第538話 第三章「低地の渇き」後編

 低地の共同洗い場では、洗濯をしていなかった。

 水槽は空。

 代わりに、濡れた布が床へ並べられている。

 一枚目は、飲用に使った布。

 二枚目は、食器を拭いた布。

 三枚目は、手を拭いた布。

 四枚目は、船底の油を拭いた布。

 同じ布を、汚れの軽い順に使う。

 巴は、その順番を用紙へ書こうとした。

「書かないで」

 若い女が言った。

 顔は見せない。

 頭へ薄い布を掛けている。

 七瀬はいない。

 撮影もない。

 それでも、女は周囲の人へ背を向けた。

 巴は黒板へ書く。

《理由を聞いてよい?》

「聞かないで」

《受け取った》

 紬が言いかける前に、巴自身がうなずいた。

 女の家船には、水使用目的を公開したくない事情がある。

 病気。

 家族。

 仕事。

 違法な行為。

 被害。

 理由を知らなければ、必要性を判断できないと上流は言う。

 理由を言わなければ水を得られないなら、生活そのものが申請書になる。

 巴は新しい欄を作った。

《必要量の確認者》

《目的の公開範囲》

「確認者って誰」

 女。

《本人が選ぶ。医療者、設備者、地域確認者。いないも選べる》

「いないなら、嘘をつける」

 商船組合の若い荷役が、洗い場の入口から言った。

「水が足りないのに、理由なしで必要って言えば取れる」

 巴は荷役を見る。

 相手は口元を隠していない。

 読唇できる。

《嘘は可能》

「認めるのか」

《全員の目的を公開しても、嘘は可能》

「なら監査は」

《量を測る。目的の詳細は、必要な確認者だけ》

「病院だと言って工場へ流す」

《病院使用量は設備で確認。患者名は不要》

「家庭だと言って商売へ」

《家庭最低量と追加量を分ける。追加には理由または確認》

「理由なしは」

《最低量を失わない》

 荷役が苛立つ。

「悪いやつも?」

《悪いと決まる前も、決まった後も、飲む水は必要》

「盗んだ水で?」

 巴の右人差し指が、固定布の中で痛む。

 質問に答えようとすると、指が動く。

 動かなくても、考えは止まらない。

 巴は左手で書く。

《盗んだ行為は別に審理。飲水を罰へ使わない》

「甘い」

《あなたは、何を減らす?》

「何」

《理由を言えない人の最低水量を削る案なら、削った分を誰へ渡す?》

 荷役は答えない。

 紬が横から言う。

「受け取る?」

「今は保留」

 荷役。

「期限」

「明日、正午」

「受け取った」

 翼が、すぐ青い保留札を出した。

「今、配達?」

「口頭回答を、本人が記録希望」

「希望してない」

「確認」

 翼が訊く。

「保留を記録する? しない?」

「する。名前は出さない」

「受領」

 翼は、札へ時刻だけを書いた。

 荷役が、自分の言葉が紙になったのを見て、少しだけ顔をしかめる。

「消せる?」

「保留期限前なら」

「期限後」

「保留が切れた事実は残る。内容は返却できる」

「面倒」

「配達は面倒」

 翼は笑った。

 午後七時二十八分。

 下流水上区では、夜の水位を《寝返り》と呼ぶ船があった。

 夜風で船が向きを変え、船底の片側だけが泥へ当たる。

 住民は寝る前に家具を数センチ動かす。

「これ、協定にいる?」

 巴が訊いた。

 老女は言う。

「水位が低い夜は、子どもが転がる」

《必要》

「でも、上流の紙へ寝返りと書いたら笑われる」

《説明を付ける》

「説明された言葉は、もう私の言葉じゃない」

 巴は止まる。

 親文字へ説明を置き、地域語を残す。

 それでも、外部が理解できるようにした瞬間、言葉の所有が少し動く。

 紬が青緑布を結ぶ。

「相手に読ませないと、協定にできない」

「読ませたら、奪われる言葉もある」

 老女。

「なら、数字だけ」

「数字にしたら、寝返りで落ちた子の話が消える」

「どうしたい」

「知らない」

 紬はすぐ返さない。

 相手の要求を鏡返しする癖を止める。

「知らない、を残す?」

「それなら」

 巴は用紙へ書く。

《地域語の公開――保留》

《必要水位――数値公開》

《理由――限定確認》

 言葉と数字を分ける。

 老女は用紙へ指を置いた。

「私が死んだら、誰が公開を決める」

 巴は答えを持っていない。

《この協定は三十日。死後の公開は決めない》

「逃げた」

《はい》

「正直」

《褒めた?》

「記録」

 紬が笑う。

「感染してる」

 巴は句点を親指でなぞった。

 午後八時五十五分。

 第一係留列の老女が、朝の質問へ返事を受け取った。

《上流の人は、鍋底を知っているか》

 折部翼が運んだ封筒には、上流水利会の印がある。

 受領ではない。

 質問返し。

《鍋底の定義を示してください。上流では、家庭床面と船体水位の関係を確認できません》

 老女が鼻を鳴らす。

「知らないって、長く書いたね」

 巴はうなずく。

「返す?」

 翼が訊く。

「返す」

「受領回答?」

「保留。明日、船を見に来いって」

「招待?」

「見学条件。靴を脱ぐ。家族の顔を見ない。床の傾きだけ」

「宛先」

「上流水利会。来る人の名前は、事前に」

「目的」

「鍋底を知る」

「料金」

「上流持ち」

 価が口を開く。

 老女が先に言った。

「交渉料は別。見学の水は飲ませない」

 価は少し笑った。

「値付け、上手」

「長く貧乏だからね」

 翼は新しい封筒を作る。

 差出人名は、老女の希望で限定記録。

 受取側は組織名。

 目的は、鍋底を知る。

 翼は封を閉じた。

「届く保証はしない」

「拒否されたら」

「赤札で戻る」

「保留」

「青」

「宛先違い」

「黄」

「受け取ったら」

「白」

「白が一番偉い?」

 翼が止まる。

「前は、そうだった」

「今は」

「色を変える?」

 巴は首を振る。

《色の意味を上下にしない。形を変える》

 受領は丸。

 拒否は四角。

 保留は三角。

 返送は切れ目。

 色が見えない場所でも触って分かる。

「紙屋みたい」

 翼。

《配達屋の提案》

「料金、上がる」

《理由を明記》

「面倒」

《はい》

 翼は封筒へ、三角の保留札を貼った。

 老女が言う。

「まだ保留なのかい」

「上流が見に来るまで」

「来なかったら」

「来なかった事実を返す」

「返事にならない」

「不達は、返事じゃない。でも、なかったことにはしない」

 翼は義足へ体重を移した。

 新しい歩幅は、まだ左右で違う。

 午後十時十二分。

 巴は共同洗い場の床へ、三種類の紙を並べた。

 共通平文。

 地域別紙。

 個別非公開票。

 その横へ、返送された三通。

 質問返し一通。

 新しい見学依頼一通。

 同意は、まだゼロ。

 紬が訊く。

「失敗?」

 巴は黒板へ書く。

《今日、分かったこと》

 水使用目的は一つの欄へ入らない。

 浮力は一日量で測れない。

 地域語を説明すると所有が動く。

 理由非公開でも最低水量を失わせない。

 受領以外も配達結果。

 空欄は、不足ではなく選択の場合がある。

「多い」

《結論は少ない》

「明日、間に合う?」

《分からない》

「病院の残り」

《三十一時間》

「商船の豆」

《二日》

「上池」

《五日から六日。運用で変動》

「低地」

 巴は、干上がった船底を見る。

《今夜》

 紬は青緑布の結び目を、一つほどいた。

「嘘?」

《何が》

「私が、紙を作れば合意できると思った」

《私も》

「同じ?」

 巴は少し考えた。

《違う理由で、同じ間違い》

「それ、好き」

《有料》

「また?」

《学習料》

 巴が空欄を残した夜、下流の共同洗濯場から苦情が来た。

 用紙の《住居》欄に、家船を停める場所を書けないという。

「住居は船」

「船は動く」

「では係留地」

「毎晩変わる」

「現在地」

「潮でずれる」

 巴は欄を消した。

 代わりに書く。

《連絡を受け取れる方法》

 鐘。

 旗。

 共同厨房。

 隣船。

 受取拒否。

 所在を明かさず、連絡だけ受け取る選択。

「住所をなくすの」

 真琴なら怒るだろう、と巴は思った。

 だが今ここに真琴はいない。法の都合で、動く住居を固定したことにする方が危険だった。

 老女が一穴の保留札を選ぶ。

「決めないのに、連絡は欲しい」

「矛盾してない」

「陸の役人は、矛盾だと言う」

「今は私が書く」

「役人?」

「通訳」

「もっと面倒」

 老女は笑い、旗を一度だけ上げる連絡方法を選んだ。

 巴の用紙には、住所欄がなくなった。

 その空いた場所へ、《どこまで知られたいか》という欄が増えた。

 夕方、巴は三種類の返事札を実際に配って回った。

 受取は白。

 保留は灰。

 返送は赤。

 老船頭が赤札を手に取り、首を振る。

「赤は火事だ」

「陸では、止める色」

「水の上では、火事」

「変える」

 返送札を縞模様へ変える。

 別の家船では、灰札が弔事の色だと拒まれた。

 保留札は穴を一つ開ける形へ変える。

「色を使わないの」

 折部が聞く。

「夜でも触って分かる方がいい」

「最初からそうすれば」

「最初から分からなかった」

「通訳者が」

「通訳者だから、分からないと分かるまで時間がかかる」

 折部は三札を指で確かめた。

 受取は穴なし。

 保留は一穴。

 返送は二穴。

「返送が一番、手間が多い」

「料金も?」

「同じ。今は」

「なぜ今は」

「拒否へ追加料金を付けると、貧しい人ほど受け取るしかなくなる」

「商売にならない」

「商売にする方法を考える」

「善意?」

「嫌いな言葉だな」

 折部は義足の足音を一拍遅らせながら、次の船へ渡る。

 巴は、陸上用の用紙にあった《署名》の欄を消した。水上区では、濡れた指印、結び目、音声、鍵を回す音でも意思を示す。

 分かりやすくするつもりの一つの欄が、最初から何人も外へ置いていた。

 札の形が決まると、次は料金が問題になった。

 受領札は、手渡して終わる。

 保留札は、いつまで保留するかを尋ね直す。

 返送札は、送り主へ戻し、戻った事実まで知らせなければならない。

 同じ料金なら、拒否を運ぶ者ほど長く働く。

「拒否する人が多いほど、赤字」

 折部が帳面を見せる。

「二穴」

「もう赤じゃない」

「呼び方の話じゃない」

「料金を上げたら、拒否できない人が出る」

「下げたら、運ぶ人が倒れる」

 巴は、返送札の費用を善意へ押し込めなかった。

 交渉費の共通欄へ、《受領・保留・返送の運搬時間差》を追加する。返送を選んだ本人へ追加料金を求めず、交渉を求めた四者が、実際の運搬時間に応じて負担する案だ。

「四者が払わないと言ったら」

「返送を受け付けない、ではなく、交渉を始めない」

「水は減る」

「減る」

「冷たい」

「無料で働かせる方が温かい?」

 折部は答えず、義足の留め具を締め直した。

 札を選べることと、札を運ぶ人が食べられることは、別の問題だった。別だから、同じ帳面の違う欄へ書いた。

 夜の水位は、さらに四ミリ下がった。

 老女の家船が、ゆっくり寝返る。

 巴は用紙の右上を、空欄のまま残した。

 その空白だけは、濡れても読めなくならなかった。