第313話 第十一章「災害のあとを救う」前編

六月十四日 午後六時三十二分

 避難が終わると、食事が始まる。

 正確には、避難が終わる前から始めなければならない。

 土門小麦は、十二の厨房を走っていた。

 避難後の受付には、四つの列ができていた。

 食事。

 薬。

 乾いた服。

 名前を確認したい人。

 列は互いに混ざる。

 空腹の人が薬の列へ並ぶ。

 服を受け取りたい人が、家族の名を探す。

 名前を探していた人が、食事の匂いで立てなくなる。

「列を分けないで!」

 小麦が言った。

 受付係が振り返る。

「でも四つの仕事が」

「人を分けるな。札を四つ持たせる」

「一人が全部欲しい時は」

「一回座らせる」

「座る場所がない」

「食堂の板」

「食事を置く」

「食事は手で渡す」

「人手が」

「厨房から――」

 小麦は言いかけて、止める。

 厨房の人を受付へ出せば、鍋が止まる。

 自分が行けば、十二厨房を見られない。

「避難した人から、座れる人を募る」

「働かせるの?」

「休んでから。自分が手伝うと言った人だけ。十五分交代」

「賃金」

「食事と交換にしない。作業札を出す。後で地域ごとに支払う」

「後で払えなかったら」

「未払いとして残す」

「善意じゃだめ?」

「善意は断ると悪人になる」

 小麦は受付台へ四種類の小札を置いた。

 椀。

 薬包。

 上着。

 人の輪郭。

 文字が読めなくても選べる。

「名前の札、顔じゃないの」

 透子。

「顔で本人確認しない」

「輪郭も人だよ」

「じゃあ、空の椅子」

「死者みたい」

「鍵」

「家の鍵と混ざる」

「何がいい」

 透子は、二本の線が途中で離れ、また近づく形を描いた。

「探す人と、探される人」

「離れたままの人もいる」

「近づく直前で止める」

「それで」

 四つ目の札は、触れそうで触れない二本線になった。

 名前を確認することと、会わせることは別。

 所在を知らせたくない人もいる。

 家族でも、会いたくない相手がいる。

「所在確認、公開範囲は」

 真琴が来た。

「本人、医療、家族、非公開。四つ」

「家族の定義」

「本人が選ぶ人」

「戸籍上の家族と違う場合」

「両方、別欄」

「死亡者は」

 小麦の手が止まる。

「別の机」

「なぜ」

「食事を受け取る列で死を聞かせない」

「名前を探す人は同じ入口へ来ます」

「入口で、聞く。探してる人の名を大声で言わせない」

「人手」

「一人」

「誰」

 小麦は周りを見る。

 自分と言いそうになる。

 タマキが鉄箱を置いた。

「僕がやります」

「配達は」

「質問の配達」

「十四歳に死亡照合を」

 真琴。

「死亡は言いません。名前を受け取り、照合机へ運ぶ。答えは担当が返す」

「受取人へ直接返さない?」

「僕が中身を決めません」

「できる?」

「できることと、やっていいことは違います」

 深水の言葉が、また別の人の口へ移っていた。

 タマキは入口へ立つ。

「探している人の呼び方を、ここへ書いてください。声で言わなくてもいい。公開範囲も」

 最初の女が、紙へ書いた。

 名ではなく、左手の火傷痕。

 戸籍名を知らない。

「これで探せる?」

「医療台へ照合します」

「名前がないと人じゃない?」

「呼び方があれば届けられます」

 女は少し泣いた。

 タマキは慰めなかった。

 紙を折り、鉄箱へ入れた。

 送り主。

 女。

 受取人。

 照合担当。

 目的。

 左手の火傷痕を持つ人の所在確認。

 人を荷物にしないため、質問だけを運ぶ。

 薬の札は、いちばん静かで、いちばん間違えやすかった。

「白い錠剤、朝二つ」

 避難した男が言う。

 薬係が眉を寄せる。

「白い錠剤は多いです」

「丸い」

「丸い物も」

「苦い」

「だいたい苦いです」

「じゃあ、病院へ行けば分かるだろ」

「病院の薬歴は一部、水没しています」

 男の顔から苛立ちが消えた。

「飲まないと、胸が速くなる」

「いま速い?」

「怖いから速い」

「薬が切れた時との違いは」

「分からない」

 分からないことを、本人の落ち度にしない。

 ミソラは男の脈を取った。

「手首で百八。呼吸二十二。胸痛なし」

「薬、くれ」

「白い丸い苦い薬を、推測では渡せない」

「じゃあ死ねって?」

「死なせないために、別の確認をします」

 真琴が薬照合用の紙を持って来る。

「処方した場所。薬袋の色。錠剤の割線。飲み始めた時期。副作用」

「覚えてない」

「一つずつで構いません」

「袋は、青」

「青全部ではなく、線や印は」

「魚の絵」

「東門診療所」

 薬係が反応する。

「魚印の循環器薬。朝二錠なら、赤線の袋かもしれない」

「赤い線、あった」

「まだ確定しません」

「いつ確定する」

「診療所の処方控えと照合してから」

「何分」

「伝令往復、二十六分」

「待てない」

 ミソラは時計を見る。

「五分ごとに脈と症状を確認。胸痛、失神感、呼吸悪化があれば薬を待たず処置」

「その間、何もできない?」

「座って、自分の身体を教える仕事があります」

「仕事って言えば納得すると思うな」

「納得しなくていい。協力は必要です」

 男は椅子へ座った。

 十二分後、東門から処方控えが届いた。

 薬名は、候補の一つと一致。

 量も一致。

 最終服用時刻だけが不明だった。

「今朝、飲んだ?」

「避難口で水が来た時……薬袋を持った。飲んだかは」

「袋は」

「流れた」

「なら、いま二錠を追加すると重複の可能性があります」

「また待つのか」

「半量ではなく、作用時間の違う代替を一回。本人同意があれば」

「副作用」

「眠気、血圧低下。二時間観察」

「帰れない?」

「どこへ帰るかによる」

「東門」

「東門診療台で観察できます」

 男は考えた。

「それで」

 薬は渡された。

 正解の錠剤を当てる話ではなかった。

 分からないまま、どこまで危険を減らせるか。

 誰が、その不確かさを説明するか。

 本人が、どの不便を引き受けるか。

 災害後の医療は、答えのない問題へ丸を付ける作業ではない。

 空欄を空欄のまま、次の人へ渡せる形にする作業だった。

 名を探す机では、別の問題が起きた。

「弟を探してる」

 若い女が、タマキへ紙を押しつける。

 名前と年齢。

 右眉の傷。

 最後に見た場所。

「公開範囲」

「私には全部」

「弟さんが、あなたへ所在を知らせないと選んでいた場合は」

「家族だよ」

「本人の選択を確認します」

「そんな暇が」

「あります」

「死んでたら?」

 タマキは答えを作らない。

「照合担当へ運びます」

「あなた、何も教えないのね」

「知らないので」

「安心させるくらいできるでしょ」

「安心は、届いたことを確認してから」

 女は怒ったまま紙を渡した。

 三十分後。

 弟は東門の臨時休憩所で見つかった。

 本人は、生存と負傷なしだけを姉へ知らせると選んだ。

 居場所は知らせない。

 会わない。

 返答札を読んだ女の顔が固まる。

「どうして」

 タマキ。

「それは運べません」

「理由も聞いて」

「弟さんは理由を送りませんでした」

「家族なのに」

「家族だから、理由を知る権利が自動で生まれるとは限りません」

「十四歳に何が分かる」

「十四年分しか分かりません」

「馬鹿にしてる?」

「年齢を聞かれたので」

 女は泣きそうな顔で笑った。

「腹が立つ子」

「よく言われます」

「生きてるのね」

「そこまでは公開されています」

 女は返答札を胸へ当てた。

 再会は起きなかった。

 所在確認の成功を、抱擁の数で測らない。

 会わない選択が届いたことも、ひとつの配達だった。

 乾いた服の返却台では、二つの上着が残った。

 灰色の作業着。

 子ども用の赤い雨具。

 持ち主札がない。

「自由配布へ」

 受付係が言う。

「まだ」

 洗濯班の女。

「全員の照合、終わった」

「全員が服を探したわけじゃない」

「二十四時間待つ?」

「待つ場所がいる」

「棚がない」

 小麦が座ったまま、空の米箱を指す。

「洗って、箱へ。見える場所。中身は出さない」

「見せないと探せない」

「形だけ描く」

 透子が二枚の札を作る。

 長い袖と、胸ポケット。

 小さなフードと、丸い留め具。

「色は」

「灰と赤」

「色が分からない人は」

「形」

「形が見えない人は」

「触覚見本」

 同じ素材の切れ端を、箱の外へ付ける。

 赤い雨具の裏には、油性筆で小さな魚が描かれていた。

「東門の子かも」

「魚だけで東門へ送らない」

 真琴。

「どうする」

「魚印を照合情報に加える。所在は中央。持ち主が名乗った時だけ渡す」

 夜半、灰色の作業着の持ち主が来た。

「胸ポケットに、釘が三本」

「危険物は別保管です」

「一本、曲がってる」

「形」

 男が指で曲がりを描く。

 保管袋の釘と一致する。

「上着だけ返す?」

「釘も」

「危ないので、袋のまま」

「俺の道具だ」

「返します。開けるのは外で」

 男は不満そうに署名した。

 赤い雨具は、しばらく残った。

 午後六時五十八分、小さな女の子が箱の前へ来る。

「魚、私が描いた」

「何で」

 受付係。

「お父さんの魚屋と間違えないように」

「留め具」

「右が取れやすい。糸、青」

 確認する。

 右の留め具に青い糸。

「返す」

「洗った?」

「洗浄済み」

「魚、消えてない?」

「残ってる」

 女の子は雨具を受け取った。

「ありがとう」

「洗った人へ伝える?」

「誰」

「公開していいか、聞いてから」

「じゃあ紙」

 女の子は魚の絵を一つ描いた。

 礼は、持ち主不明のまま働いた洗濯班へ後で渡された。

 服が戻るまでに、名前を大声で呼ぶ必要はなかった。

 持ち物は、本人を探す手掛かりになる。

 同時に、本人の暮らしを勝手に公開する穴にもなる。

 返却台は、見つける速さより、見つけた後に誰へ何を見せたかを残した。

 乾いた服の台では、東雲美佐が守った番号札が役に立った。

 濡れた上着。

 子どもの靴下。

 入院患者の肌着。

 番号と本人の呼称を照合する。

 番号札がない服は、自由配布にしない。

「誰のか分からないなら、使えばいい」

 避難者が言う。

「持ち主が戻るかも」

 受付係。

「寒い人がいる」

「予備服を先に」

「予備が足りない」

 小麦は服の素材を見る。

 乾きやすい物。

 肌へ直接触れる物。

 外側へ着る物。

「肌着は本人札優先。外衣は期限付き貸与。二十四時間後に再確認」

「返したら寒い」

「返す時に代わりがあるか確認」

「管理が多い」

「服は人の生活だから」

「食事より?」

「比べない」

 小麦は、食べ物以外の仕事へ口を出しすぎていると気づく。

 だが、入口で全部が混ざっている。

 自分が全部決めれば早い。

 早いことが、危険だと知っている。

「服の担当、誰」

「洗濯班」

「じゃあ私は聞くだけ。期限はそっちで決めて」

 小麦は一歩下がった。

 洗濯班の女が札を書き直す。

《外衣貸与 翌日正午まで》

「正午でいい?」

 女が借りる本人へ聞く。

「朝は病院へ行く。夕方」

《翌日十八時まで》

 本人の予定で、期限が変わる。

 小麦は口を挟まない。

 食事の列へ戻る。

 戻る場所が一つあるだけで、全部の責任者にならずに済む。

 一番厨房。

 病院屋上。

 二番厨房。

 旧食堂搬入口。

 三番厨房。

 東門魚市場。

 四番厨房。

 給水塔共同室。

 五番から十二番まで、学校、浴場、工場休憩所、倉庫、寺の軒下、列車待合、住宅集会所、中央指揮所。

 同じ献立はない。

 使える水が違う。

 火口が違う。

 食べる人の歯と体温と薬が違う。

「一番、粥が薄い!」

 無線。

「薄くしてる! 低体温と誤嚥、分けて!」

「二番、塩がない!」

「東門から三キロ運ぶ!」

「三番、皿が足りない!」

「食べられる葉で包むな、衛生が分からない! 洗った板を回して!」

「四番、十四人分多い!」

「多くない! 高所残留十四、上へ持っていく!」

 小麦は走った。

 左足の裏が痛い。

 最初は、石を踏んだ痛み。

 次に、針。

 今は、足裏の筋を一本ずつ引き剥がす感じ。

 止まらない。

 止まれば、十二の厨房が止まる。

 そう思っていた。

「小麦」

 タマキが旧食堂の入口に立っている。

「何」

「送り主は」

「今、遊ばないで」

「送り主」

「私」

「受取人」

「厨房」

「目的」

「食事を止めない」

「では、あなたが倒れたら届きません」

「倒れない」

「顔が白い」

「粉」

「頬に粉は付いてません」

「雨」

「雨は白くない」

「うるさい」

 小麦は鍋へ向かった。

 床が一度、斜めになった。

 膝をつく。

 鍋の縁へ手を掛ける。

「触らない!」

 厨房の女が叫ぶ。

 小麦は手を止めた。

 自分の手が、どの鍋へ伸びたか分からない。

 湯気が遠い。

 耳鳴り。

 唇が痺れる。

「低血糖」

 ミソラが言った。

 いつ来たのか分からなかった。

「食べた」

「何時」

「朝」

「今、十八時三十六分」

「味見してる」

「味見は食事じゃない」

「料理人には」

「身体には違う」

 ミソラが糖液を渡す。

「飲む」

「仕事」

「飲んでから」

「鍋」

「他の人が見てる」

「分量を知らない」

「鍋帳にある」

「私の字」

「読める」

「癖が」

「読めないなら聞く」

 小麦は糖液を飲んだ。

 甘い。

 甘さは、勝った味ではない。

 倒れる前に負けを認めた味だった。

「足」

 ミソラ。

「平気」

「歩いて」

「なぜ」

「診る」

「歩ける」

「歩けると歩いていいは違う」

「深水みたいに言わないで」

 小麦が一歩進む。

 左足を着いた瞬間、顔が歪む。

「足底腱膜炎、増悪」

「診断早い」

「既往がある。圧痛位置も同じ」

「厨房を回る」

「二十四時間、離脱」

「無理」

「拒否できます」

「拒否する」

「では、悪化と転倒と火傷の可能性を記録する」

「脅し」

「説明」

 タマキが十二枚の鍋帳を床へ並べた。

 赤丸が増えている。

 最後の休憩から十二時間以上、五人。

 十時間以上、九人。

 八時間以上、十四人。

「小麦だけじゃありません」

「だから私が」

「同じことを全員が言ってます」

「私が一番分かる」

「だから、皆が小麦へ聞きに来る。聞きに来るから、小麦が休めない」

「じゃあどうする」

「答えを渡す」

 厨房の女が、鍋帳を一枚取った。

「一番厨房、私が読む」

「薄粥の濃度」

「水十二、米一。誤嚥はミソラへ確認」

 魚市場の男が二枚目を取る。

「三番、皿は板。洗浄責任、中尾弦」

 給水塔の水巻が四枚目。

「四番、高所十四。水使用は貯水槽台帳と合わせる」

 次々に、鍋帳が人の手へ渡る。

「返して」

 小麦が言った。

「嫌」

 厨房の女。

「私の帳面」

「料理は私たちの腹」

「書き間違える」

「直して」

「私がいないと」

「いない夜を作る」

 小麦は床へ座った。

 座らされたのではない。

 自分で座った。

 それが、いちばん難しかった。

 午後七時十一分。