第303話 第六章「水が逆流する」前編
六月十三日 午前七時十二分
地図は、濡れると嘘をつく。
紙が破れるからではない。
青い線が川に見え、黒い線が壁に見え、昨日まで通れた道が今日も通れるように見えるからだ。
環玉樹は、鉄道保守路の入口で地図を畳んだ。
「使わないの」
葦名透子が訊く。
「使います」
「畳んだ」
「持つのに使います。道を決めるのには使いません」
「地図の立場がないね」
「紙に立場はありません」
「タマキにはある?」
「配達中です」
タマキは巨大な鉄箱を背負い直した。
箱の中身は手紙ではない。
乾いた靴下、七組。
触覚札、三十二枚。
使用済み切符、四百十三枚。
小型の砂時計、二つ。
古い検札鋏、一丁。
黒鉛筆、九本。
送り主は、十二の避難口にある受付台。
受取人は、これから見つける保守路の利用者。
目的は、水位と時刻を残すこと。
「配達先、まだないじゃん」
透子。
「だから探します」
「普通は先に決める」
「普通の道は水の下です」
保守路の鉄扉は半分開いている。
中から、低い唸りが聞こえる。
列車ではない。
水が狭い管を逆へ走る音だ。
深水縁が扉の前へしゃがんでいた。
古い橙色の潜水服。
右肩だけ、帯が二重になっている。
「地上の人、名前を言って」
「環玉樹。配達」
「葦名透子。伝令」
「自分、深水縁。潜水と水路確認。潜れる」
「潜る?」
タマキ。
「まだ」
「なぜ」
「潜れると潜るは違う」
「違いは」
「帰れるか」
深水は扉の下へ細い金属棒を差し込んだ。
棒が震える。
「水、奥から来てる。公式図では排水方向」
「逆流」
「言葉はそう。原因は分からない」
「見に行けば」
「見に行った人が戻らないと、原因が一つ増える」
タマキは扉へ耳を近づけた。
音が三つある。
低い連続音。
五秒ごとの金属音。
遠くで紙を破るような細い音。
「水だけじゃない」
「何」
透子。
「何か、浮いて当たってる。五秒ごと」
「列車部品」
深水。
「規則的すぎます」
「じゃあ何」
「分かりません」
「配達屋、分からないって言えるんだ」
「分からない荷物は、開けません」
透子が笑った。
タマキは地図を床へ置かなかった。
代わりに、使用済み切符を一枚、扉の内側の壁へ貼った。
下端を水へ触れさせる。
時刻を書く。
《七時十六分》
五分後。
水が切符の半分まで上がった。
二枚目を、その高さへ貼る。
《七時二十一分》
「切符を水位計にする?」
深水。
「紙の繊維が濡れた境目を残します」
「剥がれる」
「検札鋏で穴を開け、針金へ通す」
「切符が泣くな」
「使われる方がましです」
「紙の気持ちが分かる?」
「分かりません。僕は紙ではないので」
深水は口元だけで笑った。
「いい。分からないって言う人は、水の中で長生きする」
午前八時二分。
保守路の水位は、入口で膝下。
二十六メートル先で腰。
四十メートル先は、床が一段下がって測れない。
タマキたちは、壁へ切符を残しながら進んだ。
各切符に、時刻、深さ、音、戻れる方向を書く。
透子は文字を形へ変える。
三角の上に一本。
水、膝。
三角の上に二本。
水、腰。
丸の中に点。
足場あり。
割れた四角。
戻れない。
「色を使わないの、慣れた?」
タマキ。
「色が要らないのに、色を先に使う人が多すぎるだけ」
「赤は危険です」
「暗いと全部黒」
「緑は安全」
「水の中だと全部濁る」
「では形」
「最初からそう言ってる」
深水が手を上げた。
「止まる」
三人が止まる。
五秒ごとの金属音が近い。
ごん。
暗い水面から、何かが壁へ当たる。
タマキが灯りを下げた。
使用済みの列車切符を束ねた金属箱だった。
旧検札所の回収箱。
水へ浮き、紐で天井の管につながっている。
「だから五秒」
透子。
「水が引いて、戻る」
「紐の向こうに何かある」
深水が引く。
動かない。
「潜りますか」
タマキ。
「まだ」
「帰れる?」
「戻る索はある。右肩が引っかかったら、外せる人が二人」
「僕と透子」
「数えた。だから潜る」
深水は呼吸器を確かめた。
右肩の固定帯をもう一度締める。
「地上の人、名前」
「環玉樹」
「葦名透子」
「戻らなかったら」
「三分で引く」
「二分四十」
「三分」
「二分四十。右肩が先に悪くなる」
「受けた」
深水が沈む。
橙色の背が水へ消える。
索が少しずつ出る。
タマキは砂時計を返した。
透子は形状札を握る。
一分。
索が一度、強く張る。
「引く?」
「合図じゃない」
一分四十。
二度、短く張る。
「戻す合図」
二人で索を引く。
水が盛り上がる。
深水が顔を出した。
右手に、錆びた板を持っている。
《住宅棟裏階段 七十四米》
「古い案内板」
タマキ。
「壁の向こう、空洞。階段がある」
「地図にない」
「地図より古い」
「通れる?」
「壁の点検口まで。点検口の向こうは私有通路」
「誰の」
「住宅棟の住民」
「鍵は」
「内側」
透子が言う。
「届ける相手が見つかったね」
タマキは鉄箱を見た。
配達先は、壁の向こう。
だが、道を見つけたことは、使ってよい理由ではない。
「許可を取りに戻ります」
「水位は上がってる」
深水。
「急げば、無断でいい?」
「よくない」
「なら戻ります」
「言うと思った」
「なぜ」
「配達屋は、宛先を勝手に決めると商売にならない」
午前九時二十五分。
旧食堂の搬入口に、土門小麦は十二枚の鍋帳を並べていた。
鍋の大きさ。
火口の数。
水の使用量。
調理者の名前。
最後に座った時刻。
「最後に座った時刻?」
由良が赤索の水を絞りながら訊く。
「休憩」
「料理と関係ある?」
「ある。座ってない人は塩を倍にする」
「偏見」
「記録」
「私、座ってないけど塩は間違えない」
「由良は食べる側」
「作れる」
「何を」
「乾肉を切る」
「料理じゃない」
「薄く切る」
「技術の方向が寂しい」
小麦は鍋帳の一つへ赤い丸を付けた。
「三番厨房、二人が十六時間立ってる。止める」
「止めたら食事が減る」
「続けたら人が減る」
「誓痕で交代をまとめれば」
「使わない」
由良が小麦を見る。
「使えるのに?」
「同じ釜を食べた人を一つの仕事へつなげられる。でも、休みたい人まで『みんなと同じ』になる」
「断れる?」
「断れる。断りにくい」
「違いがある?」
「大きい」
小麦は赤丸の横へ書く。
《停止 九時三十分》
《次の担当 未定》
「未定で止めるの」
「決まるまで私が――」
言いかけて、小麦は消した。
《次の担当を三番厨房が指名》
「珍しい」
由良。
「何が」
「小麦が自分を入れなかった」
「書き忘れ」
「今、消した」
「雨で滲んだ」
「晴れてても言う?」
「晴れてから聞いて」
小麦は話を変えた。
「帰る人、何人」
「剛嶺へ戻りたいのは十一。私を入れて十二」
「持たせる食料、何日」
「三日」
「残る避難者の在庫、二日半」
「じゃあ帰る側を減らす?」
「人数じゃなく、食べ方を変える」
小麦は乾パンを半分に割った。
「道中は火を使えない。乾物、塩、糖。残る側は鍋と水があるから穀粉を回す」
「公平じゃない」
「同じ量が公平?」
「同じ腹なら」
「歩く腹と待つ腹は違う」
「帰ると決めた人を優遇するの?」
「帰るからじゃない。歩くから」
「私が残ったら」
「歩かない分、減らす」
「冷たいね」
「食料は温める。計算は冷たい方がいい」
タマキが搬入口へ駆け込んだ。
「住宅棟の裏階段、保守路へつながります」
「通れる?」
小麦。
「許可があれば」
「誰の」
「住民。七十四メートル。保守路は百二十六。食堂搬入口まで六十三」
小麦の目が変わった。
料理人ではなく、物流の目になる。
「ここから病院は」
「直線なら近い。でも公式路は水」
「裏は」
由良が訊く。
「旧貨物昇降機がある」
「動く?」
「分かりません」
「地図は」
「あります」
「信用する?」
「しません」
由良が笑う。
「少し賢くなった」
「昨日も賢いです」
「昨日は地図を背負ってた」
「今日は鉄箱です」
「重くなってる」
「中身が使えます」
小麦は鍋帳の裏へ、長さを書いた。
七十四。
百二十六。
六十三。
足す。
「二百六十三」
「何が」
由良。
「道の途中」
「終わりは」
「まだない」
「途中を道って呼ぶ?」
「鍋も途中で味見する」
「それは料理」
「道も、食べる人が着けば仕事」
タマキは鉄箱から、最初の許可札を出した。
空欄だった。
誰の名前もない札は、まだ鍵ではない。
午前十時十七分。
住宅棟の裏階段へ入る許可を求めるため、タマキと透子は八世帯を回った。
階段は共用だが、途中に各戸の勝手口がある。
洗濯物。
植木鉢。
子どもの自転車。
壊れた椅子。
避難路にするなら、動かす必要がある。
「全部どけてください」
タマキが言った。
七十代の男が眉を上げる。
「全部?」
「通路幅を九十センチ」
「この鉢は女房の」
「奥さんは」
「三年前に死んだ」
「では、動かしてよいか確認できません」
「死んだ人に聞くのか」
「あなたが決められる範囲を聞きます」
「俺の家だ」
「鉢も?」
男は鉢を見る。
「半分は」
「半分だけ動かす?」
「割るなよ」
「割れない場所を一緒に決めてください」
透子がしゃがみ、床へ形を描く。
四角。
植木鉢。
矢印。
移動。
丸。
戻す位置。
「戻す日」
男。
「通路を閉じる時」
「いつ」
「まだ分かりません」
「分からないで借りるのか」
「はい。分からないことも札へ書きます」
「正直だな」
「商売なので」
「無料だろ」
「無料でも、配達です」
男は鉢を抱えた。
「俺が動かす」
「重いです」
「女房のだ」
「では、僕は下を支えます」
二人で動かす。
鉢の下に、古い床傷があった。
形は、戻す場所を覚えていた。
八世帯のうち、六世帯が通行を許可した。
一世帯は、夜間だけ拒否。
一世帯は、家族の所在確認まで保留。
全員の許可が揃わない。
タマキは焦った。
「保留の家を飛ばす方法は」
透子。
「外壁足場」
「危ない」
「時間がない」
「だから勝手に通る?」
「言ってません」
「顔が言ってる」
「顔は配達しません」
「でも相手には届く」
タマキは口を閉じた。
自分の得意な確認が、相手を追い詰める時がある。
質問を一つずつにすれば、答えやすい。
答えやすい質問は、断りにくい質問にもなる。
保留した家の扉へ戻る。
「さっき、許可するか聞きました」
扉の向こうに言う。
「今は、何が分かれば決められるかだけ聞きます。答えなくてもいいです」
しばらくして、扉が三センチ開いた。
「戻す時刻」
女の声。
「分かりません」
「夜、知らない人が窓の前を通る」
「窓を覆います。通行時間を昼だけにできます」
「避難は夜もある」
「夜は別経路を探します」
「私のせいで遠回りになる」
「あなたのせいではなく、許可条件です」
「同じじゃない?」
「記録が違います」
扉がもう少し開いた。
「昼だけ。窓の前は布。撮影なし」
「受けました」
「家族が戻ったら、撤回するかも」
「撤回窓口は僕。鉄箱に札を入れてください」
許可札に、最初の名前が書かれた。
道は、見つけるより借りる方が時間がかかる。
だから、人の道だった。
午前十一時三分。
保守路の水位は、入口で腿まで上がっていた。
深水が切符を見て言う。
「上昇、遅くなった」
「なぜ」
「別の場所へ抜けた」
「良いこと?」
「分からない」
その言葉の直後、奥で叫び声がした。
鉄道作業員二人が、点検台の上へ取り残されている。
逆流が横の管を破り、足場を持ち上げた。
「戻れる?」
タマキが叫ぶ。
「一人、足を挟んだ!」
深水が索を取る。
「自分が行く」
「肩は」
「まだ持つ」
「持つかじゃない」
タマキは、轟たちの言葉を借りた。
「誰が戻す」
深水が一瞬だけ笑う。
「地上の人。いい質問」
潜水服の腰へ二本の索を付ける。
一人を救出する索。
深水を戻す索。
透子が形状札を上げる。
輪一つ。
救助対象。
輪二つ。
救助者も戻る。
深水が水へ入る。
作業員の足は、点検台と浮いた木材の間に挟まっていた。
水位は胸。
流れは横。
タマキは壁の切符を見た。
五分で六センチ。
「あと七分で台が天井へ当たる!」
「六分」
深水。
「計算は」
「水の癖」
「癖は記録できません」
「じゃあ七分でいい」
深水が木材へ足を掛ける。
右肩を使わず、左腕と腰で押す。
作業員が脚を抜く。
その瞬間、点検台が傾いた。
二人目が水へ落ちる。
タマキは鉄箱を下ろした。
「受取人、誰!」
「俺!」
水へ落ちた男が叫ぶ。
「目的!」
「外へ出る!」
「送り主!」
「俺だ!」
能力はまだない。
質問は、魔法ではない。
だが、自分の行先を声にした男は、流れへ顔を向けた。
深水が投げた索を掴む。
透子とタマキが引く。
男は壁へ肩を打った。
息を吐く。
点検台の男も引き上げる。
二人とも生きている。
一人は右足首骨折疑い。
一人は水を吸い、呼吸音が悪い。
入院処置、二人。
「道、使える?」
作業員が咳の間に訊いた。
「あなたは病院へ」
タマキ。
「保守路の話」
「いまは通れない」
「上の点検口、住宅へ抜ける。俺らが鍵番号を知ってる」
「番号は」
「四、七、二。古い規格」
「誰に伝えていい」
「水巻。沼田。鉄道の南野」
「公開は」
「番号は非公開。受け取った人だけ」
「受けました」
タマキは鉄箱へ鍵番号を書いた紙を入れた。
道具は揃い始める。
許可はまだ足りない。
水は待たない。
その三つを、同じ意味にしない。
午後零時四十八分。
保守路の鍵番号は、番号だけでは鍵にならなかった。
四、七、二。
古い規格。
だが、鉄道側の台帳には四七二が三つある。
四七二・北。
四七二・排水。
四七二・廃止。
「どれ」
透子。
「分かりません」
「また」
「正しい答えです」
「便利」
南野が中央から持ってきた写しを広げる。
運転席へは戻らない。
地図も、自分一人では決めない。
「鍵の刻印、見た?」
「作業員は四七二だけ」
「持ち手の形」
「訊いてません」
「地図より、そこ」
タマキは配達箱から使用済み切符を三枚出した。
四七二・北は、半円の切欠き。
四七二・排水は、二つ穴。
四七二・廃止は、角を斜めに落としてある。
番号が読めない暗所でも、形で区別するためだ。
「透子」
「形、得意」
「作業員へ聞いてください」
無線を病院へつなぐ。
右足首を固定された作業員が答える。
《穴、二つ。指を入れて回した》
「四七二・排水」
南野。
「誰が持つ」
タマキ。
「鉄道保守班。今、所在確認できるのは三人」
「三人全員へ連絡」
「一人で足りる」
「一人が倒れたら」
南野は少し黙る。
「三人へ。使う時は二人立会い」
「鍵を開ける人と、閉める人?」
透子。
「同じ人でもいい。でも、閉めた確認は別の目」
「返却」
「保守班台帳。経路が終わった時」
タマキは鍵の受領札を作る。
鍵そのものは鉄箱へ入れない。
誰かの生活路を、配達員が持ち歩く権利はない。
午後一時三十五分。
排水点検口を開けると、住宅裏階段から冷たい空気が来た。
水の匂い。
洗剤。
煮魚。
生活の匂いが、鉄道の油へ混じる。
点検口の向こうに、水巻ハツと住宅の男がいる。
「開けるよ」
水巻。
「待って」
タマキ。
「何」
「開いた後、誰が最初に入る」
「そっちの人」
「こっちは水」
「こっちは階段が滑る」
「同時に一人ずつ」
透子。
「扉の両側から手だけ出して、床を確認」
「変な絵だな」
水巻。
「安全な絵はだいたい変」
点検口が十センチ開く。
水が住宅側へ流れようとする。
「閉める!」
水巻。
「待って、流量を測る」
深水が地上から言う。
潜水服は脱いでいない。
右肩はまだ動く。
「十秒で一・八リットル。住宅側の排水は」
「一分十二」
「全開は無理」
「何センチ」
「二十五」
「人が通れない」
「水を先に別へ逃がす」
「どこ」
「旧食堂の廃油管」
小麦が即座に拒んだ。
「厨房へ臭いが戻る」
「使ってない管」
「壁でつながってる。食材へ臭いが入る」
「洗えば」
「今日の食事は待たない」
深水は地図を見る。
「じゃあ洗濯排水」
病院側から返事。
《患者用の水路へ逆流する》
「給水塔の旧管」
水巻。
「今、止めた管がある。南へ抜ける」
「所有」
「塔住民」
「許可」
「取る」
すぐには開けられない。
道は見えている。
水を逃がす先もある。
持ち主の返事が足りない。
透子が点検口の隙間から、形状札を渡す。
水の三角。
旧管の四角。
戻す矢印。
塔の窓札へ伝わる。
十一分後。
《旧管使用可。午後四時まで。終了後、水巻・ノノ・住民一名で確認》
「受けた」
旧管へ仮の排水をつなぐ。
点検口の水圧が下がる。
二十五センチ。
三十五。
五十。
人が横向きに通れる。
タマキは最初に入らなかった。
住宅の男が、保守路へ手を伸ばす。
鉄道作業員が、住宅側へ手を伸ばす。
互いの手首を取る。
「床」
「ある」
「滑る」
「こっちも」
「同じ?」
「同じじゃない」
「じゃあ、ゆっくり」
点検口が開く。
道は、中央の鍵で開かなかった。
両側の人間が、互いの床を確認して開いた。
保守トンネルを避難路へ使えるか、最初に試したのは大人ではなかった。
身長百三十八センチの少年と、車輪椅子を使う女。
「危ないから、歩ける人で試すべきだ」
鉄道作業員が言う。
「歩ける人が通れたら、開くつもり?」
タマキ。
「全員へ開くとは」
「札に《通行可》と書けば、全員が自分も含むと思います」
「じゃあ何て書く」
「誰が、どこまで」