第308話 第八章「由良の帰る場所」後編
「受けた」
それだけ言った。
午後十時二十七分。
旧採石索道は、荷物を一つずつ下ろせる状態だった。
人を吊るす強度はない。
水巻たちは、索道の空籠へ負傷者の荷物を載せ、本人は山側の細い保守階段を歩く方法を選んだ。
左腕を痛めた男は、荷物を手放したくないと言った。
「中身」
郵便係。
「工具」
「名前」
「俺のじゃない。剛嶺の共同工具」
「先に下ろす」
「盗まれる」
「下で受ける人を決める」
「信用できない」
「じゃあ、工具と一緒にここへ残る?」
男は黙った。
由良が無線で言う。
「持つことと守ることは違う」
《誰に言ってる》
「私にも」
工具箱には、所有者札を三枚付けた。
送り出した者。
受け取る者。
途中で見た者。
タマキのやり方だった。
工具箱が先に下りる。
男は保守階段を歩く。
四人とも、午後十一時十三分に戻った。
由良は迎えに立たない。
立てない。
赤い帽子の少年が、地図を由良へ返そうとする。
「持ってて」
「原本じゃない」
「写しでも道」
「由良の印がある」
「上から、自分の印を書いて」
「汚くなる」
「使った地図は汚い」
「きれいなのがいい」
「飾るなら」
「飾らない」
少年は地図を折った。
自分の帽子へ入れる。
由良の胸にあった帰路が、一枚減った。
午後十一時四十八分。
由良は寝台の上で、六枚目の地図を描き直した。
右膝を伸ばしたままでは、紙の下半分へ手が届かない。
「机を下げる?」
赤い帽子の少年。
「私を上げて」
「寝台を?」
「背を」
「医者に怒られる」
「角度二十度」
「細かい」
「膝はもっと細かく痛い」
少年が背もたれを上げる。
由良は赤い線を引こうとして、止めた。
「何」
「赤、一本しかない」
「索?」
「地図の色」
「鉛筆、黒ならある」
「赤い線は、私が確認した道」
「じゃあ由良が確認してない索道は黒」
「それだと、危険に見える」
「危険か分からないんでしょ」
「そう」
「じゃあ、点々」
少年が黒い点を並べる。
《水巻たちが確認。荷物一つ。人は保守階段》
「私の地図に、他人の道が入った」
由良が言う。
「嫌?」
「少し」
「消す?」
「消さない」
「地図は由良の仕事なんでしょ」
「仕事だから、私だけの物じゃない」
「難しい」
「私も今、分かった」
由良は地図の端へ、書いた人の印を付ける欄を作った。
由良。
水巻。
郵便係。
赤帽。
「赤帽って名前じゃない」
「公開していい呼び方」
「僕の名前、知ってる?」
「知ってる」
「書かない?」
「書いてほしい?」
少年は考えた。
「今日は赤帽で」
「受けた」
「明日、変えられる?」
「変えられる」
「地図も?」
「事実が変われば。道が崩れたら消すんじゃなく、崩れた時刻を書く」
「帰れない線も残すの」
「帰れなかったことを、次の人が知らないと同じ場所で落ちる」
少年は、帰巣線が水へ沈んだ地点へ、小さな波の印を描いた。
「これ、能力が失敗した場所」
「そう」
「恥ずかしくない?」
「恥ずかしい」
「消さない?」
「消すと、また使いたくなる」
「失敗を見たら、使いたくなくなる?」
「使う前に考える」
由良は赤索の切れ端を地図の端へ置いた。
「それも残す?」
「物は返す」
「誰に」
「私に」
「自分へ返すの」
「身体から借りたから」
少年は笑った。
「由良、変な人」
「地図を帽子へ入れる人に言われたくない」
由良は地図を六人へ渡した。
原本という言葉を使わなかった。
最初に描いた紙はある。
最初に描いた人もいる。
だが、最初であることは、最後まで決める権利ではない。
六月十四日 午前零時二十二分。
剛嶺側の灯りを読むため、見張り台へ上がる役を決めた。
由良は自分の名を書かない。
「斥候なのに」
郵便係。
「脚が使えない」
「目は使える」
「見張り台まで、階段二十七」
「担ぐ」
「担がれた人の目線は揺れる」
「望遠鏡を下へ持ってくる?」
「それ」
見張り台の望遠鏡は固定式だった。
取り外すには管理者の許可が要る。
管理者は避難中。
「緊急だから外す?」
「後で戻せる」
少年。
「戻せると外していいは違う」
由良。
「皆それ言う」
「流行ってる」
望遠鏡は外さない。
鏡を二枚使い、見張り台の像を下へ落とす。
像は暗い。
左右が反転する。
「灯り、三つ」
由良。
「二つじゃない?」
「鏡の傷が一つ。動かない」
「どう見分ける」
「灯りは風で揺れる」
郵便係が時刻を取る。
灯り二つ。
長く一回。
短く三回。
受入れ所水没。
丘上へ移動。
由良だけが読まない。
六人が順に読み、同じ答えを確認する。
「由良、合ってる?」
「私は最後」
「先に言ってよ」
「私の答えに合わせるでしょ」
「信用されてるんだね」
「それが危ない」
六人の答えが揃った後、由良も読む。
「同じ」
「やった」
「私がいなくても読めた」
その言葉は、成功と寂しさの両方だった。
少年は鏡を片づける。
「いなくならないでよ」
「帰る」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「分かってるなら」
「帰っても、地図は残る」
「地図と人は違う」
「違う。だから両方へ帰る場所がいる」
由良は剛嶺の灯りを見た。
帰る場所は、待っている場所ではない。
自分が戻った後も、仕事を続けなければならない場所だった。
午前零時四十六分。
由良の右膝へ、装具の締め直しが必要になった。
「自分でやる」
由良は留め具へ手を伸ばす。
「角度が見えない」
サナ。
「感覚で」
「怪我した人の感覚は、怪我前の角度を探す」
「私の膝」
「だから説明して、あなたが選ぶ。締める手は私」
由良は不満そうに脚を出した。
「きつさ、十段階」
「四」
「いま六」
「歩くなら」
「歩かない」
「帰る時」
「車輪」
「斥候が荷車?」
「地図は車輪でも読める」
「格好悪い」
「さっき少年へ、あとで格好つけられるって言った」
「聞いてた?」
「患者の大声は聞こえる」
装具を四へ緩める。
由良は足先の色と感覚を確かめる。
「痺れなし」
「自分で確認した?」
「した」
「受けた」
サナが離れる。
由良は、手伝われたことを借りにしない。
借りにすると、返すために無理をする。
無理をすると、次の誰かが運ぶ。
「診察代」
「後で」
「無料?」
「無料にすると、あなたが次に頼みづらくなる」
「高い?」
「地図一枚で払おうとしたら高くする」
「現金、少ない」
「分割」
「医者が金の話するの」
「怪我は生活の話だから」
由良は小袋から硬貨を二枚出した。
「前金」
「受領。残りは装具を外すまで」
「六週間?」
「治れば」
「長い」
「地図の線より」
「膝は縮尺が悪い」
由良は硬貨を渡した。
治療を好意だけにしない。
帰った後にも、診察と支払いと装具の調整が続く。
この現場を離れた人間にも、翌朝の身体はある。
六月十四日 午前一時七分。
剛嶺側から、断続的な灯りが見えた。
受入れ所は浸水。
代わりに、丘上の石切場へ臨時受入れ点を移したという合図だった。
「帰れる」
避難者の一人が言う。
「今は道が閉じてる」
由良。
「朝になれば」
「分からない」
「また能力を」
「使わない」
「帰る線が別の場所へつながるかも」
「帰巣線は、私が帰ると認めた場所へしか伸びない」
「石切場を帰る場所にすれば」
「できるかもしれない」
「なら」
「しない」
「なぜ」
「場所を、能力のために故郷へ変えない」
由良は右膝の装具を見た。
「それに、失敗した力を急いで使い直すと、次は判断まで失敗する」
「怖い?」
「怖い」
「由良が?」
「斥候は怖くないと思ってた?」
「速いから」
「速い人は、怖さが追いつく前に動いてるだけ」
「今は追いついた?」
「膝が止めた」
由良は笑った。
「悪くない」
「痛そう」
「悪い」
「どっち」
「両方」
帰る人十一人は、朝まで待つことを選んだ。
待つことを、由良が命じたのではない。
灯り、道、膝、食料、受入れ先。
全部を聞いた後で、それぞれが選んだ。
一人は七曲へ残ることへ変えた。
二人はまだ決めないと言った。
由良は名簿を直した。
「減った?」
小麦。
「帰る予定は八。保留二。残る一。私を入れない」
「由良は」
「帰る」
「いつ」
「道が使えて、地図の受取人がいて、車輪で運べる時」
「条件、多い」
「帰る場所は大事だから」
「食料、計算し直す」
「冷たいね」
「粥は温かい」
二人は、同じやり取りをした。
同じ言葉でも、前とは意味が違う。
由良はもう、残るか帰るかを一人で抱えていなかった。
六月十四日 午前四時三十二分。
由良は眠れなかった。
右膝が脈に合わせて痛む。
寝台の脇には、地図の写しが十三枚積まれている。
六枚だった。
赤い帽子の少年が、戻った後に七枚増やした。
「勝手に増やした?」
「紙は小麦にもらった」
「私の印」
「写した」
「意味を全部説明できる?」
「試す?」
由良は地図を一枚取る。
「この斜線」
「帰りに崩れる可能性。朝の雨で位置が三メートル下へ変わった」
「変わったなら、同じ印を使うな」
「じゃあ斜線二本」
「意味」
「昨日の情報。現地再確認が必要」
「いい」
「褒めた?」
「確認」
「皆それ言う」
少年は地図の裏へ、自分の言葉で凡例を書いた。
《縦線=足を置いた》
《横線=見ただけ》
《斜線=戻る時危ない》
《斜線二本=昨日の話》
「昨日の話、雑」
「分かる」
「誰に」
「僕に」
「他の人に分からなきゃ地図じゃない」
「じゃあ、古い情報」
「それ」
書き直す。
由良は、地図へ自分の言葉を残さない練習を始めた。
地形の読み方を、他人の語彙へ移す。
「斥候の仕事って、道を見つけることじゃないの」
少年。
「見つけた道を、自分がいなくても使えるようにすること」
「前から?」
「今から」
「正直」
「膝が痛いから」
「痛いと正直になる?」
「速く逃げられないから」
少年は笑わなかった。
「速く逃げるの、悪い?」
「悪くない。置いてきたものを忘れなければ」
「由良は何を置いてきた」
「人に教える時間」
「今、拾ってる?」
「たぶん」
「分からない?」
「正しい答え」
少年が、由良の言い方を真似た。
午前五時十九分。
凱が寝台へ来た。
外套は泥だらけ。
左膝の装具が濡れている。
「帰ると聞いた」
「許可を取りに来たんじゃない」
「出してない」
「なら何」
「経路を聞く」
「剛嶺へ来る?」
「行かない」
「じゃあ知る必要ない」
「到着報告を受ける」
「誰が頼んだ」
「小麦」
「料理人に使われてる」
「王よりましだ」
「元王」
「皆、訂正するな」
由良は地図を見せた。
「西稜線は閉鎖。石切場受入れ点へ、北の荷車道から。車輪で三時間。膝を上げない。途中、二回休む」
「護衛」
「いらない」
「同行」
「八人の帰還予定者。保留二は別。残る一も別」
「おまえを運ぶ人」
「二人交代。賃金を払う」
「金は」
「剛嶺で払う」
「払えなかったら」
「未払いとして残す」
「小麦みたいだな」
「嫌」
凱は地図の写しを一枚取る。
「これを中央へ渡す」
「中央の許可にするな」
「到着予定と捜索判断だけ」
「予定を過ぎたら」
「一時間で連絡。二時間で経路確認。三時間で捜索判断」
「早い」
「雨の道だ」
「捜索者を増やすな」
「現地受入れ点へ先に確認する」
「受けた」
二人は署名しない。
凱が由良の帰還を承認した形にしない。
由良も、凱へ安全を保証しない。
「膝」
凱が訊く。
「痛い」
「俺も」
「競う?」
「負ける」
「王が弱気」
「元」
「しつこい」
凱は立ち上がる。
「迅は」
由良。
「中央」
「見送りに来る?」
「頼めば」
「頼まない」
「そう言うと思った」
「あなたたち、私を分かった顔する」
「分からない。予想した」
「違い」
「外れたら、俺の恥」
「記録して」
「七瀬に頼め」
凱は去った。
由良は少し笑った。
見送られたくない。
忘れられたくもない。
その二つは、同時に持てた。
午前六時三分。
地図写しの講習は、十三人へ増えた。
由良は寝台から、三つの課題を出した。
「最短路を選ぶな」
「じゃあ何を」
「引き返せる場所が多い路」
「二つ目」
「自分が歩けた路を、全員が歩けると思うな」
「三つ目」
「地図にない生活を消すな」
住宅の裏階段。
洗濯物。
植木鉢。
誰かが怖がる窓。
道としては障害。
生活としては中心。
「斥候は、邪魔な物をどける仕事じゃないの」
郵便係。
「戦争では」
「今は」
「借りる」
「返す」
「戻せない物は」
「先に言う」
「地図へ書く?」
「責任者へ渡す」
十三人は、同じ地図へ別々の線を引いた。
足の速い者。
杖を使う者。
荷車を押す者。
子どもを連れる者。
最短路は四つに分かれた。
「答え、多い」
少年。
「道だから」
「地図、一枚に収まらない」
「裏も使う」
「紙が足りない」
「小麦へ」
「料理の紙を使うと怒る」
「食料袋の裏」
「油が付いてる」
「滑る印になる」
由良は、冗談ではなく言った。
皆が笑った。
地図は、きれいな紙でなくても働く。
由良の膝が治る前に、別の人の足で更新され始めた。
斥候の足が止まる。
地図は止まらない。
六枚の写しが、六人の手にある。
帰る場所が水の中でも、帰り方まで一人の胸へ沈める必要はなかった。