第502話 第九章「同期塔」後編
「朝!」
七瀬は撮影機を動かさない。
倒れた朝の顔は映さない。
足と、青い指と、空になった杖だけ。
「撮るな!」
久世が叫ぶ。
「顔は撮ってない!」
「全部止めろ!」
「理由を本人へ!」
朝は意識がある。
歯を食いしばり、言う。
「撮影……範囲」
「足元、署名、倒れた時刻。顔なし」
七瀬。
「公開は」
「医療所見が出るまで保留」
「……受領」
朝は自分で答えた。
イオが膝をつく。
「触る。両脚。靴は脱がさない」
「いい」
「足首、動かせる?」
朝は動かそうとする。
右足背が上がらない。
左も弱い。
「動かない」
「痛み」
「八」
「しびれ」
「外側。両方」
「搬送先」
「ここで指示を」
「それは治療じゃない」
「命令書が」
「命令書は、あなたの脚より軽い」
「でも」
「受ける人を決める」
ミソラは別区画。
北救護所には整形担当。
久世が通信する。
《北救護所、御厨朝。両下腿急性損傷、足背屈低下。受領可能か》
《名取枝里。一次受領。固定、神経評価。必要時に病院へ移送》
「朝。北救護所」
イオ。
「行く?」
「……行く」
「命令書は」
「久世へ」
「範囲」
「H内部停止。塔内退出確認後、切離し。署名は、私が」
「今、署名できる?」
「手は動く」
「痛み八。判断へ影響」
「内容は、前に確認した」
「塔内退出がまだ」
扉の内側から、声。
《十四人、全員一階!》
室生理一。
《退出を選ぶ! 設備停止を受領する!》
轟が三本目の横棒を台車へ載せる。
扉が開く。
運用員が一人ずつ出る。
十四。
七瀬は人数を記録する。
順位ではない。
閉じ込められた人が残っていない確認。
十四人目が扉を越える前に、一人が戻ろうとした。
背の低い運用員。
腰へ、同期塔の主鍵を下げている。
「主軸が手動です。切離し前に、温度補正を」
室生理一が腕を伸ばす。
「戻るな」
「このままだと軸受が焼けます」
「人が残れば、退出確認が終わらない」
「設備を壊した責任は、誰が」
運用員は、壊れる設備を捨てて逃げる人になりたくない。
責任感は、人を危険な場所へ戻す。
轟が扉の外から訊く。
「補正は、塔内だけ?」
「外部の緊急盤でもできます。ただし、主鍵が要る」
「鍵を渡して、手順を口頭で」
「規則では、資格者本人が」
「あなたの資格は、扉の外で消える?」
「操作盤から離れます」
「知識は消えない」
「誰が手を動かす」
轟は葛西充を見る。
「警備班に、機械保守資格者は」
鶴見が手を上げる。
「二級。同期塔は未経験」
「運用員が説明。鶴見が操作。俺が設備側を確認。三人の名前を残す」
「失敗したら」
「三人だけの責任にはしない。今の切離し判断、規則、設備設計も記録」
運用員は主鍵を握ったまま動かない。
「主鍵を渡すのは、職務放棄です」
室生が言う。
「ここへ残るのは、退出命令違反だ」
「どちらを選んでも違反」
「そうだ」
「室生主任は、どちらを」
「私は退出を選んだ。設備損傷の責任も出す」
「簡単に言う」
「簡単ではない。だから、お前へ同じ選択を強制しない」
朝は担架へ移される前の位置から声を出す。
「二つの違反を、同じ処分へしない」
運用員が朝を見る。
「調停官は、歩けない」
「今は。命令書は読める」
「今は、は期限では」
「今日、何人目でしょう」
痛みで声が途切れた。
それでも、少し笑いが起きた。
同じ時刻には笑わない。
運用員は主鍵を外す。
「外で操作します」
「呼称」
「勤務識別T十四。実名は限定記録」
「受領」
T十四は扉を越えた。
十四人。
全員退出。
鶴見が主鍵を受ける前に、両手を見せた。
「触れます」
「右手で。左の留め具は固い」
「受領」
説明は、命令より遅い。
遅いまま、外部盤の温度補正が始まる。
同期塔を止めることと、塔を無意味に焼くことは、同じではなかった。
朝は腹這いに近い姿勢で、命令書を見る。
「読んで」
真琴が一項ずつ読む。
「H区画内部停止。同期塔からの段階切離し。塔内運用員十四名の退出確認済み。移動者の停止、拒否、保留による不利益禁止。異議保全へ原記録を送付。切離し後の再起動は、別審理」
「署名」
久世が紙を固定する。
朝は青い指でペンを持つ。
手が震える。
「代筆?」
真琴。
「自分で」
「線が乱れます」
「乱れた署名でいい」
「見栄え?」
「悪いまま」
御厨朝。
青い字が歪む。
午後六時二十九分。
署名が完成する。
室生が非常解除を操作する。
同期塔の床振動が、H区画から段階的に外れる。
音声。
光。
振動。
一つずつ。
最後に、頭上の声が途切れる。
《歩調を維持してくだ――》
途中で切れた。
切離し直後、外部盤の温度警報が一度鳴った。
T十四が主鍵を回す。
鶴見が補助レバーを押す。
轟が計器の針を読む。
三人の動作は、同時ではない。
「今」
「まだ」
「二度」
「待て」
短い言葉がぶつかる。
最後に針が安全域へ戻る。
「成功?」
鶴見。
「温度補正は」
轟。
「塔停止は?」
「別」
T十四は主鍵を返そうとする。
「誰へ」
朝が訊く。
「室生主任」
「本人は受ける?」
室生が首を振る。
「停止中の設備鍵を、元の系統へ自動返却しない。保全箱へ」
「責任逃れでは」
「私の管理責任は残す。鍵の使用権だけ停止」
主鍵は、透明箱へ入れられた。
設備を止めた後に、元の持ち主へ何も考えず戻さない。
戻さないことを、没収とも決めない。
静かにはならない。
人の声。
泣く声。
怒鳴る声。
金属。
車輪。
救護員の指示。
ばらばらの音が戻る。
名取枝里から、もう一度だけ確認が入る。
《御厨朝本人へ。搬送中の記録継続を希望するか。途中で変更可能》
朝は答える前に、久世へ目を向けた。
「私の答えを、あなたが期待してる?」
「記録を続けてほしいとは思います」
「理由」
「後から、あなたが逃げたと言われないため」
「私を守るための撮影?」
「はい」
「それなら、今は断る」
久世の顔が強ばる。
「不利になります」
「不利を避けるために、負傷した身体を公開しない」
「では、何を残す」
「搬送受領時刻。痛み。足背屈。本人が撮影範囲を変更したこと」
七瀬が頷く。
「足元映像は、ここまで。以後は文書」
「さっき、足だけ続けてと言いました」
「変更します」
「受領」
七瀬は撮影機へ黄色い覆いを掛けた。
覆いを掛けた時刻も、補助記録へ入れる。
朝は、記録を拒めば責任から逃げると思われることを恐れている。
その恐れに従って身体を差し出せば、また別の命令へ歩幅を合わせる。
撮らない選択は、無罪の証拠ではない。
撮られない権利と、責任の記録を分けただけだった。
朝は布担架へ移される。
「撮影」
七瀬が訊く。
「足だけ、続けて」
「医療搬送を英雄映像にしない」
「分かっています」
「本当に?」
七瀬は朝を見る。
「私は、自分が撮ると正しいと思ったことがある。だから、今は分かってる、と言い切らない。公開前に、あなたと別の記録者へ確認する」
「受領」
朝が運ばれる。
彼女の足は、もう歩調へ合わせられない。
それは自由ではない。
壊れた身体を、自由の象徴にしてはいけない。
七瀬は、足元だけを撮り続けた。
同期塔の光が消えた後も、H区画の何人かは同じ歩調を続けていた。
機械が止まっても、身体へ入った拍は残る。
「次が本番」
イオが言った。
「今まで何だったの」
七瀬。
「設備を止める作業。これから、人が自分で止まる作業」
七瀬は撮影機を、塔から人の足へ戻した。