第25話 第十一章「手から手へ」前編

七月十五日 午前八時四十五分

 料理を一人で速く運ぶ方法は、走ることではない。

 厨房から客席まで、人を並べることだ。

 土門小麦は七段坂の上を見た。

 診療所まで、残り六百二十メートル。

 曲がり角五つ。階段二つ。狭い住宅通路一つ。高低差二十八メートル。保冷箱を四人で運べば十一分。薬の安全域は九分三十一秒。

 走れば七分。

 右腕を折った迅。

 左膝を壊した凱。

 右耳の聞こえない澪。

 左肩の痛む七瀬。

 水路で手を焼いた轟。

 十四歳のタマキ。

 走る人を選べば、薬が着く前に誰かが荷物になる。

「箱を開ける」

 小麦は言った。

 保冷庫の職員はいない。ここからは、温度票と封印の指示に従って自分たちで扱う。

「外気へ出すのか」

 七瀬が訊く。

「外箱ごとは遅い。中籠だけ運ぶ」

 タマキが四隅の留め具へ手を掛けた。

「僕が直した部分。冷却材四枚と筒が一緒に抜ける。八分は持つ」

「安全域は九分三十一秒」

「外したら条件が変わる」

「何分」

「冷却材の温度で七分二十秒。日陰なら八分。人の手が温かいと減る」

「外さない方が一分半長い」

「外すと四分速い」

 小麦は手を上げた。

「外す。手で直接持たない。布を二枚。受け渡し一人十歩から二十歩。走らない。投げない」

「人がいる?」

 迅が坂の先を見る。

 いる。

 窓で鍋を叩いた住民たちが、道へ出ていた。診療所から来た看護師。洗濯場の人。朝市の店主。第一検問の担当。白布を二百円で買った少年。鷺沼の警告を信じて門を守った者。

 誰も患者名を知らない。

 知る必要もない。

「人数」

 澪が訊く。

 右耳へ届かない声があるため、窓と口元を見て数える。

「今、三十四。途中で増える」

 小麦は答えた。

「必要は」

「六百二十メートル。一人十五メートルなら四十二人。曲がり角に二人ずつ足す。四十七」

 人数だけでは列にならない。

 小麦は路面へ木炭で五つの印を描いた。

 丸は受け渡し。

 三角は足場注意。

 四角は布交換。

 横線は、反対方向の人を通す待避点。

「子どもは持たない」

 小麦が言う。

「持てるよ」

 白布を買った少年が腕を曲げる。

「持てると、持っていいは別」

「じゃあ何する」

「次の区間へ《来る》を伝える。声が届かなければ鍋一回。危険なら二回。手が空いた人が来るなら三回」

「重要?」

「大人より先に薬へ触らない仕事」

 少年は少し考え、鍋を受け取った。

 澪は列の間へ三人の《止め役》を置いた。運ぶ人ではない。誰かが転んだ時、前後を同時に止める人だ。声だけでは右耳に届かないため、白い縄を腰の高さへ渡し、一度引けば停止、二度で再開と決める。

「引っ張られたら、箱を持つ人は止まる。理由を探しに動かない。前の人が復唱」

「停止、理由を待つ」

 列が返す。

 鷺沼側の若者が鼻で息を吐いた。

「誰かが薬を奪った時は」

「人を追わない」

 小麦は答えた。

「箱の前と後ろを止める。持っている人へ《どこへ渡す》と訊く。答えられなければ、直前の人へ戻す」

「逃げたら」

「六百二十メートル全部に、次の手が待ってる。列を外れたら、一人で走ることになる」

「囲むんだろ」

「囲まない。道を続ける」

 迅が言った。

「逃げる人間を敵にすると、薬までそっちへ行く」

「ずいぶん信用する」

「逆だ。信用しなくても動く形にする」

 小麦は区間札へ番号を書いた。人の名ではない。道の番だ。

 一番、七段坂上。

 二番、曲がり窓。

 三番、二階段。

 四番、住宅通路。

 五番、診療所前。

「自分の区間を離れる時は、次の人へ札を渡す。善意は、勝手に増えると迷子になる」

「善意まで配膳するのか」

 凱が訊く。

「熱いものほど順番が要る」

 小麦は言った。

「偶然、好きな数字」

 タマキが言う。

「薬の安全域と同じ」

「縁起で運ぶな」

 迅が返す。

「人数で運ぶ」

 小麦は坂の住民へ向き直った。

「薬を、手から手へ渡す! 名前は言わなくていい。受け取る前に《取る》、持ったら《取った》、渡す前に次の人の目を見る。投げない。追い越さない。二十歩以上持たない!」

「誰の命令だ」

 鷺沼側の若者が言った。

 第一検問で迅へ拳を振った男だった。腕の苔色紐は濡れている。

「厨房の手順」

「ここは食堂じゃない」

「落としたら食べられない物を運ぶ。ほぼ同じ」

「許可のない人間へ薬を触らせるのか」

「外箱は封印。中籠も開けない。触るのは布。受け渡しは七瀬が時刻記録」

「誰かが持って逃げる」

「二十歩ごとに次の人が待つ。逃げたら、道から外れた人が一人になる」

「一人を囲むのか」

「追わない。前後を止める。薬の場所だけ戻す」

「そんなにうまく――」

「うまくいかせるために並ぶ」

 小麦は鍋蓋を一回鳴らした。

 かん。

 窓の鍋が一回返る。

 道路の人が、両手を空ける。

 買い物袋を足元へ置く。子どもを壁側へ立たせる。杖を隣の人へ預ける。誰かが布を持ってくる。洗濯場の白いシーツを細長く裂いたものだ。

「裂いていいの?」

 七瀬が訊く。

「返却時に縫う」

 洗濯場の人が答えた。

「誰が」

「使った人。縫えないなら別の仕事」

 小麦はうなずく。

 善意は、修理の担当まで決めて初めて道具になる。

「七瀬、顔を撮らないで」

「手元だけ。時刻と受渡番号。拒否した人は映しません」

「番号は人につけない」

「区間につけます」

 七瀬はレンズを腰より下へ向けた。

 画面へ入るのは、手、布、靴、石段。

 誰の顔もない。

 けれど、指の震え、爪の汚れ、包帯、仕事だこは、顔より多く人を語る。

「凱」

 小麦が呼ぶ。

「何だ」

「坂上から最初の曲がり角まで、列を作って。命令じゃなくて、何をしてほしいか言って」

「分かっている」

「今、顔が王」

 凱は眉間へ手を当てた。

 それから住民へ向く。

「この手すり沿いに、腕二本ぶんの間隔で立ってもらえるか。足の悪い人は無理をしないでほしい。曲がり角は、箱の向きを変えるため二人必要だ。手を貸せる人は、自分で場所を選んでくれ」

「長い」

 迅が言う。

「命令を短くする癖があるからだ」

「頼み事まで演説にするな」

「おまえが言え」

「並べ。無理なら抜けろ」

「短すぎる」

「二人を足して割れない」

 タマキが言った。

「割ると、意味が半分」

 轟は外箱を地面へ置き、留めピンを抜く。

 白糸の一本は地下水路の弁へ残っている。三本だけで外枠を支え、中籠を引き出す。

 冷気が白く流れた。

 中籠は、銀色の細長い箱だった。長さ四十センチ。幅十五センチ。両側に布を通す穴がある。

 小麦は白布を二重にし、持ち手へ通した。

「直接触らない。手の熱を布で逃がす。布が湿ったら交換」

「湿った方が冷たい」

 迅が言う。

「外気の熱を吸う。今は乾いた方」

「料理人は物理もやるのか」

「火と水と重さを扱う。やらないと客が死ぬ」

 温度票は四・五度。

 時刻、八時四十六分四十秒。

「列、四十一人」

 澪が言う。

「足りない」

「途中から七人来る。診療所側が迎えを出した」

 坂の上で鍋が三回鳴る。

 手を貸す人がいる。

「開始」

 小麦は言った。

 列の七人目で、最初の停止が起きた。

 薬を受け取るはずだった女が、白布を掴んだまま離さない。指が強張り、次の人へ渡せない。

「取った」

 声は言えている。

「渡す」

 言葉が出ない。

 去年、配給箱を渡した直後に群衆へ奪われたのだと、隣の者が小声で説明した。箱を持っている間だけは、自分が守れている。手放せば、また失う。

 後ろから《早く》という声が出かける。

 小麦は鍋蓋を二回鳴らした。

 停止。

「次の人の目を見る」

 女は見ない。

「無理なら戻していい」

「戻したら、私のせいで遅れる」

「持ったままでも遅れる。どっちを選んでも、あなた一人のせいにはしない」

 女の手が震える。

 次の青年が、布ではなく自分の札を見せた。

「三十歩先まで持つ。俺の区間。逃げたら、四番の人が止める」

 名前ではなく、次に何をするか。

 女はようやく青年の目を見た。

「渡す」

「取った」

 白布が離れる。

 女は列を抜けなかった。薬は持たず、その場で後ろへ向かって《来る》を伝える役へ替わった。

 同じ仕事を続けることだけが、責任ではない。

 最初の人は轟。

 大きな手が白布の端を持つ。もう一方は小麦。

「取る」

 轟。

「取った」

 小麦。

 二人で持ち上げる。

 十歩。

 次は第一検問の青年。

「取る」

「目を見て」

 小麦が言う。

 青年は轟を見る。

「取る」

「渡す」

 布の端が移る。

 中籠は止まらない。

 持つ人が変わるたび、重さの中心が少し揺れる。料理皿なら汁がこぼれる。薬なら温度と衝撃が記録へ残る。

「急がないで速く!」

 小麦が叫ぶ。

「矛盾してる!」

 誰かが返す。

「足は急がない! 手を待たせない!」

 列の意味が伝わる。

 一人が二十歩走るより、四人が五歩ずつ前へ送る。

 中籠は坂を上る。

 七瀬の撮影機が、手だけを追う。

 油に黒ずんだ手。

 白冠の黒手袋を外した手。

 小さな子どもの手は、直接持たず、布の交換を渡す。

 指のない老人は、次の人の足元を指差して段差を知らせる。

 顔を映さなくても、道は人でできていた。

 洗濯場の排水樋を横切るところで、白布の先が一度、地面へ触れた。

 泥水ではない。洗い終えた水だ。それでも布は湿り、手の熱を冷却材へ運びやすくなる。

「停止」

 澪の腰縄が一度引かれる。

 前後の手が、同時に止まった。

「落としてない」

 持っていた男が言う。

「布の条件が変わった」

 小麦は責めずに答えた。

 四角印の場所から、乾いた布が来る。東階段の住民が、枕覆いを二枚重ねて持ってきたものだった。

「切っていい」

「返す時、同じ形には戻らない」

「子どもが大きくなって、もう使わない」

「なら、布代を払う」

「要らない」

「じゃあ、使った長さと用途を書いて返す。代わりに必要な物が出たら言う」

「面倒な料理人だね」

「無料は、言えなかった値段があとで出る」

 湿った白布を外し、乾いた枕覆いを持ち手へ通す。色は薄い水色だった。

「白じゃない」

 少年が言う。

「仕事は色で変わらない」

 小麦は答える。

 七瀬が記録する。

《八時四十七分三十六秒。区間一。白布一枚を水色布二枚へ交換。提供者匿名。返却ではなく用途報告》

 薬を運ぶ道具は、途中から見栄えが悪くなった。

 その方が、誰かの旗にされにくかった。

 八時四十八分。

 最初の曲がり角で、列が詰まった。

 住宅通路の幅は四十五センチ。二人並べない。中籠を水平に保ったまま向きを変えるには、壁の窓を一度通す必要がある。

「予定では窓を使わない」

 澪が言う。

「生活を道にしない」

「でも、ここで止まる」

 小麦は窓の住民を見る。

 昨日まで、この部屋を通る道は、夜勤明けの子どもの睡眠を奪うため不採用にした場所とは別の家だ。窓辺には洗い物。机に裁縫道具。住民は手を出しているが、許可を確認していない。

「使っていい?」

 小麦が訊く。

「何分」

 住民が返す。

「二十秒。窓枠へ布を敷く。壊したら直す」

「顔は撮らない?」

 七瀬が答える。

「撮りません。部屋の中も」

「なら通して」

 許可が出る。

 轟が自分の工事ベストを窓枠へ敷く。中籠が室内へ一度入る。住民の手、反対側の若者の手。

「取る」

「取った」

「渡す」

 二十秒ではなく、十二秒。

 通り過ぎたあと、工事ベストのポケットから六角ねじが一つ落ちた。

 タマキが拾う。

「轟。あとで返す」

「今、ポケット」

「列を止める」

「では後」

「記録」

 七瀬が言う。

「八時四十八分二十九秒。窓枠使用。工事ベスト一、ねじ一、後で返却」

 世界を救う記録としては小さい。

 小さい物を残せない記録は、大きい嘘へ近づく。

 二つ目の階段で、鷺沼側の若者が列の前へ立った。

 先ほど小麦へ反論した男だ。

「ここから先は俺たちの区画だ」

 中籠が三人手前へ迫る。

「止める?」

 小麦が訊く。

「許可の争いは終わってない」

「終わってない」

「じゃあ、通せない」

「患者へ届いたあと、争う」

「届いたら既成事実になる」

「届かなかったら、患者が事実じゃなくなる」

 男の顔が歪む。

「俺たちは、道を守ってる」

「なら、持って」

 小麦は白布の次の端を示した。

「許可したことになる」

「ならない。患者を生かすことと、許可制度へ賛成することは別」

「都合がいい」

「分けない方が都合いい。反対する人を人殺しにできるから」

 中籠は二人手前。

「取る!」

 前の住民が言う。

 一人手前。

 男は道を塞いでいる。

 その後ろには、彼と同じ苔色紐の少女がいた。彼女は腕の紐を外さず、両手を出した。

「私は持つ。制度には賛成してる。でも、今は持つ」

 男が振り向く。

「裏切るのか」

「何を。患者を?」

 中籠が届く。

「取る」

 少女が言う。

 前の住民が目を見る。

「渡す」

「取った」

 白布の端が移る。

 男は道の中央に残る。

 少女は彼の横を通れない。

「どいて」

「俺は――」

「反対はあとで聞く。今、右へ一歩」

 命令ではなく、具体的な場所だった。

 男は右へ一歩退いた。

 中籠が通る。

 通り過ぎたあと、彼も列の後ろへ入った。

「取る」

 声は小さかった。

「聞こえない」

 澪が左側から言う。

 男は言い直した。

「取る!」

 次の人が渡す。

 許可の争いは終わっていない。

 それでも手は、同じ重さを持てる。

 住宅通路の出口で、今度は反対側から小さな手押し車が来た。

 酸素瓶が二本。毛布。空になった水袋。診療所から在宅患者の家へ戻す物資だ。押している看護助手は、薬の列を見て壁へ寄ろうとした。

「待って」

 澪が止めた。

「そっちが先」

「薬が急ぎでしょう」

「帰る物も道を使う。横線の待避点まで二十歩。先に出さないと、後ろで詰まる」

 小麦は温度票を見る。

 余裕は少ない。

「通す」

 言った声に、自分で苛立つ。

 急いでいる時、人は自分の荷だけを患者だと思い始める。

 列の三人が壁側へ回り、中籠を胸の高さで水平に保つ。直接壁へ押しつければ熱を拾うため、水色布の余りを挟む。酸素瓶の車輪が、空いた三十センチをゆっくり抜ける。

「ごめんなさい」

 看護助手が言う。

「謝らないで。帰る途中でしょ」

 小麦が返した。

「はい。瓶を待ってる人がいます」

「なら急いで。走らないで」

「どっちですか」

「足は急がない。手を待たせない」

「同じこと言ってる」

 タマキが笑った。

 手押し車が待避点へ出る。

 澪の縄が二度引かれる。

「再開。前へ十五歩。曲がり角、目を見る」

 薬の列が動く。

 停止は二十三秒。

 その二十三秒で、帰り道が一つ塞がれずに済んだ。

 通路を抜けると、朝日が建物の隙間から真横へ差した。

 日陰を前提にした八分が、ここだけ十五メートル途切れる。中籠の銀面へ光が当たり、温度票が一目盛り動いた。

「五・〇」

 七瀬が読む。

「布だけじゃ足りない」

 小麦が言う。

 列の人々が、自分の持ち物を見る。

 日傘二本。

 魚屋の葦簾。

 学校帰りの黒い外套。

 店の看板。

「箱へ触れない。影だけ作る!」

 小麦の声で、道の上に屋根が生まれた。

 日傘を持つ人は中籠と同じ速さで歩けない。そこで影も手渡す。前の人が五歩進み、次の日傘が開く。葦簾は二人で持ち、看板は壁へ立てる。

「許可なく看板を使うな!」

 店主が叫ぶ。

「借りる! 十五秒! 傷つけたら直す!」

「店名を下にしろ!」

 看板が裏返される。

 広告ではなく、ただの板の影になる。

 タマキが前へ走り、次の角の日陰までの歩数を数える。

「二十六歩。傘二本で足りる。葦簾は戻して」

「戻す人」

 澪が訊く。

 看板の店主が自分で手を上げた。

「俺が戻す。店の物だ」

「搬送列から外れる」

「元から見物してただけだ」

「なら、今から借用担当」

 小麦が言う。

 中籠は、切れ切れの影を縫って進んだ。

 誰か一人が太陽を止めたわけではない。

 傘と簾と看板を持つ、名前の違う影が、十五メートルだけ同じ屋根になった。

 八時五十分。

 小麦の指先が震え始めた。

 空腹ではない。

 そう思った瞬間、自分が朝から固形物を食べていないことを思い出した。味見を二口。砂糖水を一口。皿洗いと保冷箱と水路と坂。

 《同じ釜》を使えば、同じ鍋から名を告げて食べた者の疲労、寒さ、空腹を均せる。

 今朝の粥を食べた搬送班なら、七人。

 自分の低血糖を七つに薄められる。

 足は動く。

 だが、迅の骨の痛み、凱の膝、澪の平衡、轟の火傷も同じ食卓の中にある。疲労だけを均したつもりで、症状を隠すかもしれない。

 小麦は能力を使わなかった。

「休む」

 言葉が喉へ引っかかる。

 世話をする人間が休むと、鍋が止まる。

 それが一番怖い。

「小麦」

 タマキが目の前へ塩パンを出した。

「食べる」

「今は」

「歩きながら一口」

「衛生」

「袋のまま。僕が持つ」

「列が」

「小麦が止まる方が列が止まる」

 小麦は塩パンを一口かじった。

 噛む時間が惜しい。

「飲み込んで」

 タマキが言う。

「分かってる」

「噛んだだけで働く人いる」

「誰」

「小麦」

 飲み込む。

 タマキが水を渡す。

 七瀬はその顔を撮らない。

 小麦が休んだ時刻だけを、手元の札へ書く。

《八時五十分十四秒 十五秒休憩》

「十五秒は休憩じゃない」

 小麦が言う。

「記録上は不足。あとで足す」

「あとで逃げるかもしれない」

「追う」

「食い逃げ扱い?」

「休み逃げ」

 中籠は最後の階段へ入った。

 診療所側から来た看護師が、温度票を読む。

「五・二度。封印正常。投与器具は」

 凱が白布包みを渡す。

「管理印、番号」

 七瀬が読み上げる。

 二人で照合。

「一致」

 時刻、八時五十一分三十七秒。

 看護師は中籠を抱えて走らない。

 次の住民へ渡す。

「医療者が持った方が」

 誰かが言う。

「投与準備をする手を空ける」

 看護師は答えた。

 診療所入口まで、あと百メートル。

 廃線車両の扉が開いている。

 患者の家族が待つ。顔を隠してはいないが、七瀬のレンズは手元から上がらない。

「取る」

 家族の手。

「取った」

 看護師の手。

「渡す」

 中籠が車両へ入る。

 小麦たちは入口で止まった。

 中へ全員が入れば、医療の邪魔になる。

 外で待つ。

 歓声は上がらない。

 まだ薬は届いただけだ。

 封が切られる音。

 番号の復唱。

 投与器具の接続。

 看護師の声。

「八時五十二分二十一秒。投与開始」

 その前に、看護師は三つの物を机へ並べていた。

 副反応時の注射器。

 酸素マスク。

 時刻を書いた紙。

 届いた薬が正しければ、準備は無駄になるかもしれない。無駄になった準備ほど、医療では歓迎される。

「封印番号、家族確認」

 中から声がする。

「一致」

「薬剤名は声に出しません。管理票で指差し確認」

「確認」

「投与量」

「確認」

 七瀬はその会話を、病室の外で録音する許可だけ取った。薬剤名と患者情報が入る部分は、公開音声から外す。外した秒数は残す。

 小麦は扉の隙間へ目を向けない。

 料理場なら、客が最初の一口を食べる瞬間を見たい。

 ここでは、見ないことが仕事だった。

 患者の家族が一度だけ廊下へ出てきた。

「皆さんへ、名前を言った方がいいですか」

「言わなくていい」

 迅が答える。

「助かったら、お礼を」

「助かるのは、その子の身体と医療の仕事だ。道を運んだ人は、自分の区間をやった」

「冷たい言い方」

 小麦が言う。

「熱のあるところで冷たい方がいい」

「名言にしない」

 家族は泣きそうな顔で、少しだけ笑った。

「では、名前は言いません。ありがとうございました、だけ」

「それは受け取る」

 小麦が答えた。

 七瀬は壁を撮る。

 患者の顔も、家族の顔も、病室番号も映さない。

 迅が入口の外で息を吐く。

「間に合った」

「開始しただけ」