第528話 第十章「一枚ずつ取り消す」後編
現在、通れる一方向だけ。
床のどちらへ次の一歩を置けば、受取人へ近づくか。
「封緘便〈シールド・ルート〉」
左。
最初の方向が分かる。
タマキは走らない。
前庭障害で視線が揺れる。
左手を壁へ。
右手に封筒。
一歩。
中央廊下ではなく、紙文書庫の搬入口。
階段ではなく、下り荷台。
閉鎖された連絡廊下ではなく、暖房配管の点検路。
人を軽くしない。
扉を開けない。
点検路の鍵は、保守担当者へ名前と目的を告げて借りる。
保守担当、野々村葉。
「命令文書の持出しは禁止です」
「撤回請求を、発令者へ返す」
「持出し」
「受取人、確認済み」
「目的」
「本人判断」
「期限」
「午前零時」
「私が開けたら」
「野々村葉さんが、点検路を一回開けた記録」
「責任」
「扉の施錠。中身は見ない」
野々村は鍵を開ける。
能力が、次の方向を示す。
暗い配管路。
床が少し傾く。
タマキの視界も傾く。
止まる。
壁へ額をつけない。
手だけ。
「案内、いる?」
野々村。
「途中まで」
能力があるから、一人で行けるとは言わない。
野々村は点検路の分岐まで同行する。
そこから先、能力が右を示す。
「ここで戻る」
野々村。
「受領」
タマキは一人で進む。
封筒は重くない。
軽くもならない。
命令一枚。
署名欄。
拒否窓口。
紙の重さだけ。
午後九時四十二分。
南別館二階。
資料整理室の扉に、越智鶴子の名札。
タマキが叩く。
返事。
「受け取ります」
扉が開く。
越智は六十代。
右手へ厚い手袋。
手袋の理由を、タマキは聞かない。
「あなたが、環玉樹さん」
「そう」
「出生登録に別の姓が」
「今、それ関係ある?」
越智は黙る。
「ない」
「じゃあ、環玉樹」
「受領」
タマキが封筒を渡す。
越智が、自分で封を切る。
その瞬間、《封緘便》の方向感覚が消える。
能力が終わる。
タマキの身体が、急に部屋の傾きを失う。
壁へ手をつく。
「大丈夫?」
「左耳、前から」
「座る?」
「一分」
越智は椅子を出す。
タマキが座る。
能力の後だから特別に弱いのではない。
水底で負った障害が、今もある。
越智は命令書を読む。
平文も。
「私が作った時は、子どもが一人で知らない場所へ送られるのを止めたかった」
「今は」
「成人責任者がいない子を、街から出さない命令になった」
「止める?」
「撤回する」
「戻す?」
「通常手続きへ。共同宿舎、病院、本人保留も受取先にする」
「署名」
「自分で」
越智は手袋を外さない。
左手で筆記具を持つ。
文字は遅い。
一画ずつ。
《越智鶴子》
「時刻」
「九時四十七分」
「受領者」
「梅野紺さんへ返す」
「帰り、能力ない」
「通常便を出す」
「それだと零時に間に合わない」
「あなたが持って戻る?」
「配達料」
「払う」
「能力なしの料金」
「同じ?」
「安くしない」
越智が少し笑う。
「能力がある方が高いと思った」
「危険と条件で決める」
「今回は」
「帰り道が分からない」
「案内を付ける」
「なら少し安い」
「正直だね」
「商売」
越智の案内役と、通常の廊下を戻る。
命令を届ける時だけ、能力を使った。
撤回書は、普通の足で運ぶ。
午後十時二十八分。
移動群十五番は、《発令者へ返却》の箱へ入った。
未決定、八本。
そこからは、時間が細くなった。
午後十時四十一分から十一時四十七分まで、残る七本は五つの机を往復した。
監視群十二番は、設備監視と居住者追跡を分けるまで審理付き停止。
医療群十一番は、代替薬が届く五月一日正午まで期限付き継続。
集会群九番は、人数制限を入口時刻と床荷重確認へ移して失効。
給水群十番は、私設井戸の所有権と緊急開放責任を審理へ戻した。
最後の移動群十七番は、拘置所退所者の保護と追跡が同じ欄に入っていたため停止した。
途中の監視一件、医療一件、移動一件も、それぞれの発令者へ返すか失効させた。机上では省略しない。放送で全件を物語にもしない。
七十二机から、《未決定》が消えた。
壁の最終集計。
医療十四本。
《失効 3》
《発令者へ返却 4》
《審理付き停止 2》
《期限付き継続 5》
給水十二本。
《失効 4》
《発令者へ返却 3》
《審理付き停止 2》
《期限付き継続 3》
移動十七本。
《失効 9》
《発令者へ返却 4》
《審理付き停止 3》
《期限付き継続 1》
集会十三本。
《失効 8》
《発令者へ返却 3》
《審理付き停止 2》
《期限付き継続 0》
監視十六本。
《失効 7》
《発令者へ返却 4》
《審理付き停止 3》
《期限付き継続 2》
総計。
《失効 31》
《発令者へ返却 18》
《審理付き停止 12》
《期限付き継続 11》
七十二。
数字は合っている。
数字が合っただけでは、発効しない。
各机に、正式文。
平文。
発令者名。
更新者名。
受領者名。
拒否窓口担当者名。
期限。
未回答。
真琴は最後の二枚を綴じる。
右に正式文。
左に平文。
間へ細い空白。
午後十一時五十二分。
零時まで、八分。
「決まった」
迅。
「判断は」
真琴。
「まだ終わってない?」
「零時に、端末が実際に失効・返却・停止・継続へ分かれるまで」
「敵、来る?」
「分かりません」
迅は三つの出口を見る。
「じゃあ守る」
「何を」
「八分」
端末室の外で、複数の足音が近づいた。
決められた命令を、最後にもう一度まとめようとする者たちがいた。