第311話 第十章「十三番目」前編
六月十四日 午前五時十四分
環玉樹は、道の長さを足した。
住宅棟裏階段、七十四メートル。
鉄道保守トンネル、百二十六メートル。
旧食堂搬入口、六十三メートル。
旧貨物昇降機、四十一メートル。
赤錆大工場クレーン連絡床、八十六メートル。
病院屋上斜路、九十二メートル。
給水塔外周歩廊、七十八メートル。
合計、五百六十メートル。
「合ってる?」
透子。
「三回足しました」
「同じ間違いを三回したら」
「四回目は別の人が足します」
真琴が横から紙を取った。
「五百六十です」
「信用します」
「私の計算は一回ですよ」
「違う人なので」
「理屈が失礼です」
タマキは七枚の許可札を並べた。
住宅棟裏階段。
昼間通行のみ。窓前は布。撮影禁止。住民が撤回札を鉄箱へ入れた時点で停止。
鉄道保守トンネル。
水位が腰線を越えたら停止。鍵番号は非公開。作業員二名以上。
旧食堂搬入口。
炊事搬入と避難通行を時間で分ける。鍋を運ぶ時は人の列を止める。
旧貨物昇降機。
クレーン索による仮保持中だけ。定員六人。担架は一台。
赤錆大工場クレーン連絡床。
工員が荷重確認。左側手すりへ寄らない。
病院屋上斜路。
洗濯設備を一時移設。患者経路が優先。異議記録と設備貸与は別。
給水塔外周歩廊。
高所残留者の生活動線を妨げない。久我の警備は希望区画のみ。
「七枚が同じ時刻に開くのは」
真琴が訊く。
「午前六時二十分から六時四十八分」
「二十八分」
「最初の試験」
「何人」
「歩行者四十。介助十。担架二」
「少ない」
「通れなければ、五百六十メートル全部が事故現場になります」
「正しい」
「褒めました?」
「確認です」
真琴は許可札の一枚を指した。
「病院屋上。貸与者の署名がありません」
「医療側の署名は」
「設備の持ち主ではない」
「誰です」
「洗濯設備の管理を引き継いだ人」
タマキは鉄箱を背負った。
「届けに行きます」
「何を」
「質問」
「質問は荷物ですか」
「重いものがあります」
「返品は」
「できます」
午前五時四十二分。
病院屋上で、カナメの娘は洗濯紐を外していた。
母の名は、カナメ。
外環共同病院の停電で、ミソラが後回しにした患者だった。
死亡した。
娘は、母の死を「仕方がなかった」と認めていない。
ミソラも、認めさせようとしていない。
屋上斜路には、洗濯物を乾かすための滑車と支柱がある。
それを外せば、担架が九十二メートルを通れる。
「貸してほしいって?」
娘が訊いた。
「六月十四日午前六時二十分から、通行終了まで。遅くとも十五日午前零時。滑車二、支柱四、床板十二」
タマキ。
「戻す?」
「洗浄して、同じ位置へ。破損は記録。直せない場合は代替を用意」
「誰が」
「屋上作業は榎並章吾。床板は轟。返却確認はあなた」
「母の服、まだ乾いてない」
タマキは洗濯紐を見る。
一枚の薄い上着。
番号札は、東雲美佐が守った束の中にあった。
「それは移しません」
「移さないと道が狭い」
「道を狭くします」
「担架が通らない」
「別の紐へ移す許可をください」
「何が違うの」
「あなたが決める」
娘は濡れた上着へ触れた。
「ミソラが頼んだ?」
「いいえ」
「母を助けられなかった人の病院を、また助けるの?」
「病院の設備を借ります。あなたがミソラを赦すこととは別です」
「別にできる?」
「札を分けます」
タマキは二枚出した。
一枚。
《洗濯設備貸与》
もう一枚。
《カナメ死亡に関する異議・未解決》
「二枚目、誰に渡す」
「病院記録室。公開範囲はあなたが決める」
「貸したら、異議が弱く見える」
「弱く見せません」
「あなたが決めるの?」
「あなたが別だと書けば、別に運びます」
娘は鉛筆を取った。
《設備貸与は、医療判断への同意・赦し・異議撤回を意味しない》
署名はしない。
「名前、出したくない」
「では、カナメの娘。照合鍵はあなたの持つ洗濯番号」
「それでいい」
貸与札へ、番号の一部だけを書く。
母の上着は、娘自身が別の紐へ移した。
タマキは触らなかった。
道を作ることは、物を動かす許可を得ることでもある。
許可は、感情の決着ではない。
午前六時二十分。
七つの区間が開いた。
開いた、と言っても、門はない。
住宅の裏階段から人が出る。
保守トンネルの水位札を確認する。
旧食堂の搬入口で靴底の泥を落とす。
貨物昇降機へ六人ずつ乗る。
工場クレーンの連絡床を渡る。
病院屋上斜路を下る。
給水塔外周歩廊へ抜ける。
歩行者四十。
介助十。
担架二。
最初の一人は、住宅棟の七十代の男だった。
亡き妻の植木鉢を自分で動かした男。
「なんで俺が先なんだ」
「通路の持ち主だから」
タマキ。
「偉いのか」
「危険を最初に確認する役です」
「損じゃないか」
「戻れます」
「戻るのも俺?」
「嫌なら別の人」
「行く」
男は一歩踏み出した。
階段を七十四メートル。
保守トンネルへ入る。
使用済み切符の水位札が、壁へ並ぶ。
「切符、こんな使い方して怒られない?」
「使用済みです」
「人生みたいだな」
「どこが」
「終わったと思ったら、濡らされる」
「人生のことは分かりません」
「若いな」
「十四です」
「数字で返すな」
男は笑いながら歩いた。
五十二人が、二十八分で通過した。
事故ゼロ。
途中保留三。
引き返し一。
道は使えた。
次の枠を広げる。
午前七時から、歩行者百二十。
介助三十。
担架六。
札を書き替える。
所有者ごとに、継続確認を取る。
道は開いたままではない。
時刻ごとに、開き直す。
午前六時四十四分。
試験通行の最後尾が住宅棟の踊り場へ差しかかった時、鉄箱の中で札が鳴った。
撤回札。
赤い木片が一枚。
タマキは鐘を一度鳴らす。
「住宅棟裏階段、停止」
「あと六人だ!」
後方担当が叫ぶ。
「停止です」
「何があった」
「まだ分かりません」
「危険か」
「撤回です」
「危険じゃないなら通せ」
「撤回は、危険の説明がなくても止まります」
列が止まる。
階段を貸していた女が、三階の扉から出てきた。
「二階の窓布が外れた」
「すぐ直します」
作業員が言う。
「直す人を選ぶのは私」
「時間が」
「寝室が見える」
「誰も見ない」
「もう一人、見た」
列にいた男が手を上げた。
「風でめくれた。見ようとしたんじゃない」
「見えた?」
「机と、青い箱」
「箱は言わなくていい」
「すみません」
女は窓布を拾う。
指が震えている。
災害時に私生活を守る人間は、命の優先順位が分からないと言われやすい。
だが、命が助かった後に戻る場所を全部さらすなら、避難は別の喪失になる。
「私が掛けます」
女。
「足場が濡れてる」
轟。
「窓の位置は私が知ってる」
「支えるのは俺たち。布を掛けるのはあなた」
「それなら」
轟が踊り場へ仮索を張る。
女は自分で布を掛ける。
青い箱は見えなくなる。
「再開する?」
タマキが訊いた。
「三階から二階まで、一列。窓側へ手を出さない。違反したら終了」
「受けました」
新しい条件を書く。
「さっきの六人は」
「戻す?」
六人へ聞く。
一人が引き返す。
五人は続ける。
引き返した一人は、試験の失敗ではない。
道が安全でも、本人が通らないと決めることはある。
タマキは記録へ書いた。
《途中保留一。本人選択により試験枠から離脱。事故なし》
隣で真琴が言う。
「撤回が本当に働くと、予定は崩れますね」
「働かない撤回は飾りです」
「法律家として耳が痛い」
「耳は澪さんに診てもらってください」
「比喩です」
「法律は比喩が多い」
「人間が一言で済まないので」
停止から四分十三秒。
住宅棟裏階段は、前と同じ条件ではなく、言い直された条件で開いた。
午前六時五十一分。
試験通行の結果を、七区間へ返した。
住宅裏階段。
《七十四メートル。踊り場二か所で詰まり。植木鉢前は一列。窓布、ずれなし》
保守トンネル。
《百二十六メートル。水位、膝から腿。切符札三枚交換。低身長者は腰》
旧食堂搬入口。
《六十三メートル。泥落としに一人十八秒。鍋搬入と重複なし》
貨物昇降機。
《四十一メートル。六人で二分四十秒。担架一台時は四人に減員》
工場連絡床。
《八十六メートル。風、南西。左手すり使用停止。仮索二本》
病院屋上斜路。
《九十二メートル。床板三枚に浮き。患者優先。洗濯紐保護》
給水塔外周。
《七十八メートル。上階生活動線と交差二回。通行時間を区切る》
「全部つなぐと遅い」
凱が言った。
左膝を庇い、旧食堂の木箱へ座っている。
「一人平均、二十二分」
タマキ。
「千人なら」
「一列なら三百六十六時間」
「使えない」
「一列ではありません。区間ごとに同時進行。滞留点を三つ」
「どこ」
「食堂搬入口。工場休憩床。病院屋上」
「収容」
「八十、百二十、九十」
「合計二百九十」
「同じ人が移動するので、収容人数と通過人数は別」
「分かってる」
「顔が分かってません」
「顔に数字を書くな」
真琴が紙を覗く。
「ボトルネックは昇降機です」
「階段は」
凱。
「貨物昇降機横の保守梯子。歩行可能者は使える。ただし傾斜六十二度」
「危険」
「手を使える者、荷物五キロ以下、本人同意。下りだけ」
「荷物」
小麦。
「先に籠で上げる?」
「昇降機へ荷物を混ぜると人が遅れる」
「食料と薬だけ別索」
深水が図へ線を引く。
右肩は固定したまま、左手で。
「工場クレーンの戻り索を使う。人の流れと逆。角度を九度ずらす」
「九度の根拠」
轟。
「八度だと病院支柱へ触る。十度だと給水塔の札が見えない」
「見えないと何が」
「荷物が来てる時、歩行を止める合図が届かない」
「受けた」
人の道と荷物の道を分ける。
完全には分けられない。
交差する三か所だけ、時刻を決める。
七時から七時五分、薬品。
七時五分から七時二十分、人。
七時二十分から二十五分、食料。
「五分で食料、何人分」
小麦。
「索の荷重なら百二十食」
「百二十じゃ足りない」
「三往復」
「人の枠を二回止める」
「食べない人は歩けない」
「歩かない人も食べる」
「だから十二厨房」
小麦は時刻表を修正した。
食料は三往復にしない。
各厨房が、自分の区間の人へ出す。
中央から運ぶのは、医療食と糖だけ。
「効率悪い」
凱。
「一か所の鍋が倒れても、全部止まらない」
小麦。
「それ、中央と同じ話か」
「鍋は前から知ってる」
「政治は鍋より遅いな」
「政治は食べられないから」
小麦が言うと、真琴が眼鏡を押し上げた。
「食べられる政治は買収です」
「法務が勝った」
迅。
「勝敗を付ける議論ではありません」
「勝った人は大体そう言う」
笑いが短く起きた。
道の前で笑う時間は、計画表にない。
なくても必要だった。
午前七時二分。
第二枠が入る。
百五十六人。
先頭は、歩ける者ではない。
歩けるが、暗所で呼吸が乱れる男。
保守トンネルを最初に通り、自分が途中で戻れるかを確認する。
「先頭は嫌だ」
「後ろにする?」
タマキ。
「後ろも嫌だ」
「真ん中」
「真ん中は挟まれる」
「列の外」
「それは通らない」
「今日は通らないを選べます」
男は点検口を見る。
「明日もある?」
「分かりません」
「またそれ」
「正しい答えです」
「じゃあ、先頭から十人目」
「受けました」
十人目の札へ、暗所停止権を付ける。
男が止まれば、前九人と後ろの列を別々に止める。
全員を止めない。
住宅階段で、一人が窓布をめくった。
「外が見たい」
住民の女が手を押さえる。
「撮影禁止だけじゃない。窓の中を見ない条件」
「避難なのに」
「家です」
「命と家、どっちが」
「比べる必要ない。布を戻して通れる」
男は布を戻した。
保守トンネルで、子どもの靴が水へ流れた。
迅が取ろうとする。
タマキが止める。
「人を先に」
「靴がないと歩けない」
「予備、鉄箱」
「サイズ」
「合わない」
「なら取る」
深水が地上から言う。
「流れ、右へ三秒で戻る。棒を出して待つ。入るな」
迅は水へ入らない。
長い棒を出す。
三秒。
靴が戻る。
左手で引っ掛ける。
子どもへ返す。
「ありがとう」
「結べ」
「命令?」
「お願い」
「似合わない」
「流行ってるな」
旧食堂では、小麦が通過者へ食事を押しつけない。
「食べる?」
「急ぐ」
「次の区間、十八分。糖だけ」
「いらない」
「拒否、受けた。水は」
「飲む」
断った者の札へ、未摂食と書く。
工場連絡床で、風が強まる。
沼田千歳が門板を横へ置く。
「風込み三・四!」
「何が」
作業員。
「床の揺れ。三・四越えたら二人ずつ」
「単位」
「私の股関節」
「計器じゃない」
「四十年、同じ門にいる」
轟が梁の振れを見る。
「三・二。二人ずつで」
「ほら」
沼田。
「偶然」
「技師は経験へ嫉妬する」
「作業長は計器へ威張る」
「動け」
二人ずつ、八十六メートルを渡る。
病院斜路では、カナメの娘が床板の浮きを一枚ずつ踏んで確認した。
「ここ、まだ鳴る」
章吾。
「床じゃない。下の洗濯籠」
「どける?」
「中身、患者の服」
「誰の許可」
「番号札で照合。持ち主本人」
「待つ」
列を三分止める。
患者の許可を取って籠を動かす。
三分遅れる。
事故は出ない。
給水塔外周で、残ると選んだ住民と避難者の列が交差する。
「どいて」
避難列の男。
「ここ、生活路」
塔の住民。
「避難が優先だろ」
「私も生きてる」
久我が二人の間へ入る。
「閉じない。交互」
「警備が決めるな」
「決めない。先に誰が通るか、本人同士で」
塔の住民は、水桶を持っている。
避難者は、老人を支えている。
「老人、先」
塔の住民が言う。
「桶、重いだろ」
「後で運ぶ」
「持つ」
避難者の男が桶の反対側を取った。
二人は同時に通った。
交互ではない。
久我は訂正しなかった。
手順より良い判断が、その場で両者から出たからだ。
百五十六人が通過する。
予定より十七分遅い。
事故は一件。
足の擦過傷。
本人が処置を受け、歩行継続を選んだ。
遅れは、失敗欄へ入れない。
理由欄へ入れた。
午前七時十三分。
水運軌道の警報が鳴った。
七曲低地の上部には、給水槽を運ぶ短い軌道がある。
貨物列車より小さい。
水を積む分、重い。
長雨で路盤が沈み、三両の水槽車のうち先頭が脱線した。
車輪が線路を外れる。
後ろ二両が押す。
軌道は、工場クレーン連絡床の上を横切っている。
その先に、五百六十メートルの一時経路。
「止めろ!」
作業員が手動制動を引く。
錆びた連結器が伸びる。
先頭車は止まらない。
水槽一両、満載で十八トン。
三両。
速度は遅い。
遅い重量は、逃げる時間を与え、壊す力を減らさない。
「通行停止!」
タマキが鉄箱の鐘を鳴らした。
住宅側。
食堂側。
病院側。
停止札が順に上がる。
だが、連絡床には担架一台と介助者四人がいる。
戻るには十六メートル。
進むには二十四。
水槽車は、四十五メートル。
「前へ!」
轟が叫ぶ。
「短い方じゃない!」
介助者が迷う。
「前の床は梁が二本! 後ろは一!」
距離ではなく、持つ方へ。
担架が前へ動く。
水槽車が連絡床の支持塔へ当たる。
金属が鳴る。
先頭車の下から火花。
後ろ二両が押す。
「連結を切る!」
章吾。
「どこ」
轟。
「二両目と三両目。後ろを空の排水支線へ」
「切ったら二両目が押す」
「先頭と二両目は制動索。三両目だけ逃がす」
「連結爪、荷重が掛かってる」
「工具じゃ抜けない」
迅が線路脇へ着いた。
濡れた髪。
右手を一度開く。
「何を殴る」
轟が訊く。
「連結爪」
「車両じゃない?」
「押してる力を三両へつなぐ源」
「七歩、取れるか」
線路脇は狭い。
後ろに壁。
左に排水溝。
右に動く車輪。
迅は連結爪を見た。
水ではない。
雨でもない。
都市全体でもない。
いま、この一両を二両へ縛り、避難路へ押す暴力の源。
一本の鋼鉄。
「取る」
迅は一歩、退いた。
水槽車が十センチ進む。
二歩。
背中が壁へ近づく。
三歩。
右手の環指と小指が痺れる。
拳を握らない。
左拳を使う。
四歩。
車輪がレール片を跳ねる。
迅の頬を掠める。
五歩。
担架が連絡床を抜けた。
「通過!」
タマキの声。
六歩。
背後の壁まで、あと三十センチ。
連結爪は上下に震えている。
殴る瞬間に外れれば、拳が空へ抜ける。
七歩。
暴力は、歩数を数えない。
だから、人が数える。
迅の左脚が止まる。
七退一還〈セブン・リターン〉。
一歩分ずつ退いて引き受けた力が、左拳へ集まる。
迅は車両を殴らない。
人も殴らない。
連結爪の根元だけを打つ。
衝撃。
鋼鉄が割れるのではない。
歪んだ爪が、受けから跳ねた。
三両目が離れる。
「支線!」
章吾と作業員が転轍棒を倒す。
三両目は排水支線へ入る。
空の終端へ進み、土留めへ当たる。
水槽が揺れる。
横転しない。
先頭と二両目はまだ動いている。
能力は、三両目を切っただけだ。
「制動索!」
轟が叫ぶ。