第28話 第十二章「帰路班の名前」後編

 後ろの男が言った。

「可能性は否定できません」

 七瀬が答える。

「じゃあ記録の意味がない」

「記録がない場所を、ないと示す意味があります」

「おまえを信じろって?」

「信じなくていい。停止前後の封印番号、温度票、持っていた人の証言、診療所での受領照合を別々に見てください」

「映像一つで分かるようにしろ」

「一つで全部分かるものは、一つを握る人へ全部を渡すものです」

 男は不満そうに腕を組んだ。

 前列には、偽映像で負傷した少年がいた。顔は包帯で半分隠れている。七瀬が撮影を止めた一分のあいだ、別の救難員に発見された少年だ。

「僕の話、出てない」

「希望どおり、文章だけにしました。名前も顔もありません」

「それだと、作り話って言われる」

「言われる可能性はあります」

「顔を出したら信じる?」

「信じる人は増えるかもしれません。あなたを探す人も増えます」

 少年は膝の上で指を組んだ。

「じゃあ、今は出さない」

「あとで変えられます」

「映像を撮らなかったら、あとで出せない」

「だから、顔を撮らずに声だけ保管する選択もあります。公開はしない。保管期限も決める」

「面倒」

「はい」

「でも、選ぶ」

 少年は声だけを一年保管し、公開は本人の再確認後と決めた。

 上映が終わっても、拍手はなかった。

 代わりに、三つの訂正が出た。

 窓を使った時刻が二秒違う。

 手すりを持った人数は七人ではなく八人。

 白布の一枚は食堂ではなく洗濯場の物。

 七瀬は全部書き直した。

 英雄の映像は、訂正されると傷つく。

 仕事の記録は、訂正されてようやく使える。

 午後四時五十分。

 返却作業が始まった。

 滑車索の切れた部分は交換し、洗濯場のブレーキ棒には新しい割りピンを入れる。外した橋板は住民が許可する時間だけ戻し、人が渡れないことを大きく書く。地下水路の弁へ工場で作った六ミリのピンを入れ、保冷箱の白糸ピンを回収する。

 轟は両手を使えないため、寸法と順番だけを言う。

 言われた人が作業する。

「右へ二回」

 轟が言う。

 タマキがねじを回す。

「固い」

「力じゃない。軸を合わせろ」

「右へ二回って命令?」

「手順」

「拒否できる?」

「壊して払うなら」

「料金が強い」

 凱は座って、返却品の一覧を読む。

 座る練習ではない。医師に立つなと言われたからだ。椅子は出口へ正対している。

 迅は両手を使えず、白布へ文字を書く役にもなれない。

「役に立たない」

 迅が言う。

 七瀬はレンズを向けず答える。

「座っている記録があります」

「不名誉だ」

「医師の指示を守った最初の事例」

「朝も守った」

「途中まで」

「おまえは肩を使った」

「記録済みです」

「自分だけ逃げ道がないな」

「作りません」

 七瀬は自分の記録票を開いた。

《七月十三日 午後四時三十二分三秒から四時三十三分三秒》

《映像・音声なし》

《停止判断者:火群七瀬》

《理由:現在地秘匿、患者経路保護、機材搬出》

《結果:経路非公開。負傷者は別救難班が発見》

《結果をもって判断を正当化しない》

 最後の一文を、三度書き直した。

「長い」

 迅が覗く。

「見ないでください」

「撮る人間が言うな」

「記録票は私物です」

「公開するだろ」

「公開前は私が責任を持ちます」

「一分を埋めないのか」

「証言は付ける。映像は作らない」

「俺が全部覚えてると言っても」

「あなたの記憶として載せます」

「信じない?」

「信頼と原資料を分けます」

「面倒だな」

「あなたより少し」

 七瀬は、その言い方が澪から移ったことに気づいた。

 修理が一区切りすると、小麦は診療所裏へ長机を出した。

 夕食は、残った粥へ刻んだ青菜を足したもの。焼いた豆腐。氷を運んだ市場から傷物として安く譲られた胡瓜。豪華ではない。

「祝勝会?」

 第一検問の青年が訊く。

「夕飯」

 小麦は答えた。

「勝ったから食べるんじゃない。朝から食べてない人がいるから」

 鷺沼は端の椅子へ座り、右足を別の箱へ載せた。苔色の紐は外していない。凱とは机の反対側だ。

「同じ鍋を食べたら、そっちの能力の条件へ入る」

「名を告げて食べた人だけ」

「告げない」

「じゃあ客一」

「番号で呼ぶな」

「名前を言わない人へ名前で呼べない」

 鷺沼はしばらく小麦を見てから、名字だけを言った。

「鷺沼」

「はい、鷺沼。粥一。能力は使わない」

「信用しろと?」

「使ったら言う。言わずに均すと、私が鍋を失う」

 鷺沼は器を受け取った。

 凱が割れた鐘を机へ置く。金属が器へ当たりそうになり、迅が顎で遠ざけろと示す。

「手が使えないと、態度が大きい」

 凱が言う。

「元から」

「自覚があるなら直せ」

「元王が言う?」

「今は座っている患者だ」

「便利だな、その身分」

 澪は七瀬の左側へ座り、右側を空けた。七瀬が何か言う時は、澪の視界へ入ってから口を開く。最初の二回は忘れ、三回目から自然になった。

 轟は包帯の手で箸を持てず、木の匙を掌へ紐で固定した。タマキが結び目を強くしすぎ、豆腐を持ち上げるたび轟の眉が動く。

「痛い?」

「正常」

「個人的な希望?」

「おまえが黙ることが」

 机の上で、午前中に別々の道を通った者たちが、同じ鍋を食べた。

 同じ意見にはならない。

 食事は和解ではない。

 口に物が入っている間だけ、相手の話を遮れなくする技術だった。

 午後七時二十六分。

 患者の熱が、初めて三十八度台へ下がった。

 看護師は「薬が効いた可能性」と記録した。断定しない。

 八番室の扉が、指二本ぶんだけ開いた。

 十二歳の少年は起き上がれない。叔母が、内側から折った紙を差し出した。熱で筆圧が弱く、線は途中で何度も途切れている。

 描かれていたのは、朝、帰り側の支柱が潰れた紙の橋だった。

 今度は行きと帰りの両方に、小さな人影が並んでいる。片方だけ、中央へ置かれた丸い瓶のそばに残っていた。

《はこは?》

 七瀬は撮らず、紙を迅へ見せる。

「戻った」

 迅が扉へ言う。

《ひとは?》

「途中で仕事へ戻った奴もいる。交代した奴も。運んだ班は帰った」

《ぜんいん?》

 迅は答える前に、澪を見る。

 澪は帳面を開いた。

「搬送班八、帰還八。手渡し区間、負傷者なし。持ち帰り作業あり。窓ねじ一、シーツ縫合一、水路再点検一」

 扉の向こうで、紙を擦る音がする。

《それは かえった?》

「仕事は持って帰った」

 タマキが左側から答えた。

「明日返す」

 少し間があり、紙の下へ文字が足された。

《くすりだけ ずるい》

 迅は笑った。

「そいつは置いていく約束だ」

 少年の咳は、朝より短かった。

 七瀬は扉も紙も撮らなかった。

 代わりに、家族の許可を得て、観察表へ一行だけ付けた。

《十九時三十一分、患者本人が搬送者の帰還を確認。》

 助けられた側を、感謝する役だけにしない。

 帰ったかを問う人も、帰路の一部だった。

 家族は廊下で泣いた。

 七瀬は撮らなかった。

 撮らないことを、記録票へ書いた。

 夜、診療所前で帰還確認をした。

 薬を手渡した四十七人全員が集まったわけではない。仕事へ戻った者、眠った者、名を残さなかった者もいる。

 それでよかった。

 帰還は式典ではない。

 各区間の確認者が、戻った人数と、残った作業と、借りた物を読み上げる。

 澪は右耳で聞こえない声を、左側から言い直してもらった。聞き返すたび、謝らなかった。

 小麦が白布を細い帯へ切る。

 中央に穴はない。

 布には、それぞれ仕事と期限が書かれている。

《手すり修理・本日まで》

《保冷箱返却・完了》

《窓枠ねじ返却・完了》

《シーツ縫合・明日正午》

《水路弁再点検・七日》

 仕事を終えた者の手首へ、白布が一度だけ結ばれる。

「旗?」

 朝、二百円の布を持ってきた少年が訊く。

「違う」

 迅が答える。

「じゃあ何」

「終わった仕事」

「終わったのに付けるの」

「帰ったって数えるまで」

 澪が言った。

「確認したら外す。次の人へ渡す」

 少年は自分の手首へ《シーツ縫合・明日正午》を結んだ。

「まだ終わってない」

 小麦が言う。

「明日やる」

「なら帰還じゃなく持ち帰り」

「同じ?」

「違う。持ち帰った仕事は、明日返す」

 少年は真面目にうなずいた。

 七瀬は、手首だけを撮った。

 大きな手。

 小さな手。

 包帯の手。

 油の残る手。

 苔色の紐を外さない手。

 白い布を結び、ほどき、次へ渡す手。

 迅の両手には包帯と固定材があるため、布を結べない。

 タマキが左手首へ結んだ。

《搬送責任・七月十五日まで》

「今日で終わり」

 迅が文字を見る。

「終わった?」

 タマキが訊く。

 迅は診療所の窓を見る。

 患者の観察は続く。

 箱の返却は終わった。

 弁の再点検は七日後。

 シーツは明日縫う。

 鷺沼の異議も残る。

「今日の分は」

 迅が答えた。

 澪が人数を数える。

 靴先を三度鳴らす。

「搬送八人。帰還八人。区間担当、確認済み。未完了作業二。復唱」

「八、八、未完二」

 タマキが返す。

 白布は迅の手首から外され、次の帰還者へ渡った。

 誰の頭上にも掲げられない。

 夜風の中で、仕事の終わった手首へ、順番に結ばれていった。