第501話 第九章「同期塔」前編
三月二十日 午後六時十二分
塔は、街を見下ろすために建てられたのではない。
街へ同じ時刻を下ろすために建てられた。
中央同期塔。
高さ四十八メートル。
三層。
一階は振動制御。
二階は音声と光。
三階は非常解除と全系統の位相盤。
外壁は白い。
窓は細い。
火群七瀬の撮影機には、墓標のように見えた。
「評価語」
補助記録員が言う。
「頭の中」
「記録しない?」
「今は」
「保留」
「覚えたね」
七瀬は黄色い覆いを外した。
《撮影再開 18:12:09》
《対象――同期塔外周、H区画床面、救助作業》
《顔識別――運用員本人の同意がある場合のみ》
《御厨朝の移動椅子利用映像――撮影しない保護を継続。代替記録あり》
H区画、百四十六人。
ほかの七区画は、すでに中央同期から一部外れている。
Hだけが、塔の拍へ直結していた。
白。
青。
床の振動。
頭上音声。
《歩調を維持してください》
夕方になっても、同じ声が続いている。
Hの人々は疲れている。
疲れるほど、自分の歩き方を考える余裕がなくなる。
前の背中。
床の光。
足裏の振動。
三つへ任せる。
「映像、全景へ戻しますか」
「戻さない」
「塔の外観が」
「足と扉」
「象徴としては」
「象徴が人を踏むところを、もう撮った」
画面の左端で、御厨朝が借りた金属脚を杖にしている。
顔は入れない。
右端では、八城レムが塔の入口へ向かう動きを見ている。
右膝装具。
走らない。
百舌忍は、手袋を左右で違える。
白い左手で運用員側。
黒い右手で回廊側。
鐘巻十夜は、H区画の人々へ一つの話をしない。
「好きな音、ある?」
「雨」
「嫌いな音は」
「雨」
「同じ?」
「屋根の下なら好き。外なら嫌い」
「場所で変わる。立派」
次の人へ。
「あなたは」
「食器」
「好き?」
「割れる前」
「割れた後は」
「片付ける音」
話す長さが違う。
呼吸が違う。
肩の上下がずれる。
十夜は能力を使わない。
拍手も求めない。
役者の技能だけで、同じ拍を崩す。
「心臓」
イオが訊く。
「普通」
「普通は数値じゃない」
「胸痛なし。動悸なし。息切れ、話しすぎ程度」
「装置作動感」
「なし」
「あとで検査」
「今日、何回目?」
「数えてない」
「迅に感染した?」
「数を言うと、あなたが軽く扱う」
「そういう信用のなさ、好きだよ」
「恋愛語に使わないで」
「心臓へ悪い?」
「私に」
塔の扉は、外から三本の横棒で固定されていた。
暴徒侵入防止。
内側にも同じ横棒が落ちる構造。
閉鎖ボタン一つで、外と内が同時に施錠される。
「安全装置は、誰に対して安全かを書いてない」
真琴が運用図を見て言う。
「外から入る人に対しては安全。中から出る人には檻です」
「切るか」
迅。
「切ると、扉が倒れる」
轟。
「外せる?」
「横棒の重さ、一本八十三キロ。支点を作れば」
「豪を呼ぶ?」
「Bの車椅子経路」
「一人で」
「やらない」
「俺は」
迅が横棒へ手を置く。
「お前は数えない」
「それ、仕事?」
「今日の」
轟は塔の脇へ置かれた保守台車を見る。
車輪四つ。
高さ調整ねじ。
「二台で一本を受ける。人は持たない」
「時間」
朝が訊く。
「一本、八分。三本、二十四。調整で三十」
「Hの床」
「あと三十分持つ保証はない」
「保証できる時間」
「ない」
「最悪」
「言葉として正確」
塔内から、扉を叩く音。
三回。
間。
二回。
忍が白い手を上げる。
《中の人。合図が規則的。こちらの拍と混ざる》
「返事を変える」
レム。
彼は右手で二回。
左肘で一回。
靴の踵で三回。
同じ場所から返さない。
塔内の打音が止まる。
少しして、内側から声。
《誰だ》
細い扉越し。
「八城レム。走れない演出家」
《何だ、それは》
「今の技能と制限。そちらは」
《室生理一。同期運用責任者》
「退出したい?」
扉の内側が黙る。
「今すぐ、答えなくていい」
レム。
《塔を止めれば、Hの人流が崩れる》
「止めたいか、じゃない。出たいか」
《運用を続ける責任がある》
「それは、出たくない?」
《……分からない》
「受領。分からない、を勝手に残留へしない」
真琴が記録する。
扉内の運用員十四人へ、一人ずつ確認が始まる。
出たい。
残る。
設備状態を見てから。
同僚と一緒なら。
家族へ連絡後。
まだ決めない。
室生理一だけが、運用責任を理由に残留を選ぶ。
「あなた一人で残ると、設備停止時の危険を一人へ集中させます」
真琴。
《責任者だから》
「責任者が被害者になれば、制度の責任が消えるわけではありません」
《では、誰が残る》
「残らない手順を作ります」
《時間がない》
「時間がないことを、あなたの身体で埋めないでください」
扉の外で、朝がH区画命令書を開く。
「内部停止。塔内退出。段階切離し」
まだ署名しない。
「退出経路が開く前には、切らない」
七瀬は、朝の手元を撮る。
顔は映さない。
青い指。
署名欄。
空白。
「空白を公開?」
補助員。
「まだ決めてないことを、決めたように映さない」
横棒一本目が、台車へ載る。
轟は右手でねじを回す。
左は低い位置で支える。
迅は人を持たない。
台車の車輪止めだけを押さえる。
「一」
迅の口が動きかける。
止める。
「何」
轟。
「何でもない」
「車輪止め、右」
「右、受領」
数字を使わず、位置を言う。
二本目。
H区画の床振動が、わずかに強くなる。
「塔が補正してる」
イオが言う。
周辺の拍が乱れたため、中央塔が同期出力を上げた。
白と青の光が明るくなる。
音声が大きくなる。
《歩調を維持してください》
人々の身体が引かれる。
十夜が話題を変える速度を上げる。
「昨日、嘘ついた?」
「ついた」
「誰に」
「言わない」
「じゃあ、言わない息を吐いて」
次。
「一番嫌いな階段」
「ここ」
「理由」
「上も下も人」
次。
忍が触覚札を渡す。
左肩へ一回。
右手へ二回。
床へ触れない合図。
レムは人の動作を分類しない。
似た動きが三人続くと、四人目へ別の姿勢を提案する。
「壁へ背中ではなく、肘だけ」
「座らず、片膝」
「目を閉じるなら、耳栓は外す」
違う合図。
違う動作。
同期塔は、それを乱れとして補正する。
出力がまた上がる。
床の振動板が、限界へ近づく。
「止めるしかない」
久世。
「中の退出がまだ」
朝。
「十四人中、九人が扉前。五人が階段」
「三階?」
「室生を含む三人が非常解除へ。二人は二階の音声盤」
「全員が一階へ降りるまで」
「Hが持たない」
七瀬はH区画の足を見る。
百四十六人。
停止札を持つ人。
小札。
札なし。
光が強くなるほど、札を持つ手が下がる。
床の拍へ、身体を預け始める。
疲労。
恐怖。
そして、頭上に新しい放送。
《中央同期命令は有効です。誘導への不参加は、移動資格の再確認対象となる場合があります》
七瀬のクランクが止まる。
「誰の放送」
補助員が通信を探す。
《中央法務自動文》
真琴の顔色が変わる。
「旧文です。削除されていない」
「止まると不利益」
七瀬。
「朝が不利益禁止を出した」
「塔は旧命令を参照してる」
朝の青い指が、命令書を強く掴む。
「放送停止」
《塔内音声盤の手動操作が必要》
「中の二人は」
《降下中》
「戻せない」
「戻さない」
真琴。
「安全な退出を優先」
H区画で、札を持たない人々が動き始める。
停止していた人まで。
資格を失うかもしれない。
列車へ乗れないかもしれない。
配給へ遅れるかもしれない。
自発的な選択と、脅しで選ばされた動作の境が崩れる。
「朝」
イオが言う。
「今、能力を使うな」
「手すりが」
H区画の右側手すり。
同期した人々の圧で、支柱が一つ外へ曲がる。
外側は、高さ四メートルの下層通路。
人が落ちれば、死亡し得る。
「右へ押されてる!」
レム。
「左へ戻す?」
「全員へ言えば、左側で圧死!」
轟は横棒二本目を台車へ載せたところ。
三本目が残る。
「扉を開けるまで、あと」
久世が時間を言いかける。
「数字を言って」
朝。
「七分」
七瀬は画面を見た。
手すりは七分持たない。
迅がHへ入る。
「数えるな!」
七瀬が叫ぶ。
「分かってる!」
迅は退かない。
前へも行かない。
人の間へ身体を斜めに入れ、右へ流れる圧を肩と腰で下へ逃がす。
右掌が床へ打ちつけられる。
手の甲に赤い腫れ。
それでも、七歩を取らない。
「一人ずつ、左へ?」
朝が言う。
イオが首を振る。
「間に合わない」
「能力なら、一動作」
「今の選択は自発的じゃない。資格を失うと脅されてる」
「使わなければ落ちる」
「使えば、強制の反証があなたへ」
「私の脚で済む」
「済まない!」
イオの声が上がる。
「あなたが倒れたら、次の判断者が消える。痛みを受ければ正しいと思うな!」
「思っていない」
「今、思った!」
朝は言葉を失う。
手すりがさらに曲がる。
支柱根元から金属片が飛ぶ。
七瀬の画面で、チカの黄色い靴がHの後方へ見える。
いつの間に移動したのか。
鍵屋へ向かう途中、Hの列に巻き込まれた。
右踵の紫糸。
左より高い。
同じ歩調へ合わせようとしている。
「チカ!」
七瀬の声は届かない。
朝も、チカを見る。
「範囲を限定する」
朝。
「手すり周辺だけ。右へ押されている人の中で、左へ半歩を選ぶ人」
「選べる状況じゃない」
イオ。
「だから、能力の条件を満たさない可能性がある」
「満たしたら?」
「一動作だけ」
「朝!」
「使わずに死者が出た責任も、私は取れない」
「取れないから、選ぶ?」
「取れないまま、選ぶ」
朝は金属脚を手放した。
立つ。
両ふくらはぎが震える。
声を上げる。
「手すり周辺の方へ! 左へ半歩を提案します。できる人だけ。動けない人は動かない。拒否しても、移動資格を失いません。先ほどの放送は旧文で、現在の命令ではありません!」
「旧文だと、どう証明する!」
群衆から声。
「私が署名しました!」
「お前の署名で歩かされた!」
「そうです!」
朝は逃げない。
「だから、今の言葉を信用しなくていい。左へ半歩が自分の身体に必要だと判断した人だけ!」
三秒。
長い。
短い。
選ぶ時間としては短い。
手すりが折れる時間としては長い。
人々の足元に、白と黒の選択板を置く余裕はない。
声。
視線。
身体の傾き。
朝の能力は、同意を読む。
しかし、恐怖と同意は、同じ顔をする。
「朝、やめろ!」
迅。
「俺が支える!」
「一人では」
「一人でやらない!」
豪が反対側から手すりへ入る。
轟が支点を作る。
レムが走らず、右膝を守りながら人へ別の姿勢を示す。
忍が白黒の手で、動かない選択もあると伝える。
十夜が話し続ける。
それでも、支柱が外れる。
旧放送が流れた直後、塔の西口から警備班が入った。
六人。
半透明の盾。
短棒。
耳栓。
彼らは悪意で来たのではない。
命令書には、同期塔周辺の「通路確保」とある。
事故時に救護と保守を通すため、群衆を壁側へ寄せる訓練も受けている。
ただし、壁側の手すりは今、外へ曲がり始めていた。
「中央を空けます!」
班長が叫ぶ。
盾が横一列へ並ぶ。
七瀬の画面で、人々の足が右へ寄る。
「止めて!」
七瀬。
「救護路を作る!」
「右手すりが壊れる!」
「現場命令は通路確保!」
「命令書の時刻!」
「十七時四十分!」
「手すり亀裂は十八時八分!」
班長の動きが一瞬止まる。
しかし、後ろの五人は訓練どおり前進する。
盾が一斉に出る。
「同じに動くな!」
レムが叫ぶ。
自分は走らない。
右膝装具を守ったまま、盾列の前へ斜めに入る。
一枚目の盾だけへ、両掌を見せる。
「あなたの名前!」
「警備班、鶴見!」
「鶴見だけ、止まる?」
「列を崩せない!」
「列が人を手すりへ押す!」
「命令が!」
「今の床を見ろ!」
鶴見の視線が、足元へ落ちる。
盾の下で、子どもの靴が横を向いている。
チカではない。
青い長靴。
「一枚目、止める!」
鶴見が自分の判断を言う。
盾一枚だけが止まる。
後ろの盾が当たる。
「二枚目、右へ逃がす!」
レム。
「命令するな!」
鶴見。
「提案! 二枚目本人、どうする!」
「右は手すり!」
「左へ半歩!」
「左は群衆!」
「盾を縦!」
二枚目の警備員が、自分で盾を縦にする。
横一列が崩れる。
通路は狭くなる。
その代わり、群衆へ押す面が減る。
三枚目は盾を床へ置く。
四枚目は後退。
五枚目は動かない。
六枚目は救護員へ盾を渡す。
一つの隊形が、六つの判断へ分かれた。
班長が怒鳴る。
「統制を戻せ!」
忍が黒い手袋を上げる。
《誰の統制》
文字板。
「警備班の!」
忍は白い手袋で、鶴見を示す。
黒で班長。
《今、命令が二つ》
「私が班長だ!」
《鶴見は現場を見た》
「命令違反だ!」
七瀬は班長の顔を撮らない。
盾番号と、発言時刻を撮る。
「班長、名前」
真琴。
「今は!」
「違反を記録するなら、命令者名が必要です」
「葛西充」
「葛西さん。十七時四十分の通路確保命令は、十八時八分の手すり損傷情報を含まない。現場変更権は」
「班長判断」
「あなた」
「そうだ」
「変更しない?」
葛西は手すりを見る。
曲がり。
人の圧。
塔の光。
「中央通路確保を中止。盾を縦。救護員の要請がある位置だけ」
「誰が決めた」
真琴。
「葛西充」
「時刻」
「十八時十七分」
「受領」
警備班は群衆を押す側から、隙間を守る側へ変わる。
ただし、先に押した責任は消えない。
青い長靴の子どもは、盾の脇へしゃがみ込む。
鶴見が手を出す。
「触る?」
子どもが首を振る。
鶴見は手を引く。
「ここにいる?」
頷く。
「盾を置く。嫌なら、動かす」
盾を横ではなく、子どもの後ろへ斜めに置く。
押すためではない。
後ろの足が直接当たらないため。
七瀬は、その盾を撮る。
「警備の善行映像?」
補助員。
「変更前も一緒に」
「押した場面」
「切らない」
「班長の判断変更は」
「残す」
「評価は」
「見た人が決める。私の説明には、両方」
盾列が崩れたことで、塔入口への道は狭くなる。
轟の台車が通れない。
「三枚、持ち上げる?」
豪。
「持ち上げない」
轟。
「縦に転がす?」
「下端が人へ当たる」
「どうする」
鶴見が言う。
「盾を分解できます。面板と枠」
「時間」
「留め具、四つ」
迅が顔をしかめる。
「数字」
「工事はいい」
轟。
「みんな都合がいい」
「今は、鶴見本人が外す。豪は枠を受ける。俺は台車の幅を測る」
「葛西は」
朝が訊く。
「残りの盾と人流」
葛西。
「鶴見の命令違反は」
「事故後に報告」
「あなたの旧命令継続も」
「報告する」
「片方を片方の言い訳にしない」
「分かっている」
「分かった範囲」
「私は、手すり情報を得た後も、隊形維持を優先した。鶴見は停止した。後の判断で私が変更した」
「受領」
盾が一枚ずつ分解される。
面板は、座っている人の背後へ風除け。
枠は、横棒を載せる台車の延長。
警備道具も、押すための役から別の仕事へ変わる。
その間、同期塔は出力を上げ続ける。
時間は増えない。
だが、一つの隊形を守ったまま急ぐより、違う仕事へ分けた人々のほうが、塔の扉へ近づいていた。
七瀬は画面の隅へ、時刻を重ねる。
《18:18:42 警備盾列の一斉前進停止》
《18:20:06 盾一枚目分解開始》
《18:21:51 面板を救護風除けへ転用》
英雄の一撃はない。
間違えた隊形が、途中で仕事を変えた記録だけがある。
その記録を残している間に、手すりの支柱がもう一度、外へ鳴った。
朝は能力を使った。
二度目の過半歩。
青い線が、手すり周辺へ走る。
左へ半歩を選んだ人々の足が、一度だけそろう。
百四十六人全員ではない。
動ける人。
動きたいと判断した人。
そして――不利益を恐れ、左を選んだ人もいる。
半歩。
圧が右手すりから抜ける。
迅と豪が倒れかけた人を床へ低くする。
轟が支柱へ仮受けを入れる。
レムが左へ寄りすぎた人へ、右肘だけ戻すよう示す。
忍が動かなかった人の周りへ空間を作る。
人は落ちなかった。
能力が切れる。
朝の両脚へ、反証が返る。
ふくらはぎの内側で、太い何かが裂ける音。
右。
左。
朝の身体が膝から落ちた。
声は出ない。
両足首が、自分のものではないように垂れる。