第312話 第十章「十三番目」後編

 工員八人が索を巻く。

 深水が地上から、支点角度を指示する。

 右肩は固定されたまま。

「左の柱、二巻き! 右は一! 同じにするな、床が違う!」

 久我が連絡床への門を閉じる。

「閉じていい?」

 通路担当者へ聞く。

「三分だけ!」

「受けた。三分」

 水巻が給水弁を閉じる。

 車両の水を半分、非常排水へ抜く。

 重量が落ちる。

 先頭車が、支持塔の十五センチ手前で止まった。

 迅は線路脇へ膝をついた。

 左拳の皮膚が裂けている。

 新しい骨の痛みはない。

「終わった?」

 タマキ。

「車は」

 轟。

「道は」

「これから固定」

 迅は息を吐いた。

 七歩の一撃は、経路を救っていない。

 三分を作った。

 その三分を、八人の索と一人の弁と二つの判断が使った。

 午前七時四十分。

 水槽車が止まった後、誰もすぐ通行を再開しなかった。

 迅の一撃を見た人々は、道が救われたと思った。

 実際には、連絡床の支持柱が九ミリ傾いている。

 制動索の一本は、繊維が三割切れている。

 水槽から抜いた水が、病院側の排水へ流れすぎている。

「開けろ!」

 列の後ろから声。

「さっき止めたじゃないか!」

「車は止まった!」

「道は止まってる」

 轟が答える。

「何分」

「二十二」

「また待つのか!」

「待たないなら、別の道」

「ない!」

「だから直す」

 迅が立ち上がる。

 左拳へ布が巻かれている。

「俺が支える」

「支えるな」

 轟。

「九ミリなら」

「人間の身体で角度を直すと、身体が部品になる」

「持てる」

「持てるかじゃない」

「誰が戻す、だろ」

「覚えたなら下がれ」

 迅は一歩下がった。

 今度は、能力の歩数ではない。

 作業員へ場所を空ける一歩。

 章吾が切れた索を外す。

 久我が三分閉門の終了を取り消す。

「延長、十九分」

「誰の判断」

「工場作業班六、通路担当二、住民確認一。私は閉鎖操作だけ」

「受けた」

 深水が支柱の傾きを図へ書く。

「九ミリは上。根元は三」

「戻せる」

 轟。

「対向から引けば」

「右肩で言うな」

「口で言ってる」

「索の角度」

「十二度。下へ二」

 作業員が二本の索を張る。

 水巻が抜いた水の流先を、旧給水管へ切り替える。

 病院側の排水量が下がる。

 カナメの娘が屋上から報告する。

《斜路、水位一センチ低下。洗濯設備は無事》

「継続許可」

 タマキ。

《病院患者の枠を先に。異議札はそのまま》

「受けました」

 住宅棟からも。

《窓布一枚、風で外れた。再固定まで停止》

 食堂。

《鍋搬入を十分遅らせる。通行優先》

 給水塔。

《生活水運搬を北歩廊へ変更。外周継続》

 七つの返事が戻る。

 迅の一撃から、二十六分後。

 道が再開した。

 拍手は起きなかった。

 待っていた人々は、歩き出した。

 決め技の後に、二十六分の地味な仕事がある。

 それがなければ、決め技は事故の予告だった。

 午前七時五十二分。

 道を止めた二十六分は、列の中にも別の判断を作っていた。

「もう行かない」

 工場休憩床で、杖を持つ女が言った。

「再開しました」

 案内係。

「止まる道は怖い」

「止まらない道の方が危ない」

「理屈は分かる。怖いのは変わらない」

 タマキが札を持って来る。

「戻る先は」

「旧食堂」

「食堂は滞留八十。いま六十七」

「戻れる?」

「戻れます」

「後でまた来られる?」

「許可が残っていれば。残るとは約束できません」

「不親切だね」

「約束できないことを約束するよりは」

「それが親切だと思ってる?」

「思ってません。必要だと思ってます」

 女は杖の先で床を二回叩いた。

「じゃあ戻る」

 逆方向の枠を一つ作る。

 避難路は、出口へ向かう一方通行だと思われやすい。

 だが、途中で選び直せるなら、戻る人のための道も必要になる。

 前進の列を三十秒止める。

 女を旧食堂へ戻す。

 列の男が舌打ちした。

「一人のために百人を止めるのか」

 凱が木箱から立つ。

「百人は三十秒を失う。一人は戻る権利を失う。重さが同じだと思うか」

「元王様は綺麗事が好きだな」

「王だった頃は、百人を理由に一人を動かした」

「いまは逆か」

「逆じゃない。一人ずつ数える」

「それで街が間に合う?」

「間に合わせるために、作業する」

 凱の左膝がわずかに揺れた。

 男はそれを見た。

「座って言え」

「説得力が減る」

「膝が壊れたら、もっと減る」

「正しい」

 凱は座った。

 威厳は、立っている時間の長さではない。

 座るべき時に座れる人間の方が、命令を長く疑える。

 女が旧食堂へ戻ったという報告が来る。

「再開」

 案内係が言う。

 タマキが止める。

「誰の再開ですか」

「七区間の――」

「全部、確認」

 住宅。

《継続》

 保守トンネル。

《水位腿。十五分だけ》

 食堂。

《逆行者受領。再開可》

 昇降機。

《制動確認済み》

 工場。

《支持柱監視二名》

 病院。

《患者二枠優先》

 給水塔。

《生活通行と交互》

 七つの返事は、同じ言葉ではなかった。

 同じでなくても、つながる。

「今度こそ」

 案内係が息を吸う。

「七区間、継続条件確認。次の枠、入れます」

「長い」

 迅。

「短くすると誰かが消えます」

 タマキ。

「覚える」

「全部?」

「無理」

「じゃあ読みましょう」

 道は、一言で開かなかった。

 一言で開く道は、一言で閉じられる。

 午前八時二分。

 一時経路は再開した。

 再開前に、七枚の許可札をもう一度回した。

 住宅棟。

 継続。

 保守トンネル。

 水位、腿。継続二十分。

 食堂搬入口。

 炊事搬入を九時へ延期。継続。

 貨物昇降機。

 制動索再点検後、継続。

 工場連絡床。

 水槽車から十五センチ以上の間隔。人数半減。

 病院屋上。

 患者経路を先に二枠。以後継続。

 給水塔外周。

 上階生活者の移動時間を八時四十分から九時へ変更。避難通行継続。

 誰かが一括で「再開」と言わない。

 七つの継続が揃った時だけ、人が歩く。

 タマキは経路札の一番上へ書いた。

《十三番目の避難口》

「待って」

 住宅棟の女が言った。

「何です」

「十三番目って、ずっと十三になる?」

「公式口は十二です」

「これ、明日には洗濯道に戻る。番号を付けたら、誰かが残したがる」

「では、名前なし」

「名前がないと呼べない」

「仮」

「鉛筆で」

 女が言った。

「雨で消えるように」

 タマキは墨を置いた。

 黒鉛筆を取る。

 文字の前へ小さく書く。

《仮》

 経路の札は、正式名称にならなかった。

 ルビも付かない。

 呼ぶためにだけ、十三番目。

 所有するためではない。

 午前八時十二分。

 次の百人が、五百六十メートルへ入った。

 最初の曲がり角で、子どもが訊いた。

「出口、どこ?」

 タマキは前を指ささなかった。

「七つの家と仕事の先」

「長い」

「五百六十メートル」

「数字じゃなくて」

「分かりません」

 子どもが笑う。

「じゃあ一緒に行こう」

「配達中です」

「僕たちを?」

「いいえ」

 タマキは鉄箱を叩いた。

「許可を、次の人へ」

 人は荷物ではない。

 道は、人を届けるのではない。

 人が、自分で着くまでの許可をつなぐ。

 五百六十メートルの仮札が、雨の中で少しずつ薄くなった。