第26話 第十一章「手から手へ」後編

 小麦が言う。

「効くかは観察。副反応もある」

「名言を潰すな」

「医療を名言で終わらせるな」

 八時五十二分五十八秒。

 投与完了。

 看護師が空の薬瓶を密封袋へ入れる。

 家族が中籠を持って戻ってきた。

 中身は空。

 冷却材と温度票だけ。

「これは、どうします」

 家族が訊く。

「同じ道で返す」

 澪が答えた。

「薬は着いた」

「箱が戻る。運んだ人も戻る」

「急ぐ必要は」

「今度は急がない」

 小麦は中籠の白布を持った。

「取る」

 家族が彼女の目を見る。

「渡す」

「取った」

 空の箱が、逆向きへ動き始めた。

 今度は、区間ごとに急ぐ速さを決めた。

 階段は二人で持つ。

 住宅通路は一人ずつ。

 窓は使わない。空箱なら縦にして通れる。

 濡れた白布は別袋へ入れ、水色布は提供者へ用途を報告してから洗う。

 薬がないから、失っていい物は一つもなかった。

 診療所前で、遅れて来た人々が拍手を始めた。公開映像で道が開いたことだけを知った者たちだ。空箱へ触れようと、手が伸びる。

「記念に持たせて!」

「写真だけ!」

 七瀬が撮影機を下げた。

「これは借用品です。記念物ではありません」

「薬を運んだ証拠だろ」

 苔色紐の少女が、列の外から言った。

「証拠だから返す。ここへ置いたら、次に必要な人が使えない」

「白冠の人が言うの?」

「紐は外してない。道を通したことと、私が何へ賛成してるかは同じじゃない」

 少女は空箱の次の持ち手を取った。

「取る」

 拍手は少しずつ止まる。

 代わりに、受け渡しの声が戻る。

 曲がり窓の住民は、今度は窓を開けなかった。

「空なら立てられるよ」

 タマキが中籠を垂直にし、壁と人の間を通す。窓を借りない帰路は、行きとは別の手順になった。

「行きと同じじゃない」

 第一検問の青年が言う。

「同じ道でも、荷が違う」

 澪が答える。

「だから帰路は、行きの逆再生じゃない」

 右耳で自分の声の高い成分が抜ける。澪は言葉を低く置き直した。

「箱、縦。次、左手。段差一。復唱」

「縦、左、段差一」

 列が返す。

 薬を運んだ時には見えなかったものが、帰りには見えた。

 壁から突き出た釘。

 足元の割れ。

 誰かが借りたままの杖。

 止め役が一度も座っていないこと。

 空箱は軽い。

 軽いからこそ、人は周りを見る余裕を取り戻せた。

 診療所から七段坂へ。

 手から手へ。

 さっき持った人が、今度は逆の手で受ける。苔色紐の少女。道を塞いだ男。窓を貸した住民。第一検問の青年。轟。

 ただし、全員が同じ場所に残っていたわけではない。

 七番区間の女は、子どもを迎えに行った。十二番区間の老人は、薬が通った直後に足が攣り、椅子へ座っている。窓を貸した住民は、仕事の裁縫へ戻った。

「行きと同じ四十七人じゃない」

 第一検問の青年が言う。

「同じ人でなければ、帰路にならない?」

 澪が訊く。

「責任を持った人が戻すんじゃ」

「役割を渡して、渡したことを残す」

 小麦は空いた区間へ札を置いた。

《七番・交代》

《十二番・座位合図》

《窓区間・縦通過》

 子どもを迎えに行った女の代わりには、往路で停止役をしていた男が入る。老人は箱を持たず、段差の数を声で伝える。裁縫の窓は借りず、空箱を縦へする。

「本人がいなくても、本人の仕事が残る」

 タマキが言った。

「残しすぎると、その人をずっと働かせる」

 小麦が返す。

「交代した時刻も書く。帰った人へ、あとから《最後までいなかった》って請求しない」

 苔色紐の男が、空箱を受け取る。

「俺は途中で道を塞いだ」

「今は戻す?」

「それで帳消しにはならない」

「しない」

 小麦は即答した。

「一つの手で、前の手を消さない。持つなら今の区間だけ」

 男は頷いた。

「取る」

「渡す」

「取った」

 空箱は進む。

 人が交代しても、言葉は同じだった。

 同じ言葉が、人を同じ人物にするのではない。

 違う事情を持ったまま、同じ重さを一瞬だけ受け取れるようにする。

 七瀬は、戻る手も撮った。

 顔はない。

 空の箱は、薬より軽い。

 それでも誰も投げなかった。

 八時五十三分四十秒。

 中籠が七段坂の外箱へ戻る。

 安全域が終わる五十一秒前。

 もう中身はない。

 空であることが、失敗ではなく帰還の証拠になった。

 小麦は鍋蓋を一回鳴らした。

 坂の下から、上から、窓から、一回ずつ返る。

 勝利の歓声ではない。

 受け取った、という生活の音だった。