第304話 第六章「水が逆流する」後編
少年には、水位が腰を越える。
女の車輪は、軌道溝へ落ちる。
トンネルそのものが使えないのではない。
同じ使い方ができない。
少年へは、壁際の高い保守棚を歩行板にする案。
女へは、車輪を固定する細い案内材を二本置く案。
「案内材、避難が終わったら外す」
作業員。
「なぜ」
「保守車が通れない」
「外す担当」
「俺」
「名前」
「石上忠」
「時刻」
「通行終了から二時間以内」
「終了を誰が知らせる」
「タマキ」
「僕が来られなかったら」
「保守詰所の鐘二回」
「鐘が濡れたら」
「叩けば鳴る」
「確認」
石上が鐘を叩く。
低い音がトンネルへ響く。
「聞こえる」
少年。
「車輪椅子の人は」
女が手を上げる。
「耳は聞こえる。問題は腕。水の抵抗で押せない」
「誰かが押す?」
「後ろからだけだと、溝へ落ちた時に見えない」
前に一人。
後ろに一人。
前の人は引かない。
車輪の位置を言葉で返す。
「右、二センチ」
「数字で言われても」
「手の幅」
「私の手?」
「あなたの」
女が指を一本立てる。
「これくらい」
「受けた」
試験は、通り切るために行わなかった。
途中で戻れる場所を確かめるために行った。
百二十六メートルのうち、三十七メートル。
そこで棚が低くなり、少年は歩行板を下りる必要がある。
「今日はここまで」
少年。
「怖い?」
「水が、へそ」
「戻る?」
「戻る」
車輪椅子も戻る。
試験は未通過。
失敗欄には入れない。
《少年用歩行板、三十七メートルで高さ不足》
《車輪案内材、同地点までは有効》
《別経路または床上げが必要》
「通れなかったのに、役に立った?」
少年。
「どこから通れないか分かった」
タマキ。
「僕が小さいから?」
「あなたの身長で分かった」
「大きくなったら」
「今日の道は今日の身体で決めます」
少年は濡れた切符へ、自分のへその高さを線で引いた。
水位札に、最初の低い線が加わった。
午後三時二分。
使用済み切符の水位札は、十二の受付へ配られた。
切符には、元の行先が残っている。
南環。
北工区。
東門。
剛嶺連絡。
今日の水位とは関係がない。
「行先、消す?」
受付係。
「消さない」
タマキ。
「混乱する」
「裏へ今日の情報を書く」
「表と裏、どっちが正しい」
「両方。表は以前の仕事。裏は今日の仕事」
「使い回しって、貧乏くさい」
「物が二度働くのは、悪いことですか」
「人にやると過労」
「だから切符だけ」
受付係は笑った。
各口で、五分ごとに水位を記す。
上がる口。
下がる口。
変わらない口。
中央の赤い表示では、全部同じ閉鎖だった。
切符の濡れ方は、違った。
第三口は上昇が止まる。
第六口は二センチ下がる。
第八口は横から増える。
第十二口は、水位ではなく地盤が沈む。
「地図より分かる」
透子。
「地図も要ります」
「まだ守るんだ」
「地図は嘘をついていません」
「朝、言った」
「嘘に見えると言いました。古い情報を今日だと思う人が間違える」
「紙のせいじゃない?」
「紙は日付を書けません」
「人が書く」
「はい」
タマキは地図の隅へ大きく書いた。
《六月十三日十五時現在。五分後には古い》
「地図に悪口を書いた」
「注意です」
「地図が傷つく」
「紙の気持ちは分かりません」
透子が、今日何度目か分からない笑い方をした。
水位札が十二口から戻る。
ばらばらの数字が、一つの線を示し始める。
水の低い場所ではなく、水の上がり方が遅い場所。
いちばん短い道ではなく、途中で判断を変えられる道。
住宅裏階段。
保守トンネル。
旧食堂搬入口。
三つは、もうつながっていた。
まだ避難口ではない。
ただ、誰かの生活と誰かの仕事の間に、濡れた切符が一枚ずつ置かれていた。
午後四時十一分。
住宅裏階段の許可は、昼間だけだった。
空は暗い。
雨雲のせいで、午後四時が夜に見える。
「昼って、何時まで」
タマキが許可札の持ち主へ訊いた。
「日がある間」
女。
「見えません」
「私も」
「時計で決める?」
「時計だと、まだ昼」
「窓の中が見える明るさ」
「それ、測れる?」
透子が窓前の布へ手を入れる。
「布の向こうから、人の顔が分かるなら昼。輪郭だけなら夜」
「あなたは色の見え方が違う」
「だから形」
女は窓から外を見る。
「いまは輪郭」
「では停止?」
「待って」
階段の向こうに、まだ二十三人いる。
夜間は通さないという条件。
条件を守れば、二十三人は保守路側に留まる。
「布を二重にする」
女が言った。
「窓へ近づかない線を床へ引く。撮影機は入口で封じる。十八時まで」
「条件変更」
「私から。ほかの世帯へも聞いて」
八世帯を回る。
六世帯は同意。
一世帯は拒否。
一世帯は、家族の寝室前だけ通行停止。
「全部の家が同意しない」
タマキ。
「経路を曲げる」
透子が言う。
拒否した家の前を避け、外階段へ一度出る。
「雨」
「十二段だけ」
「滑る」
「布索」
「誰の」
「ノノへ借りる」
「返却」
「聞く」
条件を守るため、道が十二段長くなる。
最短ではない。
無断より短い道はない。
だから、無断の道は後で一番長くなる。
ノノが布索を持って来る。
「切らないで」
「切る予定はない」
「予定がない人がよく切る」
「返却時刻」
「明日正午。汚れたら洗って翌日」
「受けた」
二十三人は外階段を十二段通り、拒否世帯の前を避けた。
通行時間は、五分延びた。
条件は破られなかった。
午後五時二十六分。
タマキは、十二口の水位札を中央へ届けた。
野々村が板へ並べる。
「どれが正しい?」
「全部、時刻の範囲で」
「平均を出す?」
「出さない」
「中央は数字をまとめる」
「平均の水位に立つ人はいません」
第一口、腰。
第二口、足首。
第三口、地下だけ胸。
第四口、道路崩落で測定不能。
平均すれば、膝くらいになる。
膝の水なら歩ける、と誰かが判断する。
実際には、胸までの人と乾いた人がいる。
「じゃあ、どう並べる」
「上昇速度」
五分で増えた量。
減った量。
変化なし。
次の五分で、同じか。
タマキは切符を縦へ並べる。
「第一、上昇二。第二、低下一。第三、地下上昇四、上階変化なし」
「一つの出口で二つ?」
「病院は地下と屋上で違う」
「複雑」
「都市です」
野々村が笑う。
「十四歳に言われると腹が立つ」
「年齢は地図に関係ありません」
「地図、信じないんじゃなかった?」
「日付を信じます」
「成長した?」
「朝から同じです」
切符の列から、保守路の水位が上がる時間帯と、住宅側の排水が空く時間帯が重なる二十八分が見つかった。
タマキは、その二十八分を丸で囲んだ。
「道、開く?」
野々村。
「一つの区間だけ」
「避難口?」
「まだ」
「いつなる」
「人が、自分で通って、向こうで受け取られた時」
「扉が開いた時じゃない?」
「扉は、人を数えません」
タマキは次の許可札を鉄箱へ入れた。
箱は、朝より重い。
道が増えたからではない。
誰が使ってよいか、誰が止められるか、何時までか。
道の周りに必要な言葉が増えたからだった。
鉄箱の中で、使用済み切符が濡れた音を立てた。