第537話 第三章「低地の渇き」前編
五月二十二日 午前七時七分
水には、読み仮名がない。
一文字巴は、そう思っていた。
水、と書けば、陸の人間はだいたい同じものを思い浮かべる。
透明で、飲めて、蛇口から出て、容器へ入るもの。
下流水上区で《水》と言うと、最低でも七つに分かれた。
飲む水。
炊く水。
身体を洗う水。
船体を洗う水。
船を浮かせる水。
水門を動かす水。
捨てることで下流の塩を押し戻す水。
巴の平文用紙には、《使用目的》という欄が一つしかなかった。
朝から、三度破った。
四枚目は、まだ白い。
「また破る?」
環状の係留桟橋で、紬が訊いた。
巴は首を振る。
白手袋の右人差し指を、薄い固定布で支えている。
紙を破ったのは左手だった。
《破る前に、空欄を増やす》
黒板へ書く。
「欄を増やすと、読む人が減る」
《減らすと、入らない人が出る》
「どっちが悪い?」
《今、決めない》
「好き」
《評価は不要》
「嫌い」
《それも不要》
紬は青緑布へ結び目を一つ作った。
「受け取った」
巴は右人差し指を上げる。
《受領印にしない》
「分かってる」
《本当に?》
「今日は八割」
巴は、四枚目の用紙を桟橋の床へ置いた。
床は水平ではない。
紙の右上へ、小さな鉛の文鎮を置く。
左下には、乾燥豆の袋。
「豆、紙に使うの」
小麦が不満そうに言った。
《一粒》
「一粒でも在庫」
《返す》
「湿ってたら買い取り」
価がすぐ言う。
「誰があなたへ聞いた」
「価格欄の匂いがした」
価は右腰の装具を締め直し、桟橋の低い椅子へ座る。
巴は用紙の中央へ、横線を引いた。
《水を使う目的》
その下へ、七つの小さな空欄。
紬が覗く。
「七つで足りる?」
巴はチョークを止めた。
足りない可能性がある。
七つ書いた瞬間、八つ目を言えない人が出る。
巴は見出しを書き換えた。
《水を使う目的――書ける範囲》
《この欄にない目的――空欄のまま提出可》
「空欄で量を決めるの?」
価。
《量は後。空欄は、不要ではない》
「価格なら付けられない」
《付けない欄》
「増えた」
価が少し笑う。
巴は、平文が簡単な文章だと思っていない。
簡単にするほど、複雑な人を切り落とすことがある。
難しくするほど、読める人が権力を持つ。
平文は、その間にある短い橋だ。
橋は、岸が違えば同じ長さでは届かない。
午前八時十分。
下流第一係留列。
船体の側面へ、白い線が三本引かれている。
上から、通常水位。
警戒水位。
船底清掃不能水位。
今の水面は、三本目より下だった。
老夫婦の家船が、左へ傾いている。
船内の家具は右へ寄せてある。
寝台。
食器棚。
祖先札。
巴が用紙を見せると、老女は眼鏡を掛けた。
「小さい」
巴は大判へ交換する。
「字じゃない。欄が小さい」
巴はうなずき、黒板へ書く。
《どの欄》
「船を浮かせる水」
《使用量》
「量じゃない」
老女は船壁を叩いた。
「この線を下回ると、暮らせない」
《一日何リットル》
「川へ入ってる水を、家へ持ってくるのかい」
巴の手が止まる。
生活用水の計算は、取水量を前提にしている。
船体浮力は、運河全体の水位だ。
同じ《水使用》へ入れた時点で、誤りだった。
「陸の紙だね」
老女が言う。
侮辱ではない。
分類だった。
巴は黒板へ書く。
《陸の紙です》
「認めるのかい」
《今、知りました》
「役に立たない」
《はい》
「帰る?」
《直したい》
「誰に習う」
《あなたに》
老女は眼鏡を外した。
「有料」
小麦が後ろで吹き出す。
価は真顔で訊く。
「いくら」
「私の船が一寸上がるまで」
「金額ではない」
「価格を付けられないのかい」
価の左手首が、わずかに動く。
能力は使わない。
使わなくても、値段へ逃げる癖は残る。
「作業時間で払う」
巴が音声で言った。
発声は低く、音量が少し不安定だ。
「用紙を直す。船底の泥を掻く。水位が戻る保証はしない」
老女は巴の口元を見る。
「最後、正直」
巴は手話で返す。
《保証できない》
「分かった。じゃあ、まず言葉」
老女は船壁の三本線を指す。
「上は、帰り線」
巴が書く。
《通常水位》
「違う。帰れる水位。船が係留地へ戻れる」
巴は《通常》を消す。
《帰り線》
「真ん中は、鍋底」
《警戒水位》
「鍋を床へ置いても傾かないぎりぎり」
《鍋底》
「下は、骨見え」
《船底清掃不能水位》
「船の骨が泥へ当たる」
《骨見え》
巴は三つを、標準語へ置き換えず並べた。
《帰り線――船が係留地へ戻れる水位》
《鍋底――床上生活を維持できる限界》
《骨見え――船体が底へ接触する水位》
「説明、長い」
老女。
《親文字》
「何」
《外の人が理解する説明。あなたの言葉は残す》
「勝手に読み方にするのかい」
《使ってよい?》
「この船の紙だけ」
《他へ使う時は、確認》
「よし」
巴は最初の別紙を作った。
共通平文の後ろに付けるのではない。
同じ大きさ。
同じ紙質。
番号だけを相互参照する。
一枚目。
《第一係留列 水位別紙》
用紙の下に、質問欄を残す。
老女はそこへ書いた。
《上流の人は、鍋底を知っているか》
午前九時三十八分。
第二係留列では、鍋底という言葉が通じなかった。
「うちは床じゃなく吊り棚」
若い父親が言う。
「傾いても寝られる。問題は便槽」
巴は新しい空欄を作る。
第三係留列。
「骨見えは、うちでは冬の修理時にわざとやる」
船大工。
第四係留列。
「帰り線より上でも、橋が低くて戻れない」
荷運び船。
第五係留列。
「水が少ない方が、子どもが落ちても流されない」
母親。
同じ下流でも、同じ意味ではない。
巴の用紙は増えた。
平文。
地域別紙。
船種別紙。
個別保留欄。
読みやすくするための資料が、束になって重くなる。
右人差し指が硬くなる。
巴はチョークを左手へ持ち替えた。
紬がすぐ気づく。
「休む?」
《あと一件》
「その言葉、料理人が嫌う」
《誰》
「小麦」
「嫌うよ!」
後ろから声。
小麦は下流厨房の使用量を数えている。
「あと一件が、百件になる! 休憩!」
《十五分》
「二十分」
《十七》
「交渉するところじゃない」
《十八》
「十九」
《受領》
紬が横から言った。
「他人の交渉を取らない」
小麦。
「十九分」
巴は白手袋を外した。
右人差し指の関節が、少し赤い。
左手首も疲れている。
使える手を、使い切るまで使うのは、代替ではない。
紬が金属杯を差し出す。
「水」
巴は首を振る。
「飲まない?」
巴は用紙へ書く。
《十九分後》
「喉は、会議に参加してない」
《今、飲む》
巴は三口飲む。
「素直」
《有料》
「何が」
《感想》
「高そう」
午前十一時十二分。
折部翼は、配達先へ着く前に三回止まった。
一度目は、義足の軸音。
二度目は、浮橋の傾き。
三度目は、受取人の意思確認。
黄土色の配達外套。
背中の低い位置へ固定した郵袋。
左膝下の機械義足には、届かなかった宛名が刻まれている。
「宛名、確認」
翼は定型の声で言う。
「第二係留列・水配分異議提出者。氏名非公開。受取先、上流水利会・資料受付」
上流受付の男が眉を寄せる。
「差出人名なしは受け取れない」
「差出人の身元は、限定記録にあります」
「誰が確認した」
「巴、朝、下流側確認者二名。私は内容を見ていません」
「匿名の要求に答えろと?」
「受領、拒否、保留、返送を選べます」
「拒否」
「理由は」
「言う必要はない」
「理由なし拒否。受領します」
翼は封筒へ赤い拒否札を貼る。
「料金は」
「差出人へ」
「拒否されたのに取るのか」
「届かなかった仕事も、義足部品を使います」
「成功してない」
「配達成功ではありません。拒否成功です」
「言葉遊び」
「経理」
翼は封筒を郵袋へ戻す。
その隣で、別の受付が手を挙げた。
「こちらで保留する」
「本人の権限」
「資料係」
「最終受領者」
「水利会長」
「係長は保留を選べる?」
「三日まで」
「期限」
「五月二十五日正午」
「自動受領」
「しない」
「受領」
翼は青い保留札を貼る。
三通目は、開封前に返送された。
「宛先が違う」
「上流水利会」
「これは工場用水」
「会の担当では」
「工業調整室」
「転送」
「しない。差出人へ返して、宛先を選び直してもらう」
「急ぎです」
「急いで間違った先へ届くより、遅く選び直せ」
翼は黄色い返送札を貼る。
料金は、受領と同じ。
拒否も、保留も、返送も同じ。
上流受付の男が呆れる。
「成功と失敗が同じ値段?」
価が横から答える。
「成功を受領だけにすると、拒否を安い失敗へできる」
「競売人が配達料まで」
「相談」
「無料?」
「有料」
「いくら」
「今ので銅貨一」
「頼んでない」
「なら請求しない」
「最初からするな」
「価値確認」
翼は義足のボルトを一度叩いた。
「紬から、身元秘匿便を三水門間で運べって」
巴はうなずく。
「内容は」
翼。
巴は用紙へ書く。
《受取側へ開示する範囲を、差出人が選ぶ。配達員は宛先確認と人物特定を分ける》
「受取人が、身元を知らないと判断できないって言ったら」
《拒否できる》
「差出人へは」
《拒否された事実を返す。説得しない》
「保留」
《期限を付ける》
「返送」
《宛先を選び直す》
「料金」
《同じ》
翼は笑った。
「配達屋が儲かる」
価が言う。
「拒否を増やす誘因」
「受取側が拒否するのに、私が増やせる?」
「急かして拒否させる」
「やるかも」
「自覚が早い」
「速いのが売り」
巴は黒板へ書く。
《拒否・保留・返送を、配達員の成績へ使わない》
翼の笑いが止まった。
「受領数も?」
《成功数として使わない》
「私の仕事、何で評価する」
《確認、損傷、不達理由、期限、本人の選択を守ったか》
「遅い」
《はい》
「嫌い」
《受領》
紬が言った。
「取らないで」
翼が笑い直す。
午後一時四十四分。
迅は、船上で七歩を取ろうとして、二歩目でやめた。
第一歩。
船尾。
第二歩。
船が右へ傾く。
床が動けば、退いた距離が自分の足だけでは決まらない。
「今の、何」
片目を白布で覆った商船の船頭が訊いた。
「練習」
「陸の」
「そう」
「水の上でやるな。船が迷惑」
「船に感情ある?」
「おまえより正直だ」
迅は船板へ踵を擦る。
「この船、左へ逃げる」
「荷が右にある」
「直さない?」
「水位が下がると、右船腹の擦れを避けるため左へ寄せる」
「真っすぐじゃない方が安全」
「陸のやつは、真っすぐが好きだ」
「嫌いだよ」
「歩き方は真っすぐ」
「七歩だけ」
「それが迷惑」
船頭は長い棹を迅へ渡した。
「係留船へ移る。飛ぶな」
「飛べる」
「飛ぶな」
「理由」
「着地で船が離れる。後ろの婆さんが落ちる」
迅は係留船を見る。
距離一・二メートル。
普段なら一歩。
船頭は棹を二隻へ渡し、仮の手すりにする。
「右手、上。左足から」
「右手、痺れる」
「なら左手」
「棹が右」
「じゃあ俺が左へ回す。言え」
「何を」
「できないこと」
「高い」
「料金は取らん」
「怪しい」
船頭が棹で迅の靴を軽く叩く。
「陸の七歩を捨てろとは言わん。船へ持ち込む時、船の一歩を先に聞け」
迅は左手で棹を持った。
左足。
船が沈む。
右足を、係留船へ置く。
飛ばない。
後ろの老女は落ちない。
「遅い」
迅。
「戻れる」
船頭。
「誰かに似てる」
「殴るぞ」
「言ってない」
「顔が言った」
巴は、そのやりとりを遠くから見る。
用紙へ一行足す。
《移動方法――最短だけでなく、船体と後続者が戻れる方法》
紬が覗く。
「契約にいる?」
《水量を運ぶ方法に、いる》
「陸の紙、少し浮いた」
《まだ濡れます》
「紙は濡れる」
《だから写しを作る》
午後五時二十分。
巴の平文は、三種類になった。
一つ目。
全地域共通の質問。
《誰が決める》
《何を減らす》
《減らせない理由》
《代替できること》
《期限》
《拒否・保留・変更》
二つ目。
下流水上区の水位別紙。
《帰り線》
《鍋底》
《骨見え》
《便槽限界》
《橋下限界》
《書けない目的》
三つ目。
個別提出用の非公開票。
氏名。
船名。
係留地。
書かない選択がある。
巴は三種類を、同じ大きさの紙へ印刷するよう頼んだ。
中尾弦ではない。
水上区の古い手回し印刷機を使う。
印刷係が言う。
「共通紙を白、地域紙を青、個別を灰にする?」
巴は首を振る。
《色で上下を作らない》
「見分けにくい」
《角を変える》
共通紙は四角。
地域紙は右上を斜めに切る。
個別票は左下を丸くする。
「同じ紙質?」
《同じ》
「値段も」
価。
《同じ》
「個別票は内容が少ない」
《空欄を守る仕事がある》
「受け取った」
価が言う。
今度は紬が横を向く。
「それ、私の」
「言葉へ値札は付かない」
「使用料」
「後日協議」
翼が最初の返送便を持って戻った。
赤い拒否札。
青い保留札。
黄色い返送札。
受領された封筒は、一通もない。
「失敗?」
紬が訊く。
「配達は完了」
「同意は」
「ゼロ」
「隠す?」
「何を」
「最初の日に、一通も受け取られなかったこと」
翼は義足のボルトを叩いた。
「前なら、転送して一通は届けた」
「今は」
「三通とも戻す。遅い。腹立つ。正しいとは言わない」
巴は返送札を、共通平文の横へ並べた。
同意の数ではない。
受け取られなかった形。
平文は、全員を同じ理解へ入れるための門ではない。
入らない人。
戻る人。
まだ決めない人。
その位置を消さないための、複数の紙になり始めていた。
夕方の潮は戻らなかった。
干上がった境界杭の影だけが、朝より長くなっている。
巴は、四枚目の用紙を破らなかった。
右上の空欄へ、何も書かないまま残した。
午後六時四十二分。