第27話 第十二章「帰路班の名前」前編
七月十五日 午後一時十二分
事件のあとには、事件より多くの洗濯物が残る。
火群七瀬は、零番街診療所の裏へ張られた縄を撮っていた。
紺の救難上着。
白冠の短外套。
橙色の工事ベスト。
泥水を吸った学ラン。
山吹色の前掛け。
白いシーツを裂いて作った持ち手。
どれも風に揺れている。
勝利の旗に見えない角度を選ぶのに、三分かかった。
「洗濯物を格好よく撮る必要ある?」
タマキが訊く。
緑の帽子を洗濯ばさみで留めている。昨日から追加した顎紐は、片方がほつれていた。
「格好よくではありません。乾く順番が分かる画角です」
「今、左から撮った」
「日が右から当たるので」
「僕の帽子が中心」
「乾きにくいからです」
「主役」
「湿っているだけ」
タマキは満足そうに帽子の向きを直した。
診療所の中では、投与後の観察が続いている。
患者の熱は、すぐには下がらなかった。
投与一時間後、脈拍は少し落ち着いた。呼吸は安定。皮疹なし。検査値は夕方まで出ない。家族には、効いたとも、助かったとも、まだ言えない。
薬が届けば病気が敗北する。
そういう映像は分かりやすい。
現実の医療は、届いたあとに長い。
七瀬は病室を撮らなかった。
代わりに、廊下の時計と、観察表へ追加される時刻と、看護師が三度目の水を交換する手を記録した。
迅は処置室で左手へ包帯を巻かれていた。
連結爪を殴った拳は、骨折していない。人差し指と中指の付け根が腫れ、左手首に捻挫。右腕の固定針はずれていなかったが、地下水路と七段坂で揺らしたため、医師から再び三週間の安静を言い渡された。
「両手を使うな」
医師が言った。
「足は」
「歩け。ただし走るな」
「口は」
「閉じろ」
「医学?」
「個人的な希望」
七瀬は処置室の外から音声だけ記録した。
「撮るな」
迅が言う。
「顔は撮っていません」
「会話を消せ」
「医師へ確認します」
「患者の希望は」
「あなたは今、患者として話していますか」
「そう言えば消す?」
「撮影許可を取り直します」
迅は黙った。
医師が笑う。
「口も捻挫してるな」
「その診断、免許を返した方がいい」
隣の処置台では、凱の左膝から装具が外されていた。
新しい骨折はない。腫れは増え、関節内に少量の出血。しばらく松葉杖を二本に戻す。右肩には荷車を受けた青い痣。
「手すりは無事だった」
凱が言う。
「あなたの膝の診断をしています」
「比較だ」
「手すりと人体を比べない」
医師が迅を見る。
「増えた」
「何が」
「話を聞かない患者が」
「そっちは元王だ。料金を高くしろ」
「個人財産がない」
凱が真面目に返す。
「冗談に市場価格を持ち込むな」
廊下の反対側では、澪が耳の検査を受けていた。
看護師が音叉を鳴らし、右、左、額の中央へ順に当てる。澪は目を閉じず、相手の手元を見た。
「右」
返事がない。
音叉を少し低くする。
「聞こえる」
「高い音だけ落ちています。人の声は」
「低い人は右でも。子どもと笛は、方向が分からない」
「めまい」
「ない。段差で一度、右へ寄った」
「耳鳴り」
「夜だけ。細い金属音」
看護師は結果を紙へ書いた。
「当面、右側からの高音合図は使わないでください。騒音下では左側へ話者を置く。口元を見せる。笛を使うなら低音と振動を併用。改善する可能性はありますが、戻るとは約束できません」
「期限は」
「検査は一週間後。仕事の制限は今日から」
「救難をやめる?」
「方法を変える」
澪は一度、靴先を鳴らした。
床から振動が上がる。
「右から声をかけられた時、気づかなかったら」
「相手に左へ回ってもらう。肩を叩くなら、先に視界へ手を出してもらう」
「迷惑」
「聞こえないことを隠して誤答する方が迷惑です」
看護師の言葉は、慰めではなく手順だった。
澪はそれなら受け取れた。
処置室を出ると、タマキが右側から何か言った。
澪は聞き返す代わりに、左を指差す。
タマキが回り込む。
「何」
「笛、三本あるけど、一本は飾りになる?」
「ならない。吹く人を増やす」
「澪の笛なのに」
「笛は音を出す道具。持ち主を証明する道具じゃない」
澪は三本のうち最も高い笛を外し、タマキへ渡しかけた。
「今は預けない」
「どうして」
「あなた、合図を増やす」
「信用が具体的」
「一週間後、手順を覚えたら」
「予約?」
「試験」
聞こえない音が増えた日に、澪は仕事を一つ失わなかった。
代わりに、一人でできると思っていた仕事を失った。
轟は外の水場で、両掌の摩擦熱傷を洗っている。左手の皮が一部剥け、鉄線を巻き直せない。にもかかわらず、右手で保冷箱の外枠を分解していた。
タマキが工具を取り上げる。
「治療が先」
「箱を返す」
「手も返す?」
「俺のだ」
「なら直す」
「箱を?」
「手を」
タマキは消毒布を轟の掌へ押しつけた。
「痛い」
「正常」
「医者みたいに言うな」
「個人的な希望」
「それ、流行らせるな」
保冷箱は返却前に、四か所の修理が必要だった。
外枠の白糸ピンが一本ない。旧配管路の弁軸に使ったままだ。右持ち手の回転部へ砂が入り、温度窓の縁に小さな欠け。内籠の白布には、四十七人分の手の汗と泥が付いている。
返せば終わりではない。
借りた状態へ近づけ、近づけられない損傷は書いて返す。
「弁のピンを抜いたら、水がまた増える」
タマキが言う。
「代替を作る」
轟は右手で寸法を測る。
「六ミリ。長さ四十八。低炭素鋼。止め輪付き」
「今日?」
「今日」
「手、使えない」
「工場へ寸法を出す」
「誰が作る」
「頼む」
轟は少し考えた。
「工賃を払う」
「誰が」
タマキが訊く。
全員が一度止まった。
金の話は、戦闘より人を静かにする。
「搬送責任者」
迅が処置室から出てきた。右腕は吊り、左手も包帯。使える手がない。
「俺が払う」
「いくら持ってる」
小麦が診療所の台所から顔を出した。
「関係ない」
「関係ある。昼飯代も借りてる」
「靴の中に」
「医師、両足も固定して」
「患者の希望ですか」
医師が訊く。
「料理人の希望」
「医学的根拠がない」
「逃亡防止」
小麦は帳面を開いた。
《氷 八十二キロ》
《塩 六袋》
《布 二十四枚》
《朝粥 十四人前》
《塩パン 二十一個》
《砂糖水》
《鍋蓋 一枚・縁欠け》
《木べら 二本・一本は弁楔として破損》
《洗濯シーツ 一枚・持ち手へ加工》
《保冷箱修理》
《休憩不足 三名》
「最後、金額じゃない」
迅が言う。
「借金」
「誰への」
「身体へ」
「返し方は」
「座る。食べる。寝る。明日の仕込みへ出ない」
「小麦も?」
タマキが訊く。
「私は帳面を書く」
「休んでない」
「書いたら」
「いつ」
「三十分後」
「今から三十分?」
「書き終わってから」
「それ、時間が逃げる言い方」
小麦は口を尖らせた。
「十五分後。帳面は別の人へ渡す」
自分の仕事を別の人へ渡す言葉は、薬箱より重そうだった。
費用は一人へ負わせないことになった。
診療所が医療予算から冷却材を負担する。第一検問が門の修繕費から持ち手部品を出す。共同食堂は食事代を請求し、支払えない分は皿洗いとシーツ縫いの労働へ換える。迅は自分の分だけ払う。凱は白冠時代の共同資材から勝手に出さず、旧担当者へ使用目的を説明する。
誰も「善意」で数字を消さなかった。
数字を残すと、誰が払えないかも見える。
白布を二百円で買った少年は、シーツ代を現金で返せない。洗濯場の責任者は、だからといって子どもへ二百円分の労働を割り当てようとした。
「一時間、縫えばいい」
「縫ったことない」
「覚えれば」
「針で指を刺す時間も料金に入る?」
タマキが訊く。
小麦は帳面へ横線を引いた。
「少年が買った布は、搬送で使ってない。シーツ代と混ぜない。シーツは使った区間の大人が縫う。少年は鍋合図の仕事をしたから、朝食一食分を払う側じゃなく受け取る側」
「子どもへ賃金を?」
「仕事を頼んだ」
「本人が勝手に」
「勝手に始めた仕事へ、途中から手順を渡した。そこからは頼んだ」
少年は口を開けたまま小麦を見る。
「いくら」
「朝食と、次に同じ仕事を頼む時の時給表」
「今、お金じゃない」
「今は緊急時。現金にすると食堂が潰れる。でも無料にはしない。借りが残る」
「借りを作るの?」
「作ったのを隠さない」
少年は少し考え、帳面の自分の欄へ丸を付けた。
誰かを大切にすることと、誰かを安く使うことは、忙しい時ほど同じ顔をする。
午後二時三十八分。
診療所の待合室で、通行路の話し合いが始まった。
椅子は十三脚。
凱が無意識に一直線へ並べようとしたため、小麦が二脚を鍋の周りへ戻した。
「会議は食べながら」
「資料が汚れる」
鷺沼が言った。
右足首へ厚い固定帯を巻き、松葉杖を一本使っている。診断は重度の捻挫。骨折なし。三週間は荷重を制限。
「食べないと人が汚れる」
小麦が粥を置く。
「意味が分からない」
「空腹で決めると、きれいな紙に汚い決定を書く」
鷺沼は紙を鍋から遠ざけた。
「粥は要らない」
「食べない人は会議へ入れない」
「衛生?」
「今日は低血糖防止」
「宗教みたいだな」
「腹が減ったら終わる宗教」
鷺沼は硬いクラッカーを自分の袋から出した。
「これでいい」
「皿を使う」
「粉が落ちる」
「だから皿」
鷺沼は皿を受け取った。
話し合いへ参加したのは、澪、小麦、迅、七瀬、凱、轟、タマキ、鷺沼、第一検問の担当、診療所の受領責任者、洗濯場の責任者、七段坂の住民二人。
患者家族は参加しなかった。
薬を受け取ったことと、通行制度の会議へ出ることは別だからだ。
七瀬は撮影機を三脚へ置いた。
「公開範囲を確認します。患者名、病室、家族情報は記録しません。発言者は、実名、役職、匿名のいずれかを選べます。映像公開は議事要旨の確認後」
「即時でないのか」
鷺沼が訊く。
「確認前に出せば、訂正が患者情報を増やす可能性があります」
「空白の一分も確認する?」
「一分は未記録です。内容を後から映像として埋めません」
「都合の悪いことがあったかもしれない」
「あり得ます」
七瀬は答えた。
「だから停止時刻、再開時刻、停止理由、停止中にいた人の証言を別に付けます。映像がないことを、映像があるように扱いません」
「無編集を名乗っていたのに」
「撮影を切らないことと、何を撮るかの責任を分けていませんでした」
「失敗を認める?」
「判断を認めます。結果がよかったから正しかったとは書きません」
鷺沼はクラッカーを一枚、正確に二つへ割った。
「俺の警告記録も出す」
全員が彼を見る。
「七段坂で三度警告した。代替路は成立していなかった。俺が確認を怠った。そこまで記録する」
「違法検問も」
迅が言う。
「出す」
「通行料」
「出す」
「母親の話は」
鷺沼の苔色の目が迅へ向く。
「出さない。俺の違法行為の証拠ではない」
迅はうなずいた。
「それでいい」
「おまえに許可されたくない」
「許可してない」
「似た者同士は長い」
小麦が粥をよそう。
「口より噛んで」
議題は、今日使った道を誰が管理するかだった。
第一検問の担当は、門を開けた記録を共有したいと言う。鷺沼は、無許可の窓信号を正式化しなければ誤認が出ると言う。七段坂の住民は、外部の許可より手すりの修理費を先に決めてほしいと言う。洗濯場は、シーツを道路資材として使うなら返却期限が必要だと言う。
「空白の旗が管理すれば」
誰かが言った。
迅がすぐに答えた。
「しない」
「昨日から、みんなそう呼んでる」
「呼び名と権限は別だ」
「白布を巻いて運んだ」
「仕事と期限を書いた。旗の所属じゃない」
「では、誰が閉鎖を決める」
鷺沼が問う。
「現場の誰か」
「誰かでは記録できない」
「決めた人の名を書く」
「決める前の権限がない」
「権限がなければ、危険を見ても全員が待つ」
迅は答えに詰まる。
今回の道は開いた。
次も同じ人が窓へいるとは限らない。同じ鍋があるとも、澪がいるとも、迅が七歩退けるとも限らない。
成功は、そのまま規則にはならない。
澪が帳面を開いた。
到達と帰還が左右に分かれた、古い救難笛隊の帳面。
「仮の台帳を作る」
全員が澪を見る。
「今日使った区間だけ。東階段、北荷路第一口、旧配管路、七段坂、診療所前。各区間に、開ける条件、閉じる条件、代替路、連絡方法、確認者を一名以上書く。確認者は命令権ではない。危険を見たら停止を出し、別の人が異議を出せる」
「期限」
鷺沼がすぐ訊く。
「七日。七日後に全項目を見直す。使われなければ失効。事故が出れば即時停止。変更理由を残す」
「患者名」
「不要。受領責任者と医療封印。患者照合は診療所内」
「荷の中身」
「危険物区分と温度条件だけ。詳細は必要な区間へ限定」
「誰が台帳を持つ」
「私」
「空白の旗として?」
「救難員として」
澪の声は小さくなった。
命令ではない、自分の話をするときの声だった。
「迅たちの部下にはならない。白冠へも戻らない。道を歩いて、変更を記録する。聞こえない合図は、聞こえる人と振動と目で確認する」
「一人で?」
小麦が訊く。
「最初は」
「一人だと休めない」
「手伝う人を募る」
「誰がご飯を出す」
「依頼する」
「料金」
「払う」
「よし」
小麦はそれだけ言った。
迅が帳面を見る。
「名前は」
澪が頁の上へ鉛筆を置く。
「救難路台帳」
「班の名前」
タマキが訊く。
「班?」
「台帳を持つ人、道を見る人、鍋を叩く人。呼ぶとき困る」
「呼ばなくていい」
「仕事を頼めない」
「帰路を作る班」
小麦が言う。
「長い」
「帰路班」
タマキが縮めた。
澪はその三文字を見た。
「組織名ではない」
「じゃあ何」
「仕事の名前」
「人の名前じゃない?」
「誰がやってもいいように」
「なら書く」
タマキが頁の上へ《帰路班》と書いた。左手で書いたため、少し右上がりだ。
澪は消さなかった。
鷺沼が言う。
「俺は参加しない」
「頼んでない」
澪が返す。
「だが、経路監査はする。代替路が実際に通れるか見る。台帳へ異議を書く」
「許可ではなく異議なら」
「それを誰が判断する」
「区間の人」
「また曖昧だ」
「七日で試す」
「失敗したら」
「止める。理由を残す」
鷺沼は三つ折りの紙を開き、自分の許可制案へ一本線を引いた。
破棄はしない。
彼の不安も、案も、消えてはいない。
午後三時四十一分、待合室の白壁へ、七瀬の記録が投影された。
即時公開ではない。
患者側の窓、箱番号、顔、声の一部を除き、区間責任者が誤りを確認した版だ。入口には、何を削ったかを書いた紙が貼られている。
《削除:患者識別情報》
《遅延:経路秘匿のため最大三分》
《未記録:一分》
《未記録部分の再現映像なし》
集まった住民は二十人ほどだった。
映像が七瀬の停止時刻へ来る。
画面が黒くなる。
一分。
時計だけが進む。
「ここで薬をすり替えたかもしれない」