第306話 第七章「王のいない指揮所」後編
一人だけ立派になる必要はない。
午後八時二十六分。
税務棟へ移る前の指揮所に、濡れた女が駆け込んできた。
「息子がいない」
名前を叫ぶ。
野々村が名簿を探す。
「同じ名前が三人います」
「十六歳。左耳に切れ目。黄色い靴」
「第六口の未照合に、年齢だけ一致が一人」
「そこへ放送して」
「全市放送は」
「使えるだろ!」
機械はまだ生きている。
全市放送で名を呼べば、十二口へ届く。
本人が逃げている事情や、所在を知られたくない相手がいる可能性も、同じように届く。
「本人が公開を拒んでいる場合があります」
野々村。
「私が母親です」
「だから、生存確認だけを先に」
「母親に場所を隠すの?」
「本人が選んでいたら」
「そんな子じゃない」
迅は女を見る。
「いつから見てない」
「朝。第一口へ行くって」
「喧嘩した?」
「関係ない」
「あるかもしれない」
「家族のことに口を出すな」
「全市へ口を出せって来たのはそっちだ」
女が息を詰める。
迅は言い方を変えなかった。
優しくすることと、曖昧にすることは違う。
「第六口へ、特徴だけ送る。名は送らない。見つかったら、生存と負傷だけ返す。場所を返すかは本人へ聞く」
「一分でも早く」
「次の伝令、八時三十五分」
「放送なら今すぐ」
「速い方が安全とは限らない」
「皆それを言う!」
「皆、痛い目を見たから」
女は濡れた髪を握った。
「見つからなかったら」
「次の質問を増やす。最後に見た人、持ち物、行き先」
「中央なのに、探してくれない」
「探す現場へ、間違えにくい質問を送る」
「それだけ?」
「それがここでできること」
伝令札へ書く。
《十六歳前後。左耳に切れ目。黄色い靴。本人へ、生存・負傷の家族通知可否を確認》
三十二分後。
返事が来た。
《本人確認。負傷なし。生存のみ母へ通知可。現在地は非公開。朝の口論について話す準備なし》
野々村が読み上げる。
女の顔が崩れた。
「生きてる」
「はい」
「どこ」
「本人は非公開を選びました」
「こんな時に」
「こんな時でも」
女は泣いた。
安心と怒りが同じ顔にある。
迅は慰めなかった。
「返事を送る?」
「何て」
「決めるのはそっち」
女は紙へ書いた。
《生きていると分かりました。戻る場所は決めなくていい。話せる時に話したい》
「これ、届けて」
「次の伝令で」
「今すぐじゃないのね」
「八時五十分」
「遅い」
「時刻は嘘をつかない」
女は頷かなかった。
それでも紙を預けた。
中央は、家族を再会させなかった。
再会するかを、家族へ返した。
午後九時九分。
迅は、中央指揮所の片隅で呼吸を数えた。
吐く。
四つ数える。
止める。
二つ。
吸う。
四つ。
間宮が教えたのではない。
阿久津サナが、濡れた紙へ書いた。
《水を思い出した時、先に吐く》
迅は紙を嫌った。
捨てなかった。
野々村が見ないふりをしている。
「見た?」
「何を」
「紙」
「見てません」
「嘘」
「撮影記録はありません」
「七瀬みたいに言うな」
「皆、似てきたんです」
「嫌だな」
「私は少し嬉しいです」
迅はもう一度、息を吐いた。
水は止まっていない。
怖さも消えていない。
呼吸だけは戻る。
戻る手順を一人で持たず、紙へ書く。
それも、中央の仕事だった。
午後十時二分。
中央指揮所の東壁から、水が出た。
最初は、針ほどの細さ。
次に、白墨の線を消す太さ。
「保守溝!」
職員が叫ぶ。
共同保守溝の圧が、壁裏へ回っている。
十二口を同じにした線が、中央そのものへ来た。
「機器を上げる!」
野々村。
「全部は無理」
南野。
「何を先に」
職員が迅を見る。
答えを待つ目。
迅は十二枚の板を見る。
全市放送装置。
地図投影卓。
予備電源。
署名板。
各地区の手書き札。
「各地区の原票」
「機器じゃない?」
「機器は直せる」
「放送が止まる」
「もう止まってる」
「予備電源は」
「水へ入る前に切る」
「誰が決める」
「設備担当」
設備担当の女が手を上げる。
「私。切る。二十二時六分」
「受けた」
原票を防水袋へ入れる。
第一口から十二口。
誰が書いたか。
時刻。
不明点。
中央で作った要約より先に、現場の紙を運ぶ。
迅は地図投影卓を持ち上げようとした。
「重い」
南野。
「持てる」
「持てると持っていいは違う」
「流行ってるな」
「腰を壊す。脚を外す」
四本の脚を外す。
卓上板を二人で運ぶ。
迅は右手を使わず、左側だけを持つ。
右環指と小指は、冷えで感覚が薄い。
「指」
南野。
「動く」
「感覚」
「半分」
「交代」
「いける」
「半分で、人の記録を落とすな」
迅は手を離した。
別の職員が持つ。
自分で作った中継所から、自分が外れる。
仕事は止まらない。
水が足首へ来る。
迅の呼吸が浅くなる。
「先に吐け」
間宮が入口から言う。
「知ってる」
「やれ」
迅は息を吐く。
四つ。
止める。
二つ。
吸う。
水は膝へ来ない。
それでも身体は、耳まで来る未来を先に思い出す。
「最後に出るな」
間宮。
「誰かが確認する」
「設備担当」
女が言う。
「私が電源と弁を確認して出る。あなたは原票を上へ」
「責任者は」
「私。弁と電源だけ」
「指揮所全体は」
「全体責任者を作らないで」
女は壁の水を見た。
「私が全体を持ったら、弁を見る目が減る」
「受けた」
迅は防水袋を持つ。
地下通路へ入らない。
税務棟の上階へ続く非常梯子を使う。
梯子は狭い。
原票を先に索で上げる。
人は後。
中央指揮所は、地下から一階の納税相談室へ移った。
机が低い。
椅子が多い。
壁に《相談は番号札順》と書いてある。
番号札を外す。
十二枚の地区板を、窓際へ並べる。
「ここが中央?」
野々村。
「今は」
迅。
「看板」
「要らない」
「誰も見つけられない」
「入口へ紙」
《旧中央指揮所は浸水のため移動》
《新しい中継場所:税務棟一階》
《次の再確認:二十三時》
「中央も避難するんですね」
「建物だから」
「権威は」
「濡れる」
「乾かせる?」
「要らない」
迅は窓の外を見る。
街の各所に、小さな灯りがある。
中央が移っても、東門は開閉を続ける。
病院は患者を運ぶ。
保守路では切符が濡れる。
中心が動いたから、街が止まることはなかった。
午後十一時十八分。
設備担当の女が、地下から戻った。
「予備電源、停止。東弁、半閉。機器二台、水没。原票、全部搬出確認」
「負傷」
迅。
「右手甲、擦過」
「医療」
「洗浄済み」
「名前」
「相良ミイ」
「記録」
「自分で書く」
相良は移動記録へ署名した。
「全体責任者欄、空白ですよ」
「空白でいい」
「後で誰かが困る」
「困った奴が、担当ごとの名を見る」
「面倒」
「楽な中央で壊れた」
相良は少し考え、空白の横へ書いた。
《全体責任を一名へ集約せず。各設備・記録・移動担当を参照》
「これなら」
「いい」
「褒めた?」
「確認」
「皆、それ使いますね」
「便利だから」
迅は椅子へ座った。
王のいない指揮所には、王座どころか、税務相談用の硬い椅子しかなかった。
それでも、十二の時刻は戻り続けた。
十二の出口から、不完全な時刻が戻る。
中央から、不完全であることが返る。
王のいない指揮所で、初めて誰も王の返事を待たなかった。