るのやめる」

「時刻が悪い?」

「時刻は要る。でも、日の出じゃなく水位と体温で交代する」

「では三条件。水位、患者体温、搬送者の休息」

「四つ」

「何」

「受入先の人手」

 ミソラは板へ書いた。

 澪が付け加える。

《いずれか二条件悪化で共同再判断》

「共同って、誰が最後に決める」

 サナ。

「その患者」

 ミソラ。

「経路なら私」

 澪。

「また喧嘩になるね」

「続く仕事だから」

 澪は答えた。

 夜明けは来なかった。

 空が少し薄くなっただけだ。

 屋上に、十四人分の空いた場所がある。

 空席は失敗ではない。

 そこへ座らないと決めた人がいる証拠だった。