第536話 第二章「同じ制限」後編

 同じ三十五パーセント削減。

 数字だけなら分かりやすい。

 設備の循環へ入れると、結果が逆転する。

「上流の希望」

「家庭は二十パーセント削減まで。工業は三十。技術提供は有料。下流の漏水が基準を超えたら追加放流なし」

「そのまま持って帰る」

「言い換えない?」

「下流が聞いて、嫌う権利を残す」

「交渉人なのに」

「交渉は、嫌われない文章を作る仕事じゃない」

 言いながら、自分へ言っていた。

 午後六時三十七分。

 下流の病院船では、洗浄水を再利用するため、廊下の床へ白い桶が並んでいた。

 同じ水を、清潔区域から不潔区域へ一方向に使う。

 逆はない。

 上流の再生水と似ている。

 同じと呼ぶと、医師が怒る。

「工業水と医療水を一緒にしないで」

「循環の形が似てると言った」

「違いを先に言って」

「違う。受け取った」

「それ、腹が立つ」

「受け取った」

「二回言わないで」

 紬は口を閉じた。

 巴がいれば、主語を書くだろう。

 今は、紬が自分で言い直す。

「私が、似てる方を先に見た。病院が止まる違いを後へ置いた」

「そう」

「謝罪」

「受け取る。許すとは別」

「知ってる」

 透析室の外で、患者の家族が水袋を折っていた。

 使い終えた袋を洗い、病院内の清掃へ回す。

 洗う水も必要だ。

「三十五パーセント案、やめたの」

 家族が訊く。

「保留」

「下流のため?」

「病院の数字を聞いたから」

「私たちのためって言えば、人気出るよ」

「出したくない」

「出ないだけかも」

「それもある」

 家族は袋を折る。

「病院だけ百パーセントにして」

「何の百パーセント」

「必要な水」

「必要量を、病院が決める?」

「医者が」

「患者は」

「水の量なんて分からない」

「分からない人へ、決めさせない?」

「命に必要なことまで会議にするの」

 紬は答えられない。

 緊急時に専門家が決めることはある。

 本人が数字を分からないから、意見を持てないとは限らない。

「医療の必要量は、専門家が出す」

 朝が代わりに言った。

「その量を確保することで、誰の何が減るかは公開する。患者へ負担を選ばせない。けれど、病院が何を必要と呼ぶかは監査する」

「国家式?」

「私の提案です」

「多数で決める?」

「必要量は採決しません」

「じゃあ誰が」

「複数の医療担当と、設備担当。異議があれば残す」

「面倒」

「はい」

 家族は、水袋を一枚折り損ねた。

「面倒な間に、死なない?」

 朝の左足が半歩ずれる。

 迷う癖。

「死ぬ可能性があります」

 正直すぎる答えに、病院廊下が冷える。

「だから、今日の暫定量は先に確保する。その後で、三十日の案を作る」

「暫定が、ずっと続かない?」

「自動更新しない」

「切れたら」

「また決める」

「毎回、死ぬかもしれない」

「はい」

 朝は、慰める答えを作らない。

 紬は彼女の黒い杖を見る。

「あなた、嫌われるね」

「あなたほどでは」

「競う?」

「採決しません」

 患者の家族が、折り損ねた袋を二人へ投げた。

「軽口の水、別料金」

「小麦に請求して」

 紬。

「なぜ私」

 廊下の奥から小麦の声が返った。

「聞いてた?」

「厨房は壁が薄い!」

 午後九時。

 紬の船へ戻ると、水券の更新札が扉へ挟まっていた。

《本日分 家族四人 二十二・五リットル》

 朝より、〇・五リットル減っている。

 理由。

《下流配水線漏水補修未了》

 紬は札を見た。

 自分が能力を使わなかったこととは、直接関係ない。

 船団の人間は、関係あると思う。

 母が船室で、水差しを四つに分けていた。

「一人、五・六」

「祖父、多め」

「薬」

「従弟」

「汗疹は布で拭く。おまえ」

「三」

「五」

「四」

「四・五」

「同じにしない?」

 母が紬を見る。

「同じにしたら、祖父の薬が減る」

「じゃあ違う」

「理由を言う」

「聞いてる」

「おまえは交渉で話す。祖父は薬。従弟は学校。私は配水列に並ぶ」

「母が一番多く使う」

「並んで汗をかく」

「私も」

「交渉人は、他人の水を数えて自分の杯を忘れる」

 紬は金属杯を出した。

 朝から、丸は二つ。

 半月が一つ。

 点が三つ。

 母は四・五リットルを、紬の水筒、飲用杯、明日の朝の分へ分けた。

「能力を使えば、配水は戻る?」

「戻らない」

「でも、揉めるのは止まる」

「止まる」

「使いたい?」

 紬は、すぐには答えなかった。

「使いたい」

「なら、そう書いて」

「何に」

「交渉記録」

「格好悪い」

「格好いい水は飲めない」

 紬は日記へ、丸を一つ足した。

 実際には、まだ飲んでいない。

 書いてから気づく。

 嘘の丸。

 消そうとして、止めた。

 丸の横へ、小さく書く。

 同率三十五パーセント案の試算表は、その日の夕方、二つの食卓へ置かれた。

 上流の食卓では、三十五パーセント減っても翌週まで水が残る。下流の食卓では、明後日の朝に洗浄用水が尽きる。

 紬は同じ杯を二つ用意し、同じ量だけ捨てた。

 一方は、まだ半分以上残る。

 もう一方は、底が見える。

「子ども向けの見世物だ」

 上流代表が言う。

「私向け」

 紬が答えた。

「数字で分かるだろう」

「数字で分かったつもりだった」

 底の見えた杯を、紬は自分の前へ置く。

 満ちた方を相手へ押しつけて、罪悪感を作らないためだ。

 朝は二つの杯を見て言った。

「同じ三十五を捨てた、という事実は変わらない」

「変わらない」

「同じ行為が、違う結果になる」

「そう」

「では、行為をそろえるのをやめる」

「簡単に言う」

「簡単に言わないと、私はまた数字へ逃げる」

 紬は、鏡板へ手を伸ばしかけた痣を布で隠さなかった。

 能力を使わないという選択は、使えないふりをすることではない。使える力がそこにあると、相手にも自分にも見せたまま、保留札を置くことだった。

《飲む予定を、飲んだことにした》

 それから杯を満たし、全部飲んだ。

 日記の丸と、身体の水が、ようやく同じになった。

 青緑布の結び目は、今夜も一つだけほどけていた。