第539話 第四章「紬の両岸」前編
五月二十三日 午前六時四分
裏切り者と偽善者は、同じ声量では呼ばれない。
裏切り者は、近くで呼ばれる。
家族、隣人、同じ船の人間が、名前の代わりに使う。
偽善者は、遠くから呼ばれる。
相手側の岸から、届くように大きく投げられる。
碧路紬は、両方へ同じ返事をしていた。
「受け取った」
それが、今朝最初の失敗だった。
水上難民区の配水列。
紬の母は、家族四人分の水券を持って並んでいる。
紬の前には、係留船団の住民が二十七人。
「受け取った、で水が出るのか」
同じ船団の男が言う。
「出ない」
「能力を使えば、上流の取水を止められる」
「下流の取水も止まる」
「同じなら公平だろ」
「同じ量を持ってない」
「昨日から、そればっかりだ」
「昨日から、違うって分かったから」
「おまえは、フロートの結び手だ」
「そう」
「なら、こっちを優先しろ」
「優先したい」
紬は言った。
列が静かになる。
「したいから、私一人で決めない」
「格好つけるな」
「格好悪い」
「なら使え」
「使いたい」
「じゃあ」
「使わない」
男が、水券を紬の胸へ押しつけた。
「偉くなったな」
裏切り者より、痛い言葉だった。
紬は水券を返す。
「偉くない。昨日、家の水を四・五リットルもらった」
「俺は三・八だ」
「理由」
「子どもがいない」
「それを、決めた人に言った?」
「配水列で喧嘩しろって?」
「言える場所を作る」
「いつ」
「今日」
「今日の水は」
「戻らない」
男は笑った。
「交渉人って、昨日のことを正確に言う仕事か」
「今日を遅くする仕事でもある」
「病院が止まるぞ」
「知ってる」
「知ってて遅くする」
「知ってるから、勝手に早くしない」
母が、列の後ろから言った。
「紬」
「何」
「次の人」
自分の家族にだけ話を続けると、列が止まる。
紬は横へ退いた。
三歩ではない。
半歩。
男は配水口へ進む。
今朝の一人分は、五・二リットル。
紬より多い。
昨日より少ない。
同じ列でも、同じ量ではない。
午前七時二十五分。
上流の浮橋では、紬は偽善者と呼ばれた。
「下流の水を守る顔をして、上流へ技術を出せと言う!」
設備係が、水位札を机へ叩きつける。
「使用料を払う案」
「誰が払う」
「下流、商船、病院。金銭以外も」
「結局、うちが先に技術を出す」
「そう」
「不公平だ」
「そう」
「認めれば済むと思うな!」
「思ってない」
紬は、昨日までと同じ説明をした。
上流の損失を最初の欄へ書く。
下流の漏水修理を義務へ入れる。
病院の必要量を別枠へする。
商船は運航日を減らす。
設備係が怒鳴る。
「下流で言ったのと同じだろ!」
「同じ説明」
「こっちの話を聞いてない!」
紬は口を閉じた。
同じ説明をすれば、嘘をついていないことになると思っていた。
同じ言葉を両岸へ渡せば、中立に見える。
だが、上流の人間が聞きたいのは、自分たちの貯水努力が罰へ変わらない保証だった。
下流の人間が聞きたいのは、今夜病院が止まらない保証だった。
同じ説明は、どちらの問いにも答えていない。
「聞いてなかった」
紬が言う。
「何を」
「あなたたちが、努力を罰にされたくないこと」
「今さら」
「今、聞いた」
「昨日も言った」
「貯水量の話だと思った」
「同じだ!」
「違う」
紬は布端を結びかけ、やめた。
「貯めた水が多いことと、貯めた人が馬鹿を見る恐怖は違う」
設備係は、すぐには答えない。
「下流に、同じことを言えるか」
「同じ言葉では言わない」
「やっぱり裏切る」
「違う理由だから」
「理由を変えれば、何でもできる」
「だから、数字と期限と、相手側の文を見せる」
「能力を使わない交渉人が、紙を増やす」
「布も増やす」
「冗談を言う場面か」
「怖いから言った」
設備係は、初めて紬の腕を見る。
痣は薄い。
能力を準備していない。
「怖いなら、降りろ」
「降りたら、家の水券更新が止まる」
「脅しか」
「私の事情」
「交渉へ持ち込むな」
「隠すよりいい」
「自分だけ正直な顔をするな」
紬は、顔を作らない。
「受け――」
途中で止めた。
「今のは、返さない」
「なぜ」
「私が聞く番だから」
設備係は水位札を持ち直した。
「四十五パーセント以上の工業削減は、再生水設備を止める危険がある」
「四十五」
「家庭最低を守るには、工業側が先に止まる。だが、止めすぎれば再生水と水門部品が来月なくなる」
「どこまで」
「四十から四十五。期間三十日まで。部品在庫を毎週公開するなら」
「受け取った」
今度は、設備係が怒らなかった。
「それは使っていい」
午前九時。
下流へ戻る船で、御厨朝が言った。
「国家標準案を、一度だけ参考提示します」
紬は船縁へ座る。
「昨日も言った」
「昨日は、使いたいという私の希望を言いました。今日は、具体案を出します」
「中央へ戻す」
「戻しません」
「紙が中央」
「式が中央です」
「同じ」
「違います」
「同じ言い方を両岸にする人が言うと、説得力ない?」
「ありません」
朝は自分で認めた。
黒い杖は、船板の溝へ固定してある。
揺れた時に両手で支えない。
「参考式は、家庭最低量を先に置く。医療は必要量。工業は貯水設備、再生率、雇用、代替生産で係数を変える。商船は代替輸送を含む」
「それ、今作ってる案」
「似ています」
「中央が先に作った?」
「過去の渇水データから」
「なら、それでいい」
「よくありません」
「なぜ」
「係数を中央が持つ。次の渇水でも、地域が自分の設備を説明せず、係数の変更申請だけをする可能性があります」
「早い」
「早いです」
「人が死なない」
「減る可能性があります」
「じゃあ」
「今の病院へは暫定で使う。三十日の協定は、地域が作る」
「両方」
「はい」
「ずるい」
「必要です」
「中央の式で命をつないで、地域の交渉能力を育てる。きれい」
「きれいではありません。暫定式が有利な人は、地域協定を遅らせます」
「あなたも」
「はい」
「国家へ戻した方が、あなたの仕事は増える」
「はい」
「それ、記録する?」
「します」
紬は青緑布を結ぶ。
「信用しない」
「受け取ります」
「私の言葉」
「使いました」
「使用料」
「国家口座は凍結中です」
「現物」
「何を」
「杖の滑り止め、一個」
「必要です」
「じゃあだめ」
「交渉が下手ですね」
「あなたに言われたくない」
船頭が笑う。
「二人とも、水へ落ちたら同じだ」
紬と朝が同時に言った。
「同じじゃない」
船頭はさらに笑った。
午前十時三十二分。
下流の係留作業船では、紬は昨日と違う説明をした。
「上流は、貯水努力を罰にされたくない」
下流の若者が机を叩く。
「こっちは病院が止まる!」
「同じじゃない」
「なら、上流の恐怖を先に言うな!」
「先に言ったのは、昨日聞いてなかったから」
「こっちの話は聞いた?」
「病院の残り時間」
「それだけか」
紬は周囲を見る。
係留船の床が傾いている。
水栓の列。
洗い場の空桶。
骨見え線。
「低地が、努力不足と言われること」
「そうだ」
「漏水修理を義務にすると、怠慢を認めたことになる?」
「なる」
「でも、漏れてる」
「上流が急放流するからだ!」
「全部?」
「……全部じゃない」
「下流の修理不足もある」
「金がない」
「上流の技術提供を受ける」
「借りになる」
「対価を出す」
「何を」
「商船枠、病院の技師診療、下流の修理労働」
「水をもらって、働いて返すのか」
「嫌?」
「上流の水を下流が買う形になる」
「嫌」
「じゃあ、上流の放流衝撃で増えた漏水分は、上流負担。下流設備の老朽分は、下流負担」
「分けられる?」
「イオと轟が測る」
「中央の人間」
「イオは中央じゃない。轟も」
「空白の旗」
「所有しない。測定者として料金と範囲を書く」
「紬は」
「水上区」
「味方」
「味方」
「なら、上流負担を多く書け」
「書きたい」
「書け」
「測る」
「偽善者」
「それは遠くから言う言葉」
「近くでも言う」
紬は笑いかけ、やめた。
「近くなら、聞く」
正午。
商船組合が、第二水門を占拠した。
最初の知らせは、折部翼の黄色い返送札だった。
《宛先へ接近不能》
《理由――水門塔進入禁止》
《発出者――商船組合臨時運航班》
《解除条件――毎日七寸の通水保証》
「命令?」
朝が札を見る。
「通知」
翼。
「発出者名」
「組織名だけ。個人名は受取時に確認できなかった」
「匿名の占拠」
「船頭の顔は見た。本人特定と、通知上の責任者は別」
「中へ入れる?」
「拒否された」
「返送」
「完了」
翼は、義足を一度叩いた。
「速く届けたくて、別の桟橋から行こうとした」
「行った?」
巴。
「行かなかった。受取拒否の範囲を、勝手に狭くしない」
「成長」
紬。
「有料」
「何が」
「評価」
「感染してる」
第二水門には、貨物船六隻が横並びになっていた。
鎖で船体同士を連結。
船首を水門塔へ向ける。
黒黄旗。
水路幅を、ほぼ完全に塞いでいる。
病院船の連絡艇も通れない。
上流の修理船も通れない。
商船は水を奪いたいだけではない。
荷が腐る。
船員の賃金が止まる。
下流市場へ食料が届かない。
上流工場の部品も来ない。
水門を開ければ、物流は動く。
急に開ければ、下流の設備が壊れる。
片目を白布で覆った船頭が、船首に立っていた。
「交渉は終わりだ!」
長い棹を水門塔へ向ける。
「三日待った! 水は減る! 荷は腐る! 紙は増える!」
紬が叫び返す。
「毎日七寸を保証したら、病院船の水位は!」
「そっちは、必要なら優先しろ!」
「優先禁止って言った!」
「昨日だ!」
「今日は違う?」
「荷が一日古くなった!」
「条件変更、受け取った!」
「受け取るな! 開けろ!」
船頭が棹を振る。
船員たちが、水門の手動鎖へ鉤を掛ける。
轟が壁を叩いた。
「無理に引けば、門軸が折れる」
「折れたら開く!」
「閉じなくなる」
「今は開けたい!」
「明日は閉じたい」
「明日の荷は、今日腐る!」
正当な言葉が、鎖の両側にある。
紬は能力の布へ手を掛ける。
商船へ《水門鎖へ触れるな》を禁じる。
こちらも、同じく触れない。
双方が水門から退く。
占拠は止まる。
病院船の通水操作も止まる。
同じ禁止が、また違う被害を作る。
「使え!」
下流から声。
「止めろ!」
上流からも。
紬は布を握った。
使わない。
「迅」
凱が振り返る。
迅は船着場で、靴底を一度擦った。
「行く」
「殴るな」
「誰を」
「それを先に決めるな」
「分かってる」
凱は左膝の装具を確かめる。
「私も行く」
「王の仲裁?」
紬が訊く。
「係留索を外す人手」
「似合わない」
「王冠より軽い」
迅と凱が、小船へ乗る。
片目の船頭が棹を構える。
第二水門の上で、商船六隻が一つの壁になる。
紬の両腕には、まだ何の禁則も発動していない。
使えば早い力を持ったまま、船はゆっくり占拠船へ近づいていった。
午後零時二十七分。
小船は、占拠船から二十メートルで止められた。
商船側が、水面へ横索を張っている。
太い麻索。
水面すれすれ。
小船が乗り上げれば、舳先が跳ねて人が落ちる。
「交渉人だけ来い!」
片目の船頭が叫ぶ。
「迅と凱は戻れ!」
「俺、交渉人じゃない」
迅。
「知ってる! だから戻れ!」
「正しい」
紬が言った。
「何が」
「あなたが来ると、殴る場面だと思われる」
「思われてる?」
「私も少し」
「失礼」
「有料?」
「高いよ」
凱が小船の底へ座った。
「紬だけで乗るのか」
「要求はそう」
「安全条件」
「武器なし。能力なし。交渉卓まで」
「受取側の人数」
「分からない」
「戻れる方法」
「布」
紬は青緑布の端を、小船の係留金具へ結んだ。
もう一方を腰へ巻く。
迅が結び目を見る。
「それ、落ちたら腹へ食い込む」
「落ちない」
「条件じゃない」
由良が岸から赤索を投げず、船員へ手渡している。
「腰ではなく、胸と腿へ分散しろ」
「飛ばない人が言う?」
「落ちた人間が言う」
紬は結び直した。
右肺の癒着がある。
水へ落ちても、長く潜れない。
「酸素袋」
病院船の医師が、小型の呼吸袋を投げようとする。
「投げないで!」
「では取りに来て!」
「商船が止めてる!」
「本当に面倒!」
「受け取った!」
「今のは返して!」
小麦が岸から叫ぶ。
「全員、昼飯まだ! 喧嘩は十五分で交代!」
「交代制の占拠があるか!」
船頭。
「長引くならある!」
紬は横索へ近づいた。
飛び越えない。
青緑布を索へ通し、自分の体重で少し沈める。
小船の船頭が棹で舳先を押す。
布が水へ沈む。
小船が越える。
「勝手に索へ触るな!」
「切ってない!」
「濡らした!」
「水路で乾いた索を張るな!」
「それはそうだ!」
怒鳴り合いながら、小船は占拠船へ着く。
紬が先に乗る。
船板が沈む。
片目の船頭は、長い棹を横へ置いた。
武器を下ろした形。
ただし、手を離していない。
「能力を使うな」
「使わない」
「約束」
「三十分」
「交渉が終わるまで」
「終わりをあなたが決める?」
「水門を開けるまで」
「それ、交渉じゃない」
「じゃあ三十分」
「自動更新なし」
「うるさい」
「受け取った」
船頭の額に青筋が浮く。
「それ、やめろ」
「努力する」
「今から」
「……分かった」
言い慣れない返事が、喉に引っ掛かる。
占拠船の甲板には、荷が積まれている。
豆袋。
乾燥薬。
塩。
水門用の銅軸。
病院の前処理膜。
紬は最後の二つを見る。
「病院部品、持ってる」
「積荷だ」
「届けないと病院が止まる」
「水門を開ければ届ける」
「病院を止めて、病院部品の通水を要求する?」
「俺たちが止めてるんじゃない。水位が止めてる」
「占拠も」
「交渉を動かしてる」
「動いてない」
「おまえたちの紙よりは」
若い船員が、前処理膜の箱へ腰掛けている。
目の下が黒い。
「賃金、三日止まってる」
紬が訊く。
「二日」
「荷が腐ったら」
「運賃なし。損害は船員負担」
「組合じゃなく?」
「契約」
「見せて」
「関係ない」
「水門を開ける理由」
「腹が減るから」
小麦が遠くから叫ぶ。
「だから昼飯!」
若い船員が少し笑った。
「鍋の人、声でかい」
「食べた?」
紬。
「昨日の夜」
「交代しないと、判断が壊れる」
「交代したら、代わりが水門を開ける?」
「交代は、降伏じゃない」
「陸の人はそう言う」
「私、船」
「交渉船」
「家船」
「どこの」
「フロート」
若い船員の顔が変わる。
「じゃあ、分かるだろ。係留料も、燃料も、毎日掛かる」
「分かる」
「上流も下流も、会議中は賃金出る。俺たちは止まったらゼロ」
「交渉参加賃金を協定費へ入れる」
「あとで払う?」
「前払いを要求する」
「誰に」
「四当事者」
「病院にも?」
「病院は現金がない。優先診療枠、医療物資保管、別の形」
「また違う」
「違う」
「不公平」
「そう」
「それで通す?」
「理由と期限を出す」
若い船員は、前処理膜の箱から立った。
「俺たちの要求、紙にして」
片目の船頭が棹を鳴らす。
「勝手に話すな!」
「賃金止まってるの、船頭は日当ある!」
「俺も半額だ!」
「半分ある!」
「責任がある!」
「責任で腹は膨れない!」
紬は二人の間へ入らない。
片目の船頭を倒せば、若い船員の賃金は戻らない。
船員の怒りを使えば、占拠は崩せるかもしれない。
崩した後、組合内の処分が待つ。
「船頭」
紬が呼ぶ。
「何だ」