第527話 第十章「一枚ずつ取り消す」前編
正しい文は、短くない。
読まれる文も、たいてい短くない。
短い文が悪いのではない。
短くした人間が、落とした条件へ名前を書かないことが悪い。
朽葉真琴は、四月二十九日の朝、その考えを二度訂正した。
短くした人間だけではない。
長くした人間も、読まれなかった責任を負う。
午後一時。
中央更新端末室には、机が七十二あった。
命令一本につき、一机。
医療十四。
給水十二。
移動十七。
集会十三。
監視十六。
机の形を変えている。
医療は角を丸く。
給水は脚へ波形の刻み。
移動は車輪付き。
集会は二つへ分割可能。
監視は、正面から画面が見えない斜め配置。
色だけで分けない。
各机に、四つの箱。
《失効》
《発令者へ返却》
《審理付き停止》
《期限付き継続》
五つ目はない。
《未決定》は机の上へ置く。
決められないことを、箱へ隠さないためだ。
真琴は眼鏡を外し、布で拭く。
一メートル先の顔が、ぼやける。
七十二机は、白い塊になる。
眼鏡を戻す。
紙、名前、期限、拒否窓口が戻る。
「一人ずつ来ます」
朝。
黒い杖。
長時間立位を避け、高い腰掛け。
「発令者、更新者、受領者、拒否担当。全員?」
真琴。
「全員ではありません。同じ人が複数を兼ねた例、死亡、退職、連絡不能があります」
「代理は」
「説明代理は可能。決定代理は、委任範囲が確認できた場合だけ」
「職名代理」
「認めません」
「法的には可能な場合があります」
「今回は、人名へ戻す調査です」
「だからこそ、法的に可能なものまで禁止すると、別の例外を作ります」
朝が真琴を見る。
「どうしますか」
「職名代理を一律禁止しない。代理人は自分の氏名、委任者、委任範囲、本人が答えられない理由を記載。最終判断が本人へ帰属するか、代理人へ帰属するか分ける」
「長い」
一文字巴が左手で書く。
《代わりに来た人は、誰の代わりか、何を決めてよいか、自分の名前を書く》
「本人が答えられない理由が落ちています」
巴が追記。
《本人が来られない理由も書く。公開範囲は本人が決める》
「受領」
右人差し指は薄い副木。
腱痛は慢性化している。
左手で書く。
十五分ごとに交代。
巴の隣には、筆記交代者が三人。
誰も巴の代筆者ではない。
巴が決めた文を、手の代わりに書くだけ。
「本日の役割確認」
真琴が読む。
「私、正式文。巴さん、平文と理解確認。朝さん、文案履歴と端末仕様の説明。イオさん、生活影響。七瀬さん、記録。カナタさん、無観客放送と呼出し。凱さん、庁舎内の受領確認。迅、端末室と避難口の防衛。タマキ、個別通知一件および通常配達」
「一件?」
タマキ。
「能力使用は一件だけです」
「通常配達は、何件」
「料金と身体状態に応じて」
「曖昧」
「あなたが決めてください」
「受領」
迅が端末室の扉を見ている。
出口三つ。
非常口一つ。
搬入口一つ。
「誰が来る」
「命令を続けたい部署」
「敵?」
「必要な医療や給水を続けたい人もいます」
「じゃあ、通す」
「文書が整っていれば」
「整ってない奴は」
「止める」
「分かった」
「人を倒すのではありません」
「分かってる」
「本当に?」
「紙、守る」
「人も」
「紙より先」
「受領」
凱が左膝の装具を締め直す。
「俺は命令を出さない」
「確認ですか」
真琴。
「申告だ。受領者が不足した時、元王の名で代行しろという依頼が三件来た」
「断りましたか」
「断った。王位も能力もないことではなく、元の受領者の責任を俺へ移すことになるから」
「受領」
「ただし、本人が名前を出す場所まで同行する」
「役割へ追加します」
真琴は、正式な役割表へ書く。
《獅堂凱――受領確認への同行。代行決定権なし》
平文。
《凱は、一緒に来る。代わりに決めない》
凱が読む。
「短い」
「条件は落ちていません」
「役所に慣れたな」
「喜べません」
午後一時十九分。
最初の判断者が入室した。
医療群一番。
発令判断者、栗原医師。
更新入力者、佐橋由梨。
受領者、中央東診療所長代理、名取志保。
拒否窓口、患者相談担当、藍。
四人が、一つの机を囲む。
栗原が正式文を読む。
《能力履歴者に対する臨時診療優先順位指定》
巴が平文を出す。
《能力を持つ、または以前持っていた人を先に診る命令》
栗原は首を横へ振る。
「平文が強すぎる。全員を常に先にするわけではない」
巴が訊く。
《では、自分の言葉で》
「反証症状の可能性が高い人を、通常の問診前に検査へ回す」
藍が言う。
「それだと、検査へ行きたくない人が診察を後回しにされる」
「急性症状を見逃さないため」
「検査拒否は、急性症状なしの証拠じゃない」
栗原は、正式文へ戻る。
「だから、命令を継続する」
佐橋。
「私は、病床数報告を更新根拠へ使うことを撤回しました」
「病床が足りない事実は変わらない」
「変えません。優先順位の決定を、自動更新へ渡さない」
名取志保が、机の四箱を見る。
「失効なら、明日から通常診療」
「急性反証の人は」
「医師が個別判断」
「夜間当直が、一人で?」
「負担が増える」
イオが生活影響札を出す。
《続ける害――能力履歴だけで検査へ回され、通常診療が遅れる》
《止める害――夜間当直の判断負担、反証症状の見逃し》
藍が札へ触れる。
「私は、期限付き継続に入れたい」
「条件」
真琴。
「三日。対象は、本人が急性症状を申告した人、または医師が普通の問診で疑った人。能力履歴だけでは入れない。検査拒否で診察を遅らせない」
「更新者」
「栗原医師」
「佐橋さんの病床数は」
「自動根拠へ使わない」
「受領者」
「名取志保」
「拒否窓口」
「藍。呼称は藍だけ。法的氏名は限定照合」
「期限」
「五月二日、午後六時」
真琴は正式文を書く。
巴は平文。
《三日だけ続ける。能力を持っていたことだけでは、先に検査しない。本人が症状を言った時か、普通の診察で医師が必要だと判断した時だけ。検査を断っても、診察を後へ回さない》
栗原が読む。
「『普通の診察』が曖昧」
真琴。
「正式文に、問診、診察、バイタル確認と列挙します」
巴。
《平文は、このまま。下に例を付ける》
藍。
「例が規則にならないと書く」
「受領」
四人が両方へ署名する。
医療群一番。
《期限付き継続》の箱へ。
一枚目。
「これで決まった?」
迅が扉から訊く。
「決まりました」
「あと七十一」
「はい」
「長い」
真琴は眼鏡を上げる。
「一枚ずつです」
午後三時。
十六枚が四つの箱へ入った。
失効、六。
発令者へ返却、四。
審理付き停止、二。
期限付き継続、四。
数字は、途中の数字だ。
カナタは放送で読み上げない。
途中経過を勝敗にすると、後の人が数字へ押される。
十七枚目。
給水群四番。
《中央北区の夜間給水を、登録住民に限る》
発令者、古橋巡。
古橋は、自分の名を見て眉を寄せた。
「俺?」
「署名があります」
真琴。
「夜間に水泥棒が出た日だ」
「発令した?」
「給水所の門を閉めた。登録住民へ先に配った」
「命令文を読みましたか」
「いや」
「誰が文へ」
「上水保全局の夜間担当」
「名前」
「大路坂栄」
大路坂も同席している。
「古橋さんの現場判断を、区域命令として起案しました」
「なぜ」
「一か所だけ閉めると、別の給水所へ人が移る。区域全体で登録確認が必要と判断した」
「古橋さんへ確認」
「緊急で、後から」
「後から、いつ」
「翌日」
「古橋さん」
「紙は来た。忙しくて読まなかった」
「署名は」
「門閉鎖の作業票にした」
同じ署名が、命令受領へ転用されている。
真琴は、紙を分ける。
《現場で門を閉めた判断》
《区域全体へ登録確認を広げた判断》
「古橋さんの責任は前者」
「後者も、紙を読まず署名した」
「はい」
「大路坂さんは」
「区域命令へ広げた」
「更新は」
「上水待機人数と警備報告を入力した二人」
「全員の名を」
四人が出る。
古橋は、平文を読む。
《夜に一つの給水所を閉めた。署名が、北区全部で登録を確かめる命令に使われた。古橋さんは紙を読まず、使われるのを止めなかった》
「最後、厳しいな」
巴が左手で書く。
《違う?》
「違わない」
「処分」
真琴。
古橋は《発令者へ返却》の箱を選ぶ。
「この命令は返す。今夜の給水は、通常票へ戻す。夜間警備だけは別の作業命令へする」
「新しい作業命令の期限」
「一晩ごと。毎夕、警備員と給水担当が名前を書く」
「登録住民限定」
「しない。水量が足りない場合は、受取量を全員同じ上限にする」
「緊急者」
「医療札がある人は、別配達」
「受領」
給水群四番。
《発令者へ返却》
古橋巡と大路坂栄、二人の名前で。
二十七枚目。
移動群三番。
《未成年能力者の区域外移動について、出生登録情報との照合を必須とする》
タマキが机の前へ座る。
左耳の保護具。
視線の揺れが出ないよう、椅子の背へ触れる。
正式文の対象欄に、二つの氏名があった。
《環玉樹》
その下。
黒く塗られた古い登録欄。
姓の最初の一字だけが見える。
環ではない。
「塗ったのは」
真琴。
登録係。
「本人の公開拒否を受けて」
「元の姓、確定?」
「出生届の複写が不完全です。別姓だった可能性」
「可能性で照合した?」
「本人確認のため」
タマキが訊く。
「どっちが本当?」
「法的には、現登録の環玉樹」
「古い方は」
「本来の姓である可能性」
「誰が決める」
「戸籍審理」
「私が決める?」
「名乗りは、あなたが」
「命令は、古い方も持ってる?」
「照合番号として」
タマキは、正式文と平文を見比べる。
平文。
《未成年の能力者が街の外へ行く時、役所の出生記録と同じ人か確かめる》
「私が、違う名前を選んだら」
巴が書く。
《本人確認と、名前を選ぶことは別》
真琴。
「現登録名を使用できます。出生記録の不一致は、限定照合番号で確認する。古い姓を公表する必要はありません」
「命令がなくても」
「通常の未成年移動手続きがあります」
「能力者だけ、追加?」
「この命令が」
「止める」
タマキは即答した。
「処分箱は」
「失効」
「発令者へ返さない?」
「返すと、書き直して戻す」
「審理付き停止は」
「私の古い名前を、審理の材料にされる」
「通常手続きへ戻す?」
「そう」
「氏名」
タマキは、正式文の署名欄を見る。
登録欄には、現登録名。
自分で書く。
《環玉樹》
一画ずつ。
「選び直す?」
七瀬。
「今の名前」
「古い姓は」
「私が知りたい時に見る。命令の答えにしない」
「公開範囲」
「黒いまま」
「受領」
移動群三番。
《失効》
発令者名。
更新者名。
受領者名。
拒否した本人名。
環玉樹。
古い姓は、空欄ではない。
《本人限定》と書かれた箱へ、別に残る。
三十四枚目。
集会群二番。
《葬儀、追悼、遺体返還に伴う集合を、十一名以下とする》
発令者は、集会安全室長の浦部稔。
浦部は、最初から《失効》を選んだ。
「理由」
真琴。
「人数だけでは、危険を判断できない」
「代替」
「会場の出口、床荷重、換気、遺体搬送路を、施設ごとに確認」
「発令者へ返却ではなく?」
「この命令文を直すつもりはない」
「審理」
「葬儀を分けさせた損害と、自分の発令責任は受ける。命令を止めることを、審理の結果待ちにしない」
「期限」
「午前零時」
「今すぐでは」
「今日予定された葬儀へ、解除通知が間に合わない。現在の施設確認を終え、零時で一律人数制限を失効させる」
「待つ害」
イオ。
「今日の二件は、家族へ説明した。希望により、会場を分けず、入口時間をずらす。遺体は数えない」
「なぜ今まで答えられなかった」
「命令に書いてなかった」
「今は」
「私が決める」
「氏名」
「浦部稔」
平文。
《葬式を十一人以下に分ける命令は、今夜で終わる。今日の葬式は、家族が望めば同じ会場に入り、入口の時間だけ分ける。亡くなった人を人数に数えない》
浦部が読む。
「最後は、今日の二件だけ」
巴が追記する。
《今日の二件について》
「受領」
集会群二番。
《失効》
真琴は、書類を箱へ入れる。
最初の試験放送で出た、死者を数えるかという質問に、制度全体の答えを作らない。
今日の二件だけ。
誰が決めたかを残す。
午後五時四十分。
四十三枚が決まった。
未決定、二十九。
壁の集計表。
《失効 18》
《発令者へ返却 10》
《審理付き停止 6》
《期限付き継続 9》
合計四十三。
目標数ではない。
人の判断を、予定された内訳へ押し込めないため、最終内訳は現場の選択から積み上げる。
ただし、七十二机の中には、同じ問題が残っている。
全群自動更新。
誰か一人がまだ決めていなくても、二部署の入力がそろえば、午前零時に次の紙が出る。
個別判断を進めても、親の命令が生きている。
真琴は、親条項を机の中央へ置いた。
《七十二命令のいずれかについて異なる二部署が安全上必要と認定した場合、関連する全命令群の更新を妨げない》
「妨げない」
迅。
「更新する、じゃない?」
「直接命令せず、停止を無効にする条項です」
「もっと悪い」
「法的には、違います」
「悪さは」
「同じくらいです」
巴が親条項を見る。
右人差し指が、白手袋の中で硬くなる。
能力はまだ使っていない。
使うなら、一度。
親条項の自動更新だけ。
個別命令の有効性は、決めない。
真琴は、正式文を七つの部署へ送る。
《親条項の理解確認を、午後七時に実施する。参加しない者を同意扱いしない》
平文。
《全部をまとめて更新する仕組みを、説明できる人だけで確認する。来ない人を、賛成に数えない》
カナタが放送で読む。
接続数は、もう二桁だ。
それでも、七部署の担当者へ個別通知が届く。
午後七時。
親条項を止めるかどうかを、親条項の持ち主たちへ返す。
午後七時。
親条項の理解確認へ、二十一人が来た。
七部署。
発令担当。
更新担当。
受領担当。
全員ではない。
来なかった人の欄へ、真琴は《欠席》と書く。
《同意》ではない。
《拒否》でもない。
部屋の中央に、長い紙が一枚。
親条項。
七十二命令を、関連命令群としてまとめ、自動更新を妨げない仕組み。
一文字巴は、その紙の前へ立たない。
椅子へ座る。
右人差し指へ副木。
左手へ手話。
声を出せない彼女のためでなく、声だけを説明の正解にしないため、全員が三つから選ぶ。
声。
手話。
筆記。
「親条項を、自分の言葉で説明してください」
真琴が言う。
中央危機調整局、芒野澄子。
「関連する命令の安全上の必要が残る場合、停止による空白を防ぐため、更新経路を保持する」
「誰が更新する?」
「二部署」
「どの命令を?」
「必要と認定された命令」
真琴が条文を指す。
「『関連する全命令群』です」
芒野の顔が変わる。
「全部?」
「本文上は」
「私は、個別だと」
「説明は未成立」
次。
医療維持局、栗原。
「医療命令が必要なら、医療命令の停止を防ぐ」
「集会命令は」
「関係ない」
「条文上は関連命令群に含まれます」
「知らなかった」
「説明は未成立」
上水保全局、大路坂。
「二部署が必要と認めた命令は、自動で一日延びる」
「親条項自身は」
「延びる」
「止められる?」
「二部署の認定を外せば」
「別の二部署が入れたら」
「延びる」
「説明は成立」
移動統制局。
「命令を止めない安全弁」
「誰が困るか」
「現場」
「誰が責任を」
「発令部署」
「全関連命令の発令部署は」
「中央危機調整局」
芒野が首を横へ振る。
「私たちは、各部署の認定を受けただけ」
移動統制局担当者が言う。
「では、各部署」
「二部署だけです」
「残りは」
答えがない。
説明は未成立。
集会安全室、浦部稔。
「一つを必要と認めると、関連する命令群の停止を妨げる。結果として、別目的の命令まで自動更新される」
「誰が決めたことになる?」
「二部署の認定者、集約発令者、受領者。だが、個別命令の発令者は更新へ参加していない場合がある」
「説明は成立」
記録監査局。
「記録保全のため、命令群の連続性を守る」
「人の移動も?」
「記録へ関係する場合」
「誰が関係を決める」
「監査局」
「条文にはない」
「運用です」
「説明は未成立」
誓務法制局。
「停止の効力を、関連命令群について留保する消極的効力条項」
迅が顔をしかめる。
「平文」
担当者は言い直す。
「誰かが止めても、二部署が必要と言えば、全部また動ける」
「誰が責任」
「……条文上、明確でない」
「説明は成立」
二十一人。
自分の言葉で、親条項の対象、効果、責任の空白まで説明できた者は六人。
説明できなかった者が悪いとは限らない。
配られた手順が短すぎた。
所管の一部だけ教えられた。
職名で受け、全体を見る機会がなかった。
だが、分からないまま効かせてよい理由にもならない。
巴は、左手で訊く。
《説明できなかった人を、契約から外すのではない》
真琴が声へする。
「巴さんが止めるのは、親条項による全群更新だけです。個別命令の効力、医療、給水、移動、集会、監視の判断は止めません」
栗原が言う。
「親条項が止まれば、医療命令も零時に切れる」
「新しい個人署名で、期限付き継続を選べます」
「間に合わないものは」
「失効します」
「患者が困る」
「だから、今、個別判断を進めています」
「能力で全部を一日延ばして、その間に」
巴が、強く首を横へ振った。
左手。
《それを止める》
真琴は、親条項の正式文を読む。
全文。
短縮しない。
次に、巴の平文。
《二つの部署が必要と言えば、関係するとされた七十二本全部が、自動で続けられる仕組み。誰が続けたか分からなくても動く》
芒野が言う。
「最後の文は、評価です」
巴。
《事実》
「職名と端末記録は残る」
《人名が紙面にない》
「別ログには」
《別ログの保管者が未確認》
芒野は黙る。
巴は右手袋を外さない。
白い光が、親条項の周囲へ細く浮かぶ。
「読めた者だけ〈リード・イン〉」
声ではない。
巴自身の手話が、能力名を作る。
真琴が読み上げる。
紙の文字が、一ミリ浮く。
七十二本の個別命令は動かない。
医療の署名も。
給水の受領も。
移動の拒否も。
親条項だけ。
《更新を妨げない》
その一行が、紙から外れる。
床へ落ちるように、効力を失う。
端末室の七つの集約機が、同時に低い音を出した。
《全群更新経路――停止》
巴の右人差し指へ、熱が走る。
副木の中で腱が縮む。
彼女の顔が歪む。
左手まで震える。
真琴が時刻を読む。
「午後七時二十二分十五秒。全群自動更新停止。個別命令判断なし」
巴は左手で、紙へ書こうとする。
文字が乱れる。
筆記交代者の一人が、手を出す。
巴は止めない。
言葉だけを手話で渡す。
《右人差し指腱痛増悪。新規損傷未確認。冷却、固定。十五分筆記離脱》
交代者が書く。
巴が確認して署名する。
左手で。
栗原が親条項の紙を見る。
「これで、医療命令が切れる」
真琴。
「零時までに、個別署名を完成させれば続きます」
「能力で期限を作った」
「いいえ。元からある期限を、自動で消せなくした」
「同じに見える」
「結果の一部は同じです。責任者が違う」
迅が集約機を見る。
「親、止まった」
「はい」
「子は」
「七十二本、まだ生きています」
「一枚ずつ」
「一枚ずつです」
午後七時二十三分。
個別端末の前へ、決めていない二十九人分の列が伸びた。
自動更新が止まったことで、時間は増えない。
初めて、零時が本当に近づき始めた。
午後八時七分。
親条項が止まって四十五分。
中央更新端末室の北扉へ、三十人が来た。
医療維持局。
上水保全局。
移動統制局。
記録監査局。
制服も目的も違う。
共通して持っているのは、銀色の更新箱だった。
箱の中には、七部署をまとめて継続する旧式接続板。
「それ、何」
迅が扉の前で訊く。
「非常継続器」
先頭の男。
医療維持局、夜間危機担当、鶴来修。
「親条項停止時に、最低限の命令群をまとめて継続する」
「まとめて?」
「医療、給水、移動路、監視」
「集会は」
「除外」
「何本」
「二十六」
「名前」
「各部署の夜間責任者」
「人の」
鶴来は名簿を出す。
六人。
「署名ある」
迅。
「ある」
「平文」
「時間がない」
「入れない」
「患者の呼吸器が止まる」
迅の顔が変わる。
「どこ」
「北病院、三床。命令による電力優先が零時で切れる」
「医療命令だけ通せ」
「給水ポンプと搬送路が関連している」
「何で監視も」
「設備故障と不正操作の確認」
「一緒にするな」
「分ける時間がない」
「ある」
「四時間」
「四時間ある」
「二十六本を正式文と平文で個別確認するには足りない」
真琴が扉の内側へ来る。
「医療継続に必要な三床の電力命令だけ、先に提出してください」
「群継続器は分割できない」
「設備上?」
「仕様上」
「作った人の名前」
「不明」
「なら使いません」
鶴来の後ろで、上水の職員が声を上げる。
「使わなければ、水圧が落ちる」
「どの命令」
「給水群一、三、八」
「三本を個別に」
「更新箱には二十六本」
「箱から出す」
「封印されています」
「誰の封印」
「職名です」
迅が、銀色の箱を見る。
殴れば開く。
開けば、封印破壊。
中の接続板が壊れる可能性。
「鍵」
「中央危機調整局」
「朝」
朝は高い腰掛けから立たない。
「私に鍵権限はありません」
「芒野」
芒野澄子が別の机から答える。
「代理統括鍵で開けられます」
「開けろ」
「開けた後、使用するかは」
「一枚ずつ」
「受領」
芒野が北扉へ来る。
鶴来が箱を引く。
「これは医療側の保全物です」
「群継続器は中央危機調整局の管理」
「今まで、誰も管理者を名乗らなかった」
「今、私が名乗ります」
「都合がいい」
「はい」
「認めるのか」
「都合がよいからといって、鍵を開けない理由にはしません。開けた責任を私が負います」
鶴来は箱を渡さない。
迅が間へ入る。
「殴らない」
「誰に言っている」
「俺」
「自分へ宣言?」
「聞いとけ」
鶴来の右手が箱の取手。
左手が迅の胸を押す。
迅は下がらない。
七歩を取らない。
押された力を、腰と足へ流す。
右手は使わない。
左手で箱の底を支える。
「奪うな」
「落とさない」
「放せ」
「鍵、開ける」
「患者が死んだら」
「名前、書け」
「今、書いてる暇が」
「死んだら、箱のせいにする?」
鶴来の腕に力が入る。
迅は拳を作らない。
箱の底を押し上げる。
鶴来が落とさないよう、取手を握り直す。
その瞬間、芒野が鍵穴へ鍵を入れた。
箱は二人が持ったまま。
「開けます」
鍵が回る。
封印が外れる。
蓋の内側に、二十六枚の接続板。
一本ずつ抜ける構造だった。
「分割できる」
真琴。
鶴来が息を止める。
「仕様書には、全群継続と」
「運用では、全部へ使っていた」
芒野。
「誰が決めた」
「……確認します」
「今は、抜け」
迅が言う。
「医療三床」
鶴来は、二十六枚の中から一枚を探す。
見つからない。
板には番号だけ。
真琴が七十二命令表を照合する。
「医療群九番。接続板M-09」
抜く。
「給水三本」
「W-01、W-03、W-08」
「搬送路」
「M-12」
「監視」
鶴来は迷う。
「設備不正操作の確認」
「監視群二番?」
「はい」
「誰が続けると決める」
「記録監査局夜間責任者」
「名前」
後ろから女が出る。
「稲代航。昼の時計作業にも参加した」
「監視対象」
「設備操作盤だけ。人の顔、居室、移動履歴は除外」
「期限」
「五月一日午前六時。設備の手動監視へ交代するまで」
「拒否窓口」
「私」
「平文」
巴は右手を休ませている。
左手の言葉を、交代筆記者が書く。
《呼吸器と水の設備を壊されないよう、操作盤だけを見る。人の顔や部屋は見ない。五月一日の朝六時まで》
稲代が読む。
「『壊されないよう』だと故障が落ちる」
追記。
《壊された時だけでなく、故障も確認する》
「受領」
銀色の箱から、必要だと名乗った六枚だけを抜く。
残り二十枚は、机へ戻す。
「患者が死んだら」
鶴来が迅を見る。
「俺のせい?」
迅。
「止めたから」
「お前も、一つへまとめようとした」
「時間がなかった」
「今、六枚出た」
「間に合う保証は」
「ない」
「なら」
「続ける奴、名前書け」
鶴来は、医療群九番へ署名する。
「鶴来修。三床の電力優先を、五月一日午前六時まで継続する」
「患者の同意」
「治療同意は別。電力供給の受入れは病院設備担当」
「名前」
「今、呼ぶ」
鶴来は走らない。
通信管へ行く。
迅は銀箱から手を離す。
右環指と小指が痺れている。
箱を殴らなかった。
箱の中に、一枚ずつ抜ける構造が残っていた。
誰かが全部へ使うと決めただけだった。
午後九時十四分。
未決定は、九本になった。
そのうち一つ。
移動群十五番。
《東貨物門から区域外へ出る未成年者について、到着地の成人責任者を事前登録する》
発令者。
越智鶴子。
元移動統制局の児童移送担当。
現在は南別館の資料整理室にいる。
更新者。
東貨物門、梅野紺。
梅野は、命令を止めたい。
「成人責任者がいない子は、出られない」
「止めたら」
真琴。
「通常の受取先確認へ戻る。成人一人に限定しない。共同宿舎、医療機関、本人保留も使える」
「発令者の判断」
「越智さんへ連絡した。命令を撤回する意思はある」
「書面」
「届かない」
南別館への連絡廊下は、移動群七番によって閉鎖されている。
未確定命令文書の持出し防止。
解除には、記録監査局と移動統制局の二部署確認が必要。
残り二時間四十六分。
「通信署名は」
「越智さんの手指に障害があり、端末認証が使えない。音声だけでは正式撤回にならない」
「代理」
「本人が拒否」
「理由」
「自分が出した命令だから、自分で紙へ署名したい」
タマキが訊く。
「受け取るって言った?」
「はい」
「誰から」
「梅野紺さんから、撤回請求と原命令写し」
「目的」
「越智鶴子さん本人が、撤回または継続を判断するため」
「送り主、決まった」
「梅野さん」
「受取人、越智さん」
「はい」
「行先」
「南別館二階、資料整理室」
「受け取る合図」
通信管の向こうで、越智が答える。
《受け取る。私が封を切る》
「公開範囲」
《氏名、職務、撤回判断。手の病気は非公開》
「今、病気って言った」
真琴が自分を指す。
「私は説明上、必要以上に言いました。公開記録から外します。限定記録には、署名方法を変更する理由として、本人同意範囲だけ残す」
越智。
《受領》
タマキは鉄箱を開く。
防水封緘札。
送り主。
《梅野紺》
受取先。
《南別館二階資料整理室・越智鶴子》
目的。
《移動群十五番の撤回請求を本人へ届け、本人が継続・撤回・保留を選ぶため》
受取側同意。
越智の音声確認を、真琴と七瀬が記録。
梅野が封を閉じる。
「タマキ」
迅。
「一人で?」
「経路は、一方向だけ」
「帰り」
「普通に戻る」
「左耳」
「壁へ触る」
「俺、行く」
「能力の経路は、配達人にだけ」
「外から追う」
「送り先の場所、公開しない」
「知ってる」
「今、言った」
「南別館」
「部屋までは、追わないで」
「出口で待つ」
「受領」
タマキは封緘札へ指を置く。
能力は、光の道を街へ描かない。
頭の中へも地図を出さない。