第305話 第七章「王のいない指揮所」前編
六月十三日 午後零時三十六分
竜胆迅は、水の音が嫌いだった。
嫌いだと知ったのは、ずっと前だ。
水が耳を塞いだ時に息が止まると知ったのは、この日だった。
中央指揮所は、七曲低地の旧庁舎地下にある。
災害時に地下へ指揮所を置くのは、空襲と暴動には強い。
洪水には、思想から弱かった。
正面階段は水没。
西側搬入口は扉が歪んでいる。
残る経路は、隣の税務棟からつながる地下通路だけだった。
「胸まで」
案内の作業員が言った。
「一番深いところ」
「長さ」
「七メートル」
「流れ」
「弱い。水位は上がってる」
「戻れるか」
「今なら」
「今が何分もつ」
「分からない」
「いい」
迅は上着を脱いだ。
右手の環指と小指を開く。
閉じる。
雨の日の痺れは、細い布を指へ巻いたように残っている。
握れる。
力は左より弱い。
「索」
「あります」
「俺とおまえ、別」
「一緒の方が」
「片方が詰まる」
索を二本。
迅は左手で壁の手すりを取った。
右手は索。
水へ入る。
冷たい。
腰。
腹。
胸。
案内の男が先へ進む。
「段差!」
水が喉へ来た。
迅は息を吸った。
足元が落ちる。
水が顎を越えた。
耳まで被る。
音が消えた。
その瞬間、身体が昔へ戻った。
黒い水。
倒れた壁。
掴んだ手が、手ではなく布だった記憶。
息を吐けない。
吸えない。
肺ではない。
喉でもない。
身体が、息をする順番を忘れた。
索が前へ引かれる。
案内の男が何か叫ぶ。
聞こえない。
迅は足を探した。
一歩、後ろへ。
いつもの歩数が始まりかける。
暴力の源は何だ。
水か。
地下を選んだ人間か。
保守を先延ばしにした者か。
ここへ来ると決めた自分か。
定まらない。
二歩目は取らない。
左手で手すりを殴った。
痛みが来る。
水の中では、痛みも遠い。
案内の男が戻ってきた。
迅の胸へ腕を回す。
迅はその腕を振りほどきかけた。
敵ではない。
その判断だけを、先にする。
足が床へ着いた。
顔が水から出る。
「吐け!」
男が叫ぶ。
迅は吸おうとした。
「先に吐け!」
喉から水と空気が出た。
咳。
次に吸う。
肺が動く。
「歩けるか」
「歩く」
「戻る?」
「行く」
「同じ答えじゃない」
「戻らない。行く」
「名前」
「迅」
「俺は間宮努。忘れたらまた聞く」
「忘れない」
「息は忘れた」
「うるさい」
「喋れるなら行ける」
間宮は前へ向き直った。
迅は、その背を追った。
英雄は前を歩く。
救助された者も、前を歩ける。
違いは、借りをなかったことにしないことだ。
午後零時五十二分。
中央指揮所の機器は、動いていた。
十二の表示盤。
全市放送装置。
地図投影卓。
予備電源。
動いていないのは、人だった。
指揮責任者は棚の転倒で鎖骨を折り、医療室にいる。
副責任者は頭部を打ち、意識が混濁している。
通信主任は、第一避難口の逆流を止めに出て戻っていない。
残った職員は七人。
全員が、誰かの命令を待っていた。
「竜胆迅です」
女職員が言った。
確認ではない。
期待だった。
「そうだ」
「空白の旗の現場責任者として、全市指示を」
「出さない」
七人が同時に顔を上げる。
「でも、十二口が」
「知ってる」
「指揮責任者が」
「俺じゃない」
「現場では誰かが代わらないと」
「代わる。命令じゃない仕事へ」
迅は投影卓へ行った。
十二の出口が赤い。
赤は、閉鎖。
危険。
通信不能。
確認待ち。
全部を同じ色で表示している。
「これ、分けろ」
「規格が」
「板でいい」
「中央表示と違うと混乱が」
「もう違う」
迅は一番近い椅子を取った。
座面を外す。
裏の木板へ白墨で四つ書く。
《分かっている》
《分からない》
《誰が見に行った》
《次に戻る時刻》
「十二口、全部」
「命令は?」
「聞かれたことだけ返す」
「中央なのに」
「中央だから」
職員は動かない。
迅は彼らを怒鳴らなかった。
命令を待つ癖は、命令一つで治らない。
「おまえ、名前」
最初の女。
「野々村葉」
「第一口、分かってること」
「逆流。死者――」
言葉が止まる。
「確認済みだけ」
「宮浦節子、越智誠。死亡確認。避難者の流れは停止。排水路確認中」
「分からないこと」
「逆流原因。代替路の幅。残っている人数」
「誰が」
「七瀬、工務班、住民三人」
「次」
「十三時十分」
「書け」
野々村が書く。
手が震えている。
「第二口」
別の職員が答える。
「閉鎖。鍵が中央信号を受けない」
「閉鎖理由は分かってるか」
「不明」
「なら不明」
「故障と書いた方が」
「故障か分からない」
「住民が不安になります」
「嘘なら安心する?」
「しません」
「不明で返せ」
第三。
第四。
中央指揮所は、答えを出す場所から、欠けている答えを数える場所へ変わった。
誰も拍手しない。
地図の赤は消えない。
仕事は増えた。
それでよかった。
午後二時二十一分。
南野が指揮所へ入ってきた。
運転手の上着を着ているが、車の鍵を持っていない。
青石台の撤退で頭を打った後、運転復帰を急がないと決めた男だ。
「動ける車、十七」
職員が言う。
「運転手は」
南野。
「二十二」
「休めてるのは」
「え?」
「最後の睡眠。最後の食事。連続運転」
「そこまで取ってない」
「じゃあ、動ける車は十七じゃない」
南野は四枚の紙を並べた。
《車両》
《運転手》
《休憩》
《受領時刻》
「一枚にまとめると、車が人になる」
「車は人じゃない」
「だから分ける」
迅が南野を見る。
「運転はしない?」
「しない」
「怖い?」
「怖い」
「いい」
「慰め?」
「確認」
「おまえ、便利な言葉を覚えたな」
「前から使う」
「前は殴る前の確認だった」
「今もそうだ」
「誰を殴る」
「寝てない運転手を乗せる予定表」
南野が笑った。
「紙なら俺が先に直す」
二十二人の運転手のうち、すぐ運転できる者は九人。
二時間休めば動ける者が五人。
医療確認が要る者が三人。
本人が運転を拒否した者が二人。
所在確認中が三人。
「拒否二は、理由を書く?」
野々村。
「本人が書きたいなら」
「書かないと怠慢に見える」
「見たい人に見せるために理由を出すのか」
「運行を組むため」
「運行に必要なのは、乗らないこと。理由じゃない」
南野は拒否欄へ時刻だけ書いた。
車両十七のうち、三台は担架固定具がない。
二台は後輪の溝が浅い。
一台は屋根漏り。
動くことと、使えることは違う。
使えることと、誰かを乗せてよいことも違う。
「中央って、分ける場所なんだな」
野々村が呟く。
「逆だと思ってた」
迅。
「まとめる場所」
「まとめると、抜ける」
「何が」
「人」
午後三時四十八分。
凱から無線が入った。
《東門、百四十受け入れ完了。次の枠、八十。開始十六時十》
「膝」
迅。
《報告に要るか》
「要る」
《腫れてる。装具継続。走らない》
「座れ」
《真琴にも言われた》
「聞け」
《おまえは息をしてるか》
迅は黙った。
凱の声は、中央の全市放送へは届かない。
この無線も、三回に一回途切れる。
《迅》
「してる」
《嘘だな》
「今は」
《水に入ったか》
「入った」
《一人で》
「間宮がいた」
《なら礼を言え》
「言ってない」
《戻って言え》
「おまえは門にいろ」
《中央へ行きたかったのは俺だ》
「知ってる」
《なぜ止めた》
「おまえが中央にいると、皆がおまえを見る」
《おまえなら見ない?》
「俺は顔が悪い」
《反論しづらい》
「おまえは、門で閉じる理由を言わせろ」
《おまえは》
「分からないことを返す」
《答えを出さないのか》
「出せる奴へ返す」
《王の仕事じゃないな》
「だから俺がやる」
無線の向こうで、凱が笑った。
《逆だ。だから俺にもできる》
「門を離れるな」
《命令?》
「お願い」
《似合わない》
「轟にも言われた」
《流行ってるな》
通信が切れた。
二人は同じ場所にいない。
迅は、凱が見ていないところで息を吐いた。
一度。
二度。
水の中で忘れた順番を、戻す。
午後五時二分。
指揮所に、十二枚の板が並んだ。
完全な板は一枚もない。
第一口。
死者二。残数不明。逆流原因不明。
第三口。
病院系統。移動七十二。残留十四。死者一。
第四口。
東門。受入百四十、次八十。
第六口。
保守路、私道許可待ち。
第九口。
給水塔南道路崩落。塔内判断へ移行。
他の板にも、空欄がある。
職員が訊いた。
「これで指揮できるんですか」
「しない」
「じゃあ何のために」
「空欄を、空欄のまま届ける」
「現場は困ります」
「中央が埋めた嘘よりはましだ」
「責任は」
「答えた現場。伝えたここ。変えた奴。全部」
「一人にできません」
「するな」
迅は一番上の全市命令欄を見た。
空白。
そこへ自分の名を書けば、機器は動く。
凱の名なら、もっと動くだろう。
迅は白墨を置いた。
全市命令欄を、消さない。
埋めない。
空欄の横へ書く。
《中央は、現在、全体命令を出さない》
《各現場は、判断者・理由・次の確認時刻を返す》
《中央は不明点と重複だけを返送する》
署名欄。
迅は自分の名を書かなかった。
「誰が決めたことにする」
野々村。
「ここにいる全員」
「全員署名?」
「嫌な奴はしなくていい」
最初に南野が署名した。
次に野々村。
職員が一人ずつ続く。
一人は署名しなかった。
「理由」
迅は訊かない。
署名しなかった男が、自分から言う。
「中央が放棄したと取られる」
「そう取られる」
「あなたはいいんですか」
「よくない」
「ならなぜ」
「放棄と委任は違うって、後で説明する仕事が残る」
「後で?」
「生き残ったら」
「縁起が悪い」
「事実だ」
男は署名しなかった。
反対欄へ名を書いた。
中央指揮所は、全員一致にならなかった。
それでも中継は始まった。
午後六時二十四分。
予備電源が一度、落ちた。
十二枚の板は消えない。
機械の表示は消えた。
中央指揮所の暗闇で、誰かが言った。
「もう情報が来ない」
「来る」
迅。
「無線が止まった」
「無線だけ」
「電話も」
「人がいる」
「外は水です」
「だから遅い」
野々村が手回し灯を点ける。
板の文字が円の中へ浮かぶ。
「伝令を出す?」
「誰を」
「動ける人」
「動けると出していいは違う」
迅は南野を見る。
「車は」
「道路へ出せる三台。運転手は二人休憩中。一人は拒否」
「拒否は続いてる?」
「確認する」
南野は拒否した運転手へ行かない。
別の職員に、拒否継続の確認を頼む。
本人が南野を怖がっているからだ。
「徒歩伝令」
野々村。
「透子の班が三人。全員、別現場」
「中央職員は」
「道を知らない」
「覚える」
迅は十二枚の板から、絶対に必要な質問だけを選んだ。
第一口。
排水路の水位。
第五口。
高所残留者数。
第十口。
病院屋上への接続可否。
全部を聞かない。
伝令一人が持てるのは、三つまで。
「なぜ三つ」
職員。
「覚えられる」
「紙があります」
「濡れる」
「三つ以上覚えられる人も」
「その人に合わせると、次が困る」
「能力が低い人に合わせる?」
「戻れる人に合わせる」
質問札を三角に折る。
一つ目の角に、質問。
二つ目に、返答者。
三つ目に、次の時刻。
「中央規格じゃありません」
「今日だけ」
「明日も使えたら」
「明日、決め直せ」
規則を作るたび、期限を書く。
迅は永久という言葉を信用しない。
永久の多くは、終わらせる担当者を書き忘れた一時措置だった。
職員三人が、地下通路へ向かう。
間宮努が先頭に立った。
「水、上がってる」
「胸より上?」
迅。
「一番深いところ、耳」
迅の呼吸が止まりかける。
間宮がそれを見た。
「おまえは来るな」
「案内できる」
「できると行くは違う」
「深水みたいに言うな」
「流行ってる」
「一人足りない」
「中央へ残る人が足りない」
「俺が怖がってるから?」
「そう」
間宮は隠さなかった。
「怖い人を水へ入れると、救助が二件になる」
「入れる」
「入れるだろうな。だから止める」
迅は拳を握った。
右環指が遅れる。
「命令か」
「救助者の判断。嫌なら反対欄へ書け」
指揮所の署名板を指す。
迅は反対欄へ名を書かなかった。
「戻れ」
「戻る」
「時刻」
「七時十五分。遅れたら七時二十分に捜索判断」
「誰が」
「おまえじゃない。野々村」
「なぜ」
「おまえは待てない」
迅は否定できなかった。
間宮たちは水へ入る。
迅は中央へ残った。
何もしないのではない。
戻らない時間を、待つ。
七時十三分。
足音が来た。
三人とも戻る。
「二分早い」
迅。
「褒める?」
「次はゆっくり」
「それ、褒めてるな」
質問の返事が板へ載る。
第一口、水位低下せず。排水格子の人力清掃継続。
第五口、高所残留七。本人説明済み。
第十口、病院屋上接続可能。ただし洗濯設備の許可未確認。
機械が止まっても、情報は遅れて来た。
遅れていることが分かる情報は、時刻を隠した速報より役に立った。
午後七時四十一分。
中央へ、全市命令の署名を求める使者が来た。
青い旗の地区代表。
「各地区判断では遅い。全避難者を北へ集める命令を」
「北の受入れ」
迅。
「千人」
「誰が確認」
「旗団本部」
「床荷重」
「知らない」
「医療」
「ある」
「人数」
「知らない」
「水」
「ある」
「何時間」
「細かい!」
「人は細かい」
「ここで命令しなければ、皆が勝手に動く!」
「もう動いてる」
「統制がない!」
「統制があって十二口止まった」
「だから新しい命令を」
「同じ形で?」
代表は机を叩いた。
「おまえたちは責任から逃げている!」
迅は立ち上がる。
水へ入る前なら、相手の胸倉を掴んでいた。
今も掴める。
殴れば、話は短くなる。
迅は一歩、後ろへ退いた。
代表が身構える。
七歩ではない。
椅子を一つ、二人の間へ置くための一歩。
「座れ」
「話を逸らすな」
「膝が震えてる」
「怒ってる」
「怖い?」
「何が」
「自分の地区だけで決めること」
代表は答えない。
「中央命令があれば、失敗しても中央のせいにできる」
「そんな――」
「俺もやる」
「何を」
「殴った理由を、殴られた奴のせいにする」
「一緒にするな」
「同じじゃない。似てる」
迅は北地区の板を見せた。
《受入可能 九十一》
《床荷重により閉門》
《次確認 二十時十分》
《代替 旧食堂搬入口》
「千人じゃない」
「本部は千人と言った」
「床が言ってない」
「本部の面子が」
「床は面子を支えない」
代表は椅子へ座った。
全市命令への署名欄は空白のまま。
「じゃあ、何を持って帰る」
「九十一人を受ける条件。次の時刻。代替路。千人という本部発表が誤りだと誰が訂正するか」
「俺が?」
「嫌なら、本部の誰か」
「怒られる」
「それは災害じゃない」
「俺には災害だ」
「なら、逃げ道を書け」
「訂正責任を分ける?」
「発表した者、現場を見た者、伝えた者。全部」
代表は長く息を吐いた。
「おまえ、王より面倒だな」
「知ってる」
代表は千人の紙を破らなかった。
上から線を引き、九十一と書いた。
訂正者へ自分の名。
本部確認待ちと添えた。
完全な勇気ではない。
戻って怒られた時、責任を分けられる書き方だった。
それでよかった。