第310話 第九章「反証の連鎖」後編

 広場から不満の声。

 黒い画面へ、文字だけが出る。

《十五分後、救助と交代を同時に放送します》

《現在の避難情報は各地区板を確認してください》

 編集係は、倒れた後の映像をつなぐ。

 能力者と住民を、同じ長さへする。

 完全に同じではない。

 梁を上げた十秒。

 仮受けを入れた二分。

 腕を診た一分。

 交代を決めた三十秒。

 仕事に必要な時間だけを残す。

 十五分後。

 画面が戻る。

 少女はまだ広場にいた。

「体温、三十五・二」

 七瀬へ言った。

「低い」

「能力、使わない」

「誰が決めた」

「私」

「代わり」

「毛布を運ぶ」

「撮る?」

「顔は嫌」

「手だけ」

「手も冷たい」

「だから撮る」

 少女は毛布を持った。

 画面の外へ歩く。

 七瀬は、その後ろ姿を短く撮った。

 能力を使わなかった判断は、光らない。

 光らないものを、見えないことにしない。

 六月十四日 午前零時十七分。

 学校屋上へ残る七人のため、手動ポンプを上げる必要があった。

 階段は狭い。

 ポンプは重い。

 誓痕者なら一人で持てる、と誰かが言った。

 先ほど足場の摩擦を増やした男が、手を上げる。

「俺が」

 足裏は包帯で巻かれている。

「歩けないでしょう」

 真琴。

「能力で固定する」

「固定した足で階段を上る?」

「腕で」

「あなたが落ちた場合、ポンプとあなたを誰が受けるのですか」

「また責任の話か」

「重量の話です」

「俺が一番強い」

「今は、最も荷物が多い」

 男が顔を歪める。

 反証を負傷と呼ばれたくない。

 負傷を仕事から外す理由にされたくない。

「じゃあ何をすればいい」

 轟がポンプを分解した。

 胴体。

 取手。

 吸入管。

 脚。

「四人で持つ」

「一人で持てる物を」

「一人で持てる形に作ってあるだけだ。分けられる」

「俺の能力は」

「階段の踊り場で、部品が滑らないよう見ろ」

「使えって?」

「使うな。滑る場所を知ってるだろ」

 男は黙った。

 能力を持つ者は、能力を使わない時にも経験を持っている。

 摩擦が抜ける場所。

 靴底が食う角度。

 濡れた木と金属の違い。

「三段目、左端は乗るな」

 男が言う。

「七段目、中央。踊り場は壁側」

「理由」

 轟。

「水が薄い。見えないけど滑る」

「受けた」

 四人がポンプを運ぶ。

 男は後ろから足場を読む。

 一度も能力を使わない。

 屋上へ上がったポンプは、七人の生活水を運んだ。

 男の名は、運搬者欄ではなく経路確認者欄へ書かれた。

「小さくない?」

 男が言う。

「同じ大きさです」

 七瀬が記録板を見せる。

「欄が違うだけ」

「英雄欄は」

「ない」

「つまらない記録だ」

「長持ちします」

 男は包帯の足を引きずりながら、少し笑った。

 午前零時二十八分。

 七瀬の撮影機が一台、止まった。

 電池切れではない。

 水滴が接点へ入った。

「予備」

 野々村が差し出す。

「待って」

 七瀬は受け取らない。

 画面の向こうでは、東側学校の子ども三人が、濡れた毛布を絞っている。

 撮影機が止まったことに気づいた一人が言う。

「もう映ってない?」

「映ってない」

「じゃあ続ける」

「映ってたら?」

「大人が褒めるから嫌」

「何を」

「子どもなのに偉いって」

「子どもだから?」

「毛布が濡れてるから絞ってるだけ」

 七瀬は予備機を受け取らなかった。

「記録しない?」

 野々村。

「本人が、映ってないなら続けると言った」

「手元だけ」

「それも褒める材料になる」

「作業数は必要」

「紙」

 七瀬は書いた。

《学校屋上。毛布九枚。作業者三名、氏名・映像非公開。本人申告により撮影なし》

「目撃者」

 野々村。

「私とあなた」

「記者が証者?」

「撮ってないことの」

 子どもが笑う。

「何それ」

「カメラを向けなかった証拠」

「証拠がいるの?」

「撮らなかったと言って、本当は撮る大人もいる」

「いる」

「だから、停止時刻と機材番号を書く」

「面倒だね」

「大人は信用をなくすのが上手いから」

「子どもは?」

「同じ」

「じゃあ年齢、関係ないじゃん」

「そう」

 三人は毛布を絞る。

 水が床へ落ちる。

 七瀬の画面には残らない。

 残らない仕事を、なかったことにしない。

 残したくない人を、記録の正義で追いかけない。

 その二つは、時々同じ場所でぶつかる。

 七瀬は撮らない方を選び、撮らなかった責任だけを書いた。

 十五分後。

 毛布九枚は、低体温の避難者へ渡った。

 受取人の一人が訊いた。

「誰が絞ったの」

「非公開」

「礼を言いたい」

「礼を受け取りたいか、後で聞く」

「いま言っちゃだめ?」

「紙へ書けます」

 礼状は、送り主の名だけを書いて箱へ入れた。

 受取人を探さない。

 受け取るかどうかも、三人へ返す。

 親切は、相手の名前を知る通行証ではなかった。

 午前零時三十五分。

 七瀬は、六人目の死亡確認映像を封じた。

 宮浦節子。

 越智誠。

 橋爪莉央。

 東雲美佐。

 門脇俊介。

 末永芙美。

 六つの映像。

 一つの災害映像へまとめない。

 同じ雨の下でも、死んだ場所も、判断も、残した物も違う。

 節子の錫の指貫。

 越智の点検鍵。

 橋爪の時刻表。

 東雲の番号札。

 門脇の青い鉛筆。

 末永の住戸鍵。

 物だけを並べれば、美しい追悼画面になる。

 七瀬は並べなかった。

 物には返す相手がいる。

 画面の構図のために、一か所へ集めない。

 撮影機の前で、真琴が封印範囲を読む。

「家族確認前、非公開。原因調査班には必要箇所のみ。身体映像は、遺族の選択があるまで閲覧停止」

「撮影者も?」

 七瀬。

「あなたは既に見ています」

「もう一度は」

「必要性を記録」

「厳しい」

「あなたが作った原則です」

「自分に返ると厳しい」

「制度は、作った人を除外すると宣伝になります」

 七瀬は署名した。

 撮った者が、いちばん自由に見られるわけではない。

 記録は所有ではない。

 六つの封印札が、別々の箱へ入った。

 六月十四日 午前零時四十六分。

 鉄道保守路の奥で、深水縁の右肩が外れた。

 旧排水弁の位置を確かめるため、二度目の潜水へ入った時だった。

 索が管へ絡む。

 深水は右腕を上へ伸ばした。

 肩が前へ抜けた。

 水中で声は出ない。

 合図の索が、一度強く、次に不規則に震えた。

「戻す合図じゃない!」

 透子。

「引く」

 タマキ。

 二人と鉄道作業員が索を引く。

 深水が水面へ出る。

 右腕が不自然に下がっている。

「肩」

 深水は言った。

「外れた。呼吸は平気」

「病院」

「まず弁の位置」

「病院」

 タマキの声が強い。

「弁は」

「あなたしか知らない?」

「見たのは自分」

「言ってください」

「四十七メートル。左壁、三つ目の縦管。手動輪は半分埋没」

「誰が閉められる」

「潜れる人」

「あなた以外」

 深水が黙る。

「僕は潜れません。だから、閉める方法を地上から考えます。あなたは肩を戻す」

「命令?」

「配達です。送り主、あなた。受取人、地上の人。目的、弁の位置を使う」

「便利に使うな」

「便利です」

 深水は笑って、痛みに顔を歪めた。

 サナが肩を確認する。

「前方脱臼。神経症状は」

「指、動く。痺れなし」

「整復する。鎮痛」

「嫌い」

「好みは聞いてない」

「説明は」

「今から」

 深水の右肩は整復された。

 入院処置には入れない。

 固定し、経過観察。

 その後、深水は水へ入らなかった。

 地上の机へ座り、弁までの管の曲がりを描いた。

「潜らない潜水士って、役に立つ?」

 透子。

「潜った人が戻る道を描く」

「それ、前からできた?」

「できた。やらなかった」

「なぜ」

「自分が潜る方が早かった」

「速い方が安全とは限らない」

「由良に言われた?」

「みんな言うようになった」

 深水は左手で図を描く。

 右腕は胸へ固定。

 線は少し震える。

 それでも、地上の三人が図を読めた。

 能力も潜水も使わず、長い棒と二本の索で手動輪へ掛ける方法が作られた。

 午前一時三十八分。

 旧排水弁が四分の一閉じる。

 水位の上昇が、五分で六センチから二センチへ落ちた。

 止まってはいない。

 足りた。

 七瀬は、深水が潜る映像より長く、左手で図を描く姿を撮った。

 画面の中央に、固定された右肩がある。

 その横で、別の人の手が線を引き継いでいた。