第309話 第九章「反証の連鎖」前編

六月十三日 午後九時六分

 誓痕は、奇跡ではない。

 使った者の身体へ、請求書を送る契約だ。

 火群七瀬の撮影機は、その請求書が届く瞬間を三つ同時に映していた。

 北の工場通路。

 旧貨物昇降機。

 第八排水口。

 工場通路では、若い誓痕者が落ちた梁を持ち上げている。

「あと十秒!」

 彼の能力は、観衆が数える間だけ身体の出力を上げる。

 周囲の人間が数える。

「八!」

「七!」

「六!」

 梁の下を、避難者が通る。

 七瀬は持ち上がる梁を撮った。

 同じ画角で、能力が切れた後も撮る。

「三!」

「二!」

「一!」

 青年の腕が落ちた。

 梁は、轟と章吾が入れた仮受けへ載る。

 青年は膝をついた。

 鼻血。

 右腕の痙攣。

「撮るな!」

 青年の仲間が叫ぶ。

 七瀬は撮影機を下ろさない。

「本人へ聞く」

 青年へ向ける。

「発動後まで記録する。公開範囲は後で選べる。止める?」

「撮れ」

「顔は」

「顔も」

「名前」

「いまは出すな」

「受けた」

 能力の瞬間だけを切り取れば、青年は英雄になる。

 その後の痙攣まで撮れば、弱者に見えるかもしれない。

 どちらも違う。

 持ち上げた。

 倒れた。

 交代した。

 三つで一つの仕事だった。

 午後九時二十七分。

 北工場の裏手には、発動を待つ列ができていた。

 怪我人の列ではない。

 能力を使える者の列だった。

 梁を上げる者。

 熱を逃がす者。

 音を遠くへ通す者。

 濁った水の中で金属だけを光らせる者。

 登録係が、名前と条件を書き取っている。

「次。何ができますか」

「触った物の重さを、十秒だけ半分に」

「反証は」

「あとで自分が重くなる」

「どれくらい」

「使った物と同じくらい」

「その身体で?」

 少年は細かった。

 濡れた制服の肩が、骨の形に張りついている。

「できる」

「聞いているのは、できるかじゃない」

 登録係は紙を裏返した。

「使ったあと、誰があなたを運ぶ」

 少年は答えなかった。

 列の後ろから声が飛ぶ。

「使える奴が使わないでどうする!」

「そうだ、時間がない!」

 七瀬は声の方へ撮影機を向けた。

 声を上げた男は、映されると口を閉じる。

「公開していい?」

「何をだ」

「いまの言葉と顔」

「そんな暇があるか」

「じゃあ声だけ」

「切れ」

「能力者へは使えと言って、自分の言葉は使うなと言う?」

「屁理屈だ」

「理屈は、尻から出ません」

 隣でタマキが言った。

 男が彼女を見る。

「誰だ、おまえ」

「十四歳です」

「年齢は聞いてない」

「名前を聞いてないので」

 男は怒る先を失った。

 七瀬は撮影機を下ろした。

「顔は撮らない。言葉は記録へ残す」

「脅しか」

「請求書」

「何の」

「他人へ払わせようとした分」

 能力を使える者へ、使わない理由を説明させる。

 説明できなければ臆病。

 説明しても、時間を奪う。

 使って倒れれば英雄。

 使わずに残れば役立たず。

 選択肢に見えて、どちらも同じ出口へ押している。

 真琴が登録表の見出しを変えた。

《発動可能者》

 横線を引く。

《技能・経験・現在の制限》

「能力名は?」

 登録係。

「必要な時だけ、別欄へ」

「遅くなります」

「速く間違うよりは」

「災害中ですよ」

「だからです」

 列の形が変わった。

 重さを半分にする少年は、能力欄ではなく、梱包経験へ丸を付けた。

「家が運送屋」

「結び方は」

「三種類。濡れた布なら二重八の字」

「梁を吊る索がほどける」

「見ます」

「能力は」

「使わない」

「決めたのは」

「俺」

 少年は梁の下へ入らず、索の結び目へ向かった。

 二分後。

 一本の結び目が、荷重で締まりすぎる前に直された。

 誰も数えなかった。

 光もしなかった。

 梁は落ちなかった。

 七瀬は、その手を撮った。

「顔は?」

 少年が訊く。

「出す?」

「出さない。家にばれる」

「運送屋なのに」

「無断で手伝いに来た」

「怒られる?」

「帰ったら」

「帰れる?」

「帰るために結んでる」

 彼の指には、能力の光ではなく、麻索の繊維が刺さっていた。

 午後九時四十一分。

 七瀬は旧食堂の壁へ、二枚の映像を並べた。

 一枚目は、工場通路で梁を持ち上げる青年。

 二枚目は、能力を使わず結び目を直す少年。

 どちらも十五秒。

 見ていた避難者が言う。

「同じ長さなら公平?」

「違う」

 七瀬。

「じゃあ何のため」

「同じ長さにしたら、違いが見える」

「梁を持った方が大事だろ」

「結び目が抜けたら、梁を持った十秒もなくなる」

「でも映えるのは能力だ」

「映えるものだけで街を作ると、夜になると壊れる」

 避難者は画面を見比べた。

 青年の腕は震えている。

 少年の指は結び目を確かめている。

「このあと、二人は?」

「青年は診療。少年は索の点検」

「どっちが役に立った」

「その質問、誰の役に立つ?」

 避難者は鼻を鳴らした。

「記者は質問を質問で返す」

「答えを持ってるふりをしないため」

「便利だな」

「不便です。会話が長くなる」

 七瀬は映像の下へ、作業時間と交代者名を書いた。

 発動十秒。

 仮受け設置二分十七秒。

 索点検四分三十二秒。

 医療確認三分。

 能力だけを抜き出すと、災害は十秒で救われたように見える。

 残りの九分五十九秒を消した映像は、嘘ではない。

 嘘より厄介だった。

 事実の形をした省略は、誰も責任を取らないからだ。

 午後九時五十六分。

 旧食堂の一角に、《反証休止》と書かれた札が出た。

「反証を休ませるの?」

 避難者が読む。

「人を」

 サナ。

「じゃあ《能力者休憩》でいい」

「能力を使った人だけじゃない。使いかけて止めた人、周りで数え続けた人、発動後を支えた人」

「広すぎる」

「狭くすると、休んでいい人が減る」

 床には、三種類の場所がある。

 横になる。

 座る。

 話さない。

 話したい、は作らない。

 話したい人は、受付へ行ける。

 話したくない人が、黙る理由を説明しなくてよい場所を先に作る。

 梁を持ち上げた青年が、横になる札の前で止まった。

「寝たら、次が」

「交代した」

 サナ。

「俺の能力が要る」

「要る時刻」

「分からない」

「分からない仕事のために、今の身体を壊す?」

「皆、俺が使えるって知ってる」

「皆は、あなたの右腕の痙攣を持って帰らない」

「映像に残る」

 七瀬が少し離れて答える。

「公開範囲は、あなたが決める」

「英雄に見える?」

「見せ方で変わる」

「本当は」

「梁を上げた。痙攣した。交代した」

「それだけ?」

「それ以上を私が足すと、あなたが物語になる」

「悪い?」

「本人が嫌なら」

 青年は横になる札を取った。

「名前、出さない」

「受けた」

「能力名も」

「受けた」

「でも、梁は出して」

「作業記録として」

「格好いいところは」

「希望する範囲で」

「注文、多い?」

「映像は店じゃない」

「記者、商売だろ」

「いまは請求しない」

「後で?」

「公開した利益が出たら、作業者への配分を話す」

「そんなのあるの」

「作る」

「面倒」

「皆、それ言う」

 青年は横になった。

 右腕の痙攣が、五分で弱くなる。

 隣では、能力を使わなかった少年が座って指の棘を抜いている。

「おまえも休むの」

 青年。

「結び目、九本見た」

「光ってないのに」

「指は光らなくても痛い」

 二人は笑わなかった。

 休憩に、友情の成立までは必要ない。

 同じ床を使い、互いの仕事を軽くしない。

 それで十分だった。

 旧貨物昇降機では、七人が閉じ込められていた。

 昇降箱は一階と二階の間で止まっている。

 水が下から入り、箱の床を打つ。

 外の操作盤は、中央鍵の不調で動かない。

 中の声は、雨と機械音に消える。

「送り出し側、声が違う」

 澪が言った。

 彼女は昇降路の扉へ左耳を向けている。

「何人」

 古橋巡。

「六か七」

「名簿は七」

「一人、返事がない」

「意識なし?」

「分からない」

 澪は三本の笛を取り出した。

 使う前に、意味を確認する。

 低音一回。

 止まれ。

 低音二回。

 壁へ寄れ。

 長音一回。

 返事をせず、床を三回叩け。

 それらは、夕方の移動前に閉じ込められた小集団へ復唱されていた。

「中へ届く?」

 七瀬。

「高音は無理。低音と振動」

「一回だけ?」

「一回で足りなきゃ、別の手段」

 澪は低音笛を唇へ当てた。

 三声帰路〈スリー・コールズ〉

 事前に意味を共有した三つの声だけが、分断された集団へ帰路の順序を届ける。

 低音一回。

 昇降箱の中で、動く音が止まった。

 低音二回。

 壁へ身体が寄る音。

 長音一回。

 床を叩く音。

 一。

 二。

 三。

 六か所から返る。

 七つ目はない。

「六人、反応」

 澪。

「一人は」

 ミソラ。

「不明」

「扉を開ける」

 轟が昇降路の手動制動へ工具を入れる。

「箱が落ちる」

 章吾。

「落とさない」

「誰が支える」

「工場クレーン」

「届く?」

「床を一枚抜けば」

「抜いた床は」

「戻す」

「誰が」

「おまえ」

 章吾が嫌そうな顔をした。

「俺が決めた?」

「いま決めろ」

「戻す」

「受けた」

 工場クレーンの細索が、昇降箱の天井へ通される。

 過去には荷物を吊った索。

 今日は、人が落ちないように使う。

 能力は、順番を一度届けただけだ。

 箱を開けるのは、工具と索と人の手だった。

 扉が二十センチ開く。

 最初の一人が出る。

 次。

 六人目。

 箱の奥に、男が横たわっている。

 門脇俊介。

 六十一歳。

 昇降機の保守員。

 右手に青い油性鉛筆。

 床板へ、最後に確認した制動番号を書いている。

 ミソラが箱へ入る。

 頸動脈。

 呼吸。

 皮膚温。

「死亡確認、二十一時三十八分」

 推定死亡時刻は、閉じ込め直後。

 澪は笛を握った。

 能力で六人へ声は届いた。

 一人へは、届く前に終わっていた。

「一回しか使わなかったからじゃない」

 古橋が言う。

 澪は彼を見る。

「言わないで」

「でも」

「それが正しいかどうか、私が決めたい」

 古橋は頷いた。

「受けた」

 澪は二度目を使わなかった。

 使っても、死者は返らない。

 残る六人は、もう目の前にいる。

 午後十時十一分。

 第八排水口で、三人の誓痕者が同時に倒れた。

 一人は水流を曲げる。

 一人は足場の摩擦を増やす。

 一人は恐怖を声へ変えて周囲へ分ける。

 別々の能力。

 別々の条件。

 同じ失敗。

 使い続けた。

 水を曲げた女は、自分の左半身へ水圧を受け、膝をついた。

 摩擦を増やした男は、靴底だけでなく足裏の皮膚まで床へ貼りついた。

 恐怖を分けた少年は、周囲が落ち着くほど、自分だけが震えた。

「止める!」

 七瀬が叫んだ。

「まだ人がいる!」

 水流の女。

「交代」

「誰ができる!」

「能力じゃない人」

 排水口の住民が、土嚢を持って来る。

 八人。

 十二人。

 手で積む。

 水は曲がらない。

 少しずつ、流れる場所を変える。

 靴が貼りついた男を、サナが診る。

「能力を切る」

「切ったら滑る」

「他の人が砂を撒く」

「俺の仕事だ」

「足もあなたのもの」

「仕事を取るな」

「取らない。分ける」

 男が能力を切った。

 反証が返る。

 足裏の皮膚が裂ける。

 住民が砂と布を撒く。

 足場は、能力より悪い。

 十分だった。

 七瀬は、能力者と住民を同じ長さで撮った。

 派手さは違う。

 時間は同じ。

 救助映像の公平は、全員を同じ画角にすることではない。

 途中で消えた仕事を、最後まで映すことだった。

 排水口の奥から、古い女物の鍵束が見つかった。

 末永芙美。

 七十四歳。

 避難名簿では、第八口へ向かった後に未確認。

 身体は、排水溝の格子へ引っかかっていた。

 ミソラが死亡を確認する。

 所持品は、住戸鍵二本。

「この人を、能力者の失敗で死んだことにする?」

 七瀬が訊く。

「違う」

 排水担当の女が答えた。

「詰まりは、その前から。私たちが能力で持たせて、確認が遅れた」

「公開する?」

「私の名は出す」

「他の二人は」

「本人に聞いて」

「受けた」

 責任は、能力者という一語へまとめなかった。

 誰が、いつ、何を見て、何を後回しにしたか。

 水と同じで、責任にも流れがある。

 午後十一時二分。

 迅は第八排水口へ着いた。

 水は腰。

 住民が積んだ土嚢の一部が崩れ、濁流が横から来る。

「下がれ!」

 誰かが叫ぶ。

 迅は一歩、退いた。

 水が前へ出る。

 二歩。

 崩れた土嚢の角。

 三歩。

 背後に、担架。

 暴力の源を探す。

 水では広すぎる。

 土嚢の崩れか。

 排水口の詰まりか。

 長雨か。

 設計か。

 四歩目へ行かない。

「なぜ止める!」

 水流を曲げていた女が叫ぶ。

「殴る相手がいない」

「水を殴れ!」

「水は戻ってくる」

「じゃあ何ができる!」

「持つ」

 迅は担架の前へ立った。

 左肩で濁流を受ける。

 右手は、痺れている。

 七瀬が撮影機を固定台へ置き、自分も土嚢を持つ。

「撮らないのか」

 迅。

「固定で撮ってる」

「ずるい」

「褒め言葉?」

「違う」

「じゃあ働いて」

 迅が土嚢を積む。

 七歩で都市を殴ることはできない。

 一袋なら持てる。

 住民三十人が、一袋ずつ運ぶ。

 反証で倒れた能力者たちは、後ろで水位を読む。

 声で時刻を伝える。

 できる仕事へ移る。

 主役が交代しても、事件は止まらない。

 止まらないから、交代できる。

 午後十一時三十九分。

 中央広場の臨時放送板は、能力者の映像ばかり流していた。

 梁を持ち上げる青年。

 水を曲げる女。

 滑らない足場を作る男。

 編集は速い。

 倒れた後は映っていない。

 交代した住民も映っていない。

 土嚢を積んだ時間は、三秒へ縮められている。

《誓痕者が各地で避難路を確保》

 見出し。

「誰の編集」

 七瀬が放送台へ上がった。

 若い編集係が手を止める。

「映像提供、中央記録班」

「素材は私」

「公開許可がある場面だけ」

「時間を切る許可は」

「速報だから」

「何を急いで伝えた」

「救助が進んでること」

「能力者が進めてること、になってる」

「実際そうでしょう」

 七瀬は画面を指す。

 梁を持ち上げた青年が、歓声の中で十秒を耐える。

「この後、右腕が痙攣した」

「不安を煽る」

「住民へ交代した」

「地味だ」

「地味だから切る?」

「速報の尺」

「尺は誰のもの」

「放送の」

「救助者の身体より?」

 編集係が黙る。

 広場の下で、別の誓痕者が画面を見ていた。

 十六歳ほどの少女。

「私も行く」

 仲間へ言う。

「能力、何回使った」

「二回」

「反証は」

「まだ軽い」

「画面の人もできた」

 七瀬が階段を下りる。

「画面の人は、いま医療台にいる」

 少女が七瀬を見る。

「でも梁を上げた」

「上げた」

「なら私も」

「何をする能力」

「水へ入った人の身体を温める」

「自分の体温を渡す?」

「そう」

「いまの体温」

「知らない」

「測って」

「時間がない」

「あなたが倒れたら、温める人が一人増える」

「怖がらせるの?」

「条件を返す」

 少女は体温計を取らなかった。

 画面を見る。

 英雄の十秒。

 七瀬は放送台へ戻った。

「素材を差し替える」

「速報が止まる」

「止める」

「権限は」

「素材提供者として撤回」

「全映像?」

「編集済み三本。固定映像は残す」

「情報がなくなる」

「作り直す」

「何分」

「十五」

「長い」

「反証より短い」

 七瀬は自分の素材を引き上げた。

 放送板が黒くなる。