第307話 第八章「由良の帰る場所」前編
六月十三日 午後五時二十六分
鷹取由良は、帰る道を見つけるのが得意だった。
帰る時刻を決めるのは、苦手だった。
西稜線の風見塔から、剛嶺へ続く斜路が見える。
長雨で三日閉じていた道が、山側の排水によって細く現れた。
幅は一・二メートル。
左右は泥。
途中に二か所、地盤が浮いている。
通れる。
長くはもたない。
由良は灰色の外套を絞った。
「何分」
見張りの男が訊く。
「風だけなら四十。雨脚が戻れば二十」
「剛嶺まで」
「最初の受入れ所まで一時間半」
「なら行けない」
「私は行ける」
「避難者は」
「行けない人もいる」
「じゃあ行くな」
「それを決めるのは私」
男は黙った。
由良は、言いすぎたと思った。
言い直す。
「あなたが止める理由は聞く」
「地図を読めるのがあんただけだから」
「地図は読める」
「他の人は」
「教えれば」
「いまから?」
「いまだから」
眼下に、避難者の列がある。
剛嶺出身者、十一人。
天環へ残ることを選んだ者もいる。
まだ決めていない者もいる。
由良が帰れば、剛嶺側へ七曲低地の状況を直接届けられる。
帰らなければ、ここにいる者の経路判断を続けられる。
どちらも仕事だった。
人は、正しい仕事が二つある時に迷う。
間違いが二つなら、むしろ早く選べる。
「由良!」
下から小麦の声がした。
黄色い前掛けの上へ雨具を着て、食料袋を二つ抱えている。
「何しに来た」
「食べさせに」
「ここ、厨房じゃない」
「人がいるところが食事場所」
「便利な宗教だね」
「宗教じゃない。衛生規則」
小麦は平らな石へ袋を置いた。
一つに乾物。
一つに糖と塩。
「帰るなら、十二人分」
「私を入れた?」
「入れた」
「帰らないなら」
「十一人分を道の入口へ置く。由良の分はここ」
「残れと言わない?」
「言わない」
「帰れとも」
「言わない」
「冷たい」
「計算は冷たい方がいい」
昨日と同じ答えだった。
「何日」
「二日。三日目は受入れ所の在庫を使う前提」
「受入れがないかも」
「その場合は戻る分を別袋」
「戻れると思う?」
「思わない。だから戻る袋を作る」
「矛盾してる」
「帰り道は、行く人より先に要る」
由良は袋の重さを量った。
「重い」
「由良が全部持つ必要ない」
「速い人が持つ」
「速い人が転ぶと、全員の食料が転ぶ」
「転ばない」
「それ、料理人が『焦がさない』って言うのと同じ」
「焦がすの?」
「寝てないと焦がす」
「寝た?」
小麦は答えない。
「何時間」
「質問が多い」
「配達屋の影響」
「三時間」
「いつ」
「一昨日」
「寝てないじゃない」
「座った」
「眠った?」
「目を閉じた」
「それ、死者にもできる」
小麦が由良を睨む。
「縁起が悪い」
「事実」
「迅みたいに言わないで」
由良は食料袋を開いた。
中に、鍋帳の写しが一枚ある。
十二厨房のうち、休憩不足の赤丸が七。
「これ、食料より危ない」
「分かってる」
「なら休む」
「由良が地図を渡したら」
「取引?」
「交換」
「同じ」
「違う。地図は由良の仕事。休むのは私の仕事」
「じゃあ関係ない」
「関係ないから、両方やる」
由良は笑った。
「面倒な子」
「斥候に言われたくない」
午後六時三分。
由良は稜線斜路の入口に、六人を集めた。
水巻ハツ。
若い橋梁作業員。
剛嶺出身の避難者二人。
七曲の郵便係。
赤い帽子の少年。
「地図を読むには、地図を信じない」
最初の言葉に、少年が笑った。
「じゃあ何で読むの」
「古い線は、昔の誰かが通れた記録。今の道は足で確かめる」
「全部歩く?」
「最初の一人が。次の人は、その一人の言葉を確かめる」
「一人目が嘘ついたら」
「二人目が戻る」
「戻れなかったら」
「三人目を出さない」
「遅い」
「速い方が安全とは限らない」
由良が言うと、水巻が鼻を鳴らした。
「あなたが言う?」
「言う。知ってるから」
地図を六枚に写す。
由良は、赤索で近道を示さない。
代わりに、地面へ三種類の印を付ける。
縦線。
足を置いた。
横線。
荷重を掛けていない。
斜線。
戻る時に崩れる可能性。
「この印、由良しか分からない」
郵便係。
「いま説明した」
「忘れたら」
「自分の言葉へ変えて」
「勝手に?」
「意味を変えないなら」
「意味が変わったか誰が決める」
「次に使う人」
「責任を放ってる」
「渡してる」
由良は答えた。
「持ち続けるのが責任だと思ってた。でも、持ってる人が倒れたら、道ごと消える」
少年が地図へ書き足す。
《滑る》
「そこ、滑らない」
「僕は滑った」
由良は消さなかった。
道は、同じ靴で歩く者だけのものではない。
午後六時四十七分。
剛嶺へ向かう斜路の上で、風が変わった。
雨が横から来る。
地面の水が、山側ではなく谷側へ流れ始めた。
「入口を閉じる!」
見張りが叫ぶ。
由良は斜路の半ばにいた。
地図を教えるため、六人と試し歩きをしていた。
前方、百メートルに石の休憩小屋。
後方、入口まで八十。
どちらへ戻る。
由良は胸の赤索へ手を掛けた。
剛嶺側の受入れ所を、帰る場所として思い浮かべる。
何度も使った場所。
石壁。
低い屋根。
入口の錆びた鈴。
「離れて」
由良が六人へ言う。
赤索が空中へ伸びる。
帰巣線〈ホームワイヤー〉。
帰還先と現在地を、一本の線で結ぶ。
線は出た。
斜路を越え、雨を切り、剛嶺側へ伸びる。
五十メートル。
百。
その先で、赤い光が水へ沈んだ。
線が弛む。
「帰還先が――」
由良は理解した。
受入れ所そのものが浸水している。
帰る場所が、帰れる状態ではない。
赤索が逆に引いた。
由良の身体が谷側へ振られる。
「伏せて!」
六人を押し下げる。
由良は右脚で着地した。
足が泥へ沈む。
膝が内側へ折れた。
鈍い音。
痛みは、一拍遅れて来た。
白く、鋭い。
由良は声を上げなかった。
代わりに、赤索を切った。
能力を重ねない。
失敗した線を、もう一度成功させようとしない。
「戻る!」
郵便係が叫ぶ。
「小屋へ」
由良。
「入口の方が近い」
「谷側が崩れる。小屋へ」
「歩ける?」
「歩けない」
由良は即答した。
強がりは、案内人の嘘になる。
「右膝、内側。荷重無理」
「担ぐ」
「二人。残りは地図」
「地図より由良を」
「私を運ぶ道を、誰が見る」
少年が地図を開いた。
「僕」
「印、言って」
「縦線は足を置いた。横線は荷重なし。斜線は帰りに崩れる」
「いまの風は」
「谷へ。だから横線へ乗らない」
「受けた」
由良を二人が支える。
少年が先頭に立つ。
由良は、自分の地図に従わなかった。
教えた相手の地図に従った。
休憩小屋へ着くまで、十二分。
斜路の入口側が崩れたのは、十三分後だった。
午後八時十九分。
阿久津サナが由良の膝を診た。
「痛み、何に似てる」
「細い刃を、膝の内側へ差して回してる」
「回す向き」
「足を外へ向ける時」
「腫れ。圧痛。外反で不安定。骨の圧痛は少ない」
「結論」
「右膝内側側副靱帯、二度損傷の可能性。固定。荷重禁止。画像確認は雨が落ち着いてから」
「手術」
「今の所見なら不要」
「いつ走れる」
「訊く順番が悪い」
「いつ」
「六週間、装具。滑空着地は禁止」
「六週?」
「短く言っても治りません」
「歩く」
「松葉杖」
「斥候は」
「地図を渡したでしょう」
由良はサナを見る。
「聞いてた?」
「患者の話は聞く」
「盗み聞き」
「診察情報」
小麦が食料袋を持って入ってきた。
「十二人分、どうする」
由良は天井を見た。
剛嶺へ帰る道は閉じた。
受入れ所も浸水している。
「十一人分を、帰る人へ」
「帰れない」
「今日は。道が開いたら」
「由良の分」
「ここ」
「残る?」
「膝が決めたみたいに言わないで」
「じゃあ、いつ帰る」
「地図を全員へ渡した後。受入れ所の状態を別の方法で確認した後。歩かない方法を決めた後」
「許可は」
「誰の?」
「迅とか凱」
由良は笑った。
「いらない」
「そう言うと思った」
「帰るのを止める?」
「止めない。帰りの食料を計算する」
「冷たい」
「温かい粥、食べる?」
「食べる」
「じゃあ冷たくない」
小麦は椀を渡した。
由良は受け取る。
右膝へ固定具が巻かれる。
午後九時五分。
由良が寝台へ固定された直後、稜線斜路の休憩小屋から救難灯が上がった。
三回。
人がいる。
二回。
負傷者。
一回。
経路不明。
「さっきの六人?」
小麦。
「六人は戻った」
由良。
「じゃあ誰」
「剛嶺へ先に出た荷運び班。四人」
「地図を持ってる?」
「古い地図」
「由良が行くのは禁止」
サナ。
「行かない」
「顔が行く」
「顔は装具を付けてない」
「口も止める?」
「それは困る」
由良は六枚の地図の持ち主を呼んだ。
赤い帽子の少年。
郵便係。
水巻。
「三人で行く」
「由良なしで?」
少年。
「由良はここ」
「道、分からない」
「さっき歩いた」
「雨が変わった」
「だから、変わった場所を書く」
「間違えたら」
「戻る」
「戻れなかったら」
「次を出さない。休憩小屋の人へ、動かない合図を返す」
「助けに行かない?」
「助けるために、増えない」
少年は唇を噛んだ。
「由良なら行くじゃん」
「行った。膝を壊した」
「それでも助かった」
「私が?」
「みんな」
「一分遅ければ、斜路ごと落ちた」
「でも一分早かった」
「運を手順にしない」
由良はきっぱり言った。
「私の真似をするなら、失敗まで真似することになる」
少年は地図を握る。
「じゃあ、何を真似する」
「戻る印。止める時刻。分からないって言うこと」
「格好悪い」
「生きて帰ると、あとで格好つけられる」
郵便係が笑った。
「それは斥候の格言?」
「いま作った」
「記録する?」
七瀬。
「しないで」
「もう回ってる」
「消して」
「公開しない」
「皆それ、ずるい」
三人は斜路へ向かった。
由良は寝台から、無線だけを持つ。
指示を出さない。
報告へ質問を返す。
《最初の縦線、流されてる》
「地面は」
《砂利。靴が沈む》
「別の足跡」
《右に二本》
「荷運び班かもしれない。確定しない。三メートル先の石を見て」
《石、半分濡れてる》
「朝は乾いてた。水が増えた。横線へ荷重を掛けない」
《受けた》
由良は、行けと言わない。
戻れとも言わない。
現場の三人が、足元を見て決める。
十分後。
《休憩小屋、見えた》
「人数」
《四。ひとり、左腕》
「意識」
《全員ある》
「帰路」
《入口側は崩落。小屋の裏、旧採石索道》
由良の地図にはない。
「索道、誰か知る?」
水巻が無線へ入る。
《昔、塔へ石を運んだ。支柱が二本残ってる》
「使える?」
《見ないと分からない》
「私の地図にはない」
《なら、私たちが見る》
由良は一瞬、答えを失った。
自分だけが道を知っている状態を終わらせる。
それを望んでいた。
終わった瞬間は、少し怖い。