第529話 第十一章「午前零時」前編
四月二十九日 午後十一時五十二分
八分は、短い。
けれど、命令を一つに戻すには充分な長さだった。
更新端末室の外から来た足音は、急いでいた。
揃ってはいない。
硬い靴、底の薄い靴、右だけ擦る靴。台車の小さな車輪が、床の継ぎ目を二度ずつ鳴らす。
迅は中央扉の前へ立った。
七歩は取らない。
扉まで二歩。
左の壁まで一歩半。
右の端末列まで三歩。
足りない距離を、足りないまま使う。
扉が開いた。
先頭にいたのは、中央危機調整室の芒野澄子だった。
後ろに、医療、給水、移動、記録の職員が七人。銀色の細長い筒を二人で抱え、最後尾には警備員が三人いる。
芒野は息を切らしていなかった。
代わりに、声が乾いていた。
「最終継続帯を持ってきました」
朝は椅子から立たない。
黒い杖を両膝の間へ置いた。
「誰の判断ですか」
「四部署の共同判断です」
「氏名」
「今は、それを聞いている時間がありません」
「八分あります」
「八分しかありません」
同じ数字は、言う人間によって別の命令になった。
芒野が銀筒の蓋を外す。
中には、幅の広い黒い帯が巻かれていた。
《安全維持上必要な命令群を、個別確定まで暫定継続する》
末尾には四つの部署印。
氏名欄は、また職名だけだった。
「これを親端末へ通します」
真琴が立ち上がる。
「通せば、今夜分けた七十二本を、もう一度一群へ戻します」
「分類結果は消しません。個別判断が終わるまで保険として生かすだけです」
「個別判断は終わっています」
「入力が完了していません」
「七十二本、すべて正式文と平文が揃っています」
「発効確認がまだです」
「だから待つ」
「待って失敗したら、誰が責任を負いますか」
芒野は朝ではなく、真琴へ訊いた。
真琴は答えを急がなかった。
右手で正式文の束へ触れ、左手で平文の束を支える。
「失敗した命令ごとに、判断した人が負います」
「三十一本が失効する」
「はい」
「医療、給水、移動を含む」
「必要と判断された十一本は、氏名と期限を付けて継続します」
「十一で足りる保証は」
「ありません」
その答えに、後ろの職員が動いた。
「保証がないなら、継続帯を入れるべきです」
給水担当の男だった。
胸札には、笠井尚。
「夜間の弁故障が起きたら、通常の許可系統では間に合わない」
「あなたが継続を必要と判断した給水命令は」
朝が訊く。
「三本です」
「署名しましたか」
「しました」
「期限は」
「最長七十二時間。区域ごとに違います」
「なら、その三本を使ってください」
「想定外が起きた場合を言っています」
「想定外へ、誰の名前もない命令で備えるのですか」
「人が死ぬよりいい」
笠井の声は大きくない。
それでも、端末室の紙が一斉に薄く震えたように聞こえた。
朝は杖の握りを変えた。
「私も、そう考えて自動更新を提案しました」
「なら」
「だから、もう一度同じ帯を通すことには同意しません」
「過去の失敗を恐れて、今夜の安全を捨てるんですか」
「違います」
朝は、黒い帯の一行を指した。
「今夜の不安を、明日の誰かへ名前なしで渡すことをやめます」
残り七分。
屋上の機械時計から、低い打鍵が一つ届く。
時刻係の千種透が、補正済みの紙帯を一分ごとに通信管へ送っている。
端末室の壁時計は、屋上より十七秒進んでいた。
放送所は十二秒遅い。
どれか一つに合わせるのではなく、差を表示したまま使う。
「入れます」
芒野が言った。
命令ではない。
宣言だった。
銀筒を抱えた職員二人が前へ出る。
迅は、中央を空けた。
警備員が一瞬、迷う。
「通していいのか」
迅は答えず、銀筒の右側へ立った。
職員が親端末へ近づく。
迅も同じ速さで歩く。
一歩。
二歩。
帯の先が、端末の挿入口へ向く。
迅は職員の手首を掴まない。
銀筒の下へ自分の左手を差し入れ、重さだけを受けた。
「重いね」
「放してください」
「持つの手伝ってる」
「入れられません」
「だから?」
「邪魔です」
「それは手伝いじゃなかった」
職員が筒を引く。
迅は押さない。
引かれた分だけ左へ半歩ずれる。
警備員の一人が迅の肩へ手を伸ばした。
凱がその手と迅の間へ入る。
左膝は深く曲げない。
腰を落とす代わりに、扉枠へ右肩を預ける。
「職務執行妨害です」
警備員。
「どの職務だ」
凱。
「安全継続帯の挿入」
「担当者名」
「中央危機調整室」
「おまえの名を訊いた」
「警備四班、関口隆」
「関口。帯を入れる判断をしたのは、おまえか」
「違う」
「止める判断をするのも、おまえではない?」
「そうです」
「なら、何をする」
「命令を実行する」
「誰の」
関口の視線が芒野へ動いた。
芒野は職員たちの前に立っていた。
「私が、搬入を許可しました」
「挿入は」
朝。
「四部署の共同判断です」
「氏名」
芒野は目を閉じなかった。
「給水、笠井尚。医療、二宮沙都。移動、岸本亘。記録、芒野澄子」
「四人全員が、全群継続を選ぶ」
「はい」
笠井は、すぐに頷いた。
二宮は半拍遅れた。
岸本は、黒い帯ではなく、自分の靴を見た。
「私は」
岸本が言う。
「移動群全体の継続には同意していません。必要な四本だけと聞いていました」
銀筒を持つ職員が、岸本を見る。
「共同判断書には、移動統制局の印があります」
「印は押した。文面は《必要な移動命令を継続》だった」
「要約されています」
「またか」
迅が言った。
誰も笑わない。
残り六分。
カナタの声が、廊下端末から流れた。
《視聴中の方へ。現在、更新端末室で、群継続帯を挿入するかが争われています》
拍手はない。
効果音もない。
《賛否を送る必要はありません。退出できます。録画は自動再生されません。これから読み上げるのは、判断に関わる四人の氏名です》
笠井尚。
二宮沙都。
岸本亘。
芒野澄子。
四人の名前が、端末室にも返ってくる。
カナタは続けた。
《四人のうち、岸本亘さんは、移動群全体の継続には同意していないと表明しました。残る三人の判断は、現在確認中です》
視聴者へ答えを求めない。
四人にも、同じ答えを求めない。
二宮が唇を湿らせた。
「医療十四本のうち、五本は継続が決まっています」
「はい」
真琴。
「残る九本を全部継続したい?」
「違います」
「群継続帯を入れれば、継続します」
「医療だけ外せると思っていました」
「外せません」
「説明が」
二宮は銀筒の文を読む。
「一行だった」
巴が、左手で平文を差し出した。
《この帯を入れると、七十二本すべてが、個別判断の発効を待たず、最大二十四時間もう一度続きます》
二宮は読んだ。
右の人差し指を使わず、紙の下辺を中指で押さえる巴を見た。
「私は、医療五本以外の継続に同意しません」
笠井が息を吐く。
「水が止まったら」
「あなたが必要と判断した三本は続く」
二宮。
「足りなかった時は」
「私たちが説明する」
「死者が出たら」
「名前を書く」
「それで戻るか」
「戻らない」
二宮は言った。
「だから、名前を消す理由にはならない」
共同判断は、二人になった。
残り五分。
笠井は銀筒へ手を置いたままだった。
「私は外しません」
朝。
「理由を、自分の名で言ってください」
「給水は、止まってからでは遅い。夜間の通常許可は遅すぎる。漏水と逆流は、会議を待たない」
「群継続が必要」
「必要です」
「医療、移動、集会、監視も含めて」
「給水を守るためなら」
端末室が静かになった。
笠井は、自分の言葉がどこまで届いたかを聞いた。
「違う」
小さく言う。
「今のは、違う」
「何が」
迅。
「給水を守るために、他を続けていいとは思っていない」
「でも帯は、それをする」
「だから」
笠井は銀筒から手を離した。
「給水三本の署名を確認する。足りなかった時は、私の判断不足として報告する」
共同判断は、一人になった。
芒野澄子だけ。
朝は彼女を急かさない。
屋上時計の打鍵。
残り四分。
「私が外せば」
芒野。
「誰の命令でもない時間が生まれます」
「はい」
「通常手順が、間に合わない場面がある」
「あります」
「今夜、必ず不便が出る」
「出ます」
「それを、あなたは望むんですか」
「望みません」
「なら」
「望まない結果でも、自分が選んだ範囲を説明します」
朝の声は、強くない。
「望まないから全部続ける、を、私は安全弁と呼びました。安全弁は、蒸気を逃がします。これは、責任を逃がした」
「言葉がうまいですね」
「悪い設計者は、説明だけ上手になります」
「それを今、使っている」
「はい」
「あなたを信じろと」
「言っていません」
「何を」
「芒野澄子さんが、決めてください」
肩書きではなく。
朝の仲間でもなく。
敵でもなく。
芒野は自分の胸札を外した。
机へ置く。
肩書きが消えても、人は残る。
「群継続帯の挿入許可を撤回します」
関口が警備姿勢を解いた。
銀筒を持つ二人も、重さを下へ逃がす。
迅は左手を抜いた。
「重かった」
「あなたが下から持ったから、余計に」
「ごめん」
「謝るなら最初から」
「最初から謝ったら、入れた?」
「入れません」
「じゃあ、結果は同じだ」
「会話の感じが違います」
「大事だね、感じ」
残り三分。
けれど、銀筒は終わりではなかった。
親端末の内部で、古い搬送輪が回り始めた。
自動待機していた継続帯の写しが、別の投入口から送られてきたのだ。
「誰も入れていない」
芒野。
真琴が端末表示を見る。
《最終安全処理》
《人為判断未完了時、既存設定を保持》
「人為判断は完了しています」
「端末が完了と認識していない」
「なぜ」
巴が七十二枚を見る。
「保留欄」
「十二本は審理付き停止です」
「端末は、保留を未決定として数える」
「停止なのに」
「機械には、止めた理由が読めない」
黒い帯の先が、端末の内側から見えた。
残り二分四十秒。
迅が挿入口へ手を伸ばす。
「引っこ抜く」
「切らないで」
真琴。
「途中で切ると、何が入ったか確認できません」
「全部入るまで待つ?」
「待たない。送り輪を止める」
「どこ」
「内側」
「開ける鍵」
「記録局」
「誰」
芒野が振り返る。
記録担当の女がいた。
朝倉絹。
「私です」
「開けて」
「開ければ、端末保証が失効します」
「もう一度」
朝。
「あなたの判断を聞かせてください」
朝倉は鍵を握ったまま、端末の黒い帯を見る。
「私は、保証を失効させます」
鍵が回る。
側面板が三センチ開く。
黒い帯は、すでに搬送輪へ噛み込んでいた。
迅が指を入れようとする。
「右、使わないで」
七瀬。
「左だけじゃ届かない」
「棒」
凱が、床の帳票押さえ棒を蹴らずに滑らせる。
迅は左手で受ける。
棒の先を搬送輪の解除爪へ。
輪が回る。
棒が弾かれる。
右手で掴み直しかける。
環指と小指に、昔の痺れが走った。
握らない。
前腕で押し戻す。
一本目の解除爪が外れる。
黒い帯は止まらない。
「もう一つ」
朝倉。
「奥」
距離は、あと四十センチ。
迅が身を乗り出せば届く。
けれど、その姿勢では端末が急停止した時、右肩と頭から内部へ落ちる。
凱が迅の腰帯を掴む。
「俺が持つ」
「膝」
「壁へ預ける」
「落ちるよ」
「おまえがか」
「二人」
「なら、二人で落ちない」
凱は左膝を曲げず、右足と扉枠で三点を作る。
迅は踏み込まない。
腹を端末縁へ置き、左腕だけを伸ばす。
棒の先が、第二解除爪へ触れる。
残り一分四十八秒。
黒い帯の文字が、挿入口へ吸われていく。
《安全維持上必要な――》
「言葉、速いね」
迅。
「紙の方が、おまえより足が速い」
凱。
「朝にも言われた」
「言われてない」
「心で」
「今は黙れ」
「受領」
棒が解除爪を押した。
搬送輪が一瞬止まる。
すぐに逆方向へ跳ねた。
黒い帯が迅の手首へ巻きつく。
関口が前へ出る。
「切ります」
「切らない」
迅。
「手首が」
「紙だ」
「紙でも締まる」
「知ってる」
迅は帯を引き返さない。
巻きついた分だけ手首を回し、重なりを増やす。
細い線の締め付けを、広い面へ変える。
凱が腰帯を引く。
朝倉が第三の小爪を指さす。
「そこを上」
迅は棒を落とした。
指では届かない。
手首に巻きついた黒い帯を、そのまま小爪へ掛ける。
「紙で、紙を止めるの?」
七瀬。
「役所だから」
迅が腕を外へ回す。
帯が小爪を引き上げた。
搬送輪が停止した。
残り一分十三秒。
黒い帯は、半分だけ端末へ入っている。
「入った部分」
真琴。
「無効化できます」
朝倉が操作盤へ署名札を差す。
「保証失効後の手動排出。私の名で」
「排出先」
「証拠箱」
「裁断しない」
「しません」
逆転輪が動く。
黒い帯が、ゆっくり戻る。
迅の手首からほどける。
赤い痕は残った。
皮膚は切れていない。
残り五十二秒。
真琴が七十二枚の状態確認を始める。
「失効、三十一」
巴。
「発令者へ返却、十八」
イオ。
「審理付き停止、十二」
七瀬。
「期限付き継続、十一」
朝。
「合計」
「七十二」
凱。
「個別署名」
「全件確認」
「平文」
「全件確認」
「拒否窓口」
「全件記載」
「機械時計」
通信管から、千種の打鍵が来る。
十。
端末室の誰も、数を声へ出さない。
九。
カナタの放送も、無音になる。
八。
視聴者は、退出してよい。
七。
迅は歩かない。
六。
朝は立たない。
五。
巴は右の人差し指を使わない。
四。
薄墨は屋上時計室で、紙帯を切らない。
三。
凱は命令しない。
二。
真琴は二枚の文書を重ねない。
一。
屋上時計が、午前零時を打った。
紙は、失効する時に音を立てなかった。
最初に変わったのは、端末の明かりだった。
七十二の小窓のうち、三十一が消える。
十八が、送り返しを示す白い点滅へ変わる。
十二が、停止札と審理番号を表示する。
十一だけが、新しい発令者名と終了時刻を伴って灯り続ける。
全群命令を示していた上段の太い線は、戻らなかった。
「零時、個別切替を確認」
朝倉絹が言う。
「親更新、停止」
千種の機械時計から、紙帯がもう一枚届く。
《四月三十日 午前零時零分零秒》
《親更新信号 なし》
真琴は端末表示だけを信用しない。
紙を一枚ずつ確認する。
医療群。
三本失効。
四本返却。
二本停止。
五本継続。
給水群。
四本失効。
三本返却。
二本停止。
三本継続。
移動群。
九本失効。
四本返却。
三本停止。
一本継続。
集会群。
八本失効。
三本返却。
二本停止。
継続なし。
監視群。
七本失効。
四本返却。
三本停止。
二本継続。
合計。
三十一、十八、十二、十一。
「数字、合った」
迅。
「現場は、これからです」
真琴。
その言葉を待っていたように、三つの通信管が同時に鳴った。
東診療区。
南給水区。
貨物移動局。
朝は杖を取り、立とうとする。
右脚に力が入りきる前に、凱が椅子の背へ手を置いた。
「座れ」
「命令ですか」
「提案だ」
「理由」
「歩けば、三件目の途中で脚が止まる」
「それは」
「予測だ。間違っていたら謝る」
朝は立つのをやめた。
「受領」
三本の管を、別々の人間が取る。
東診療区は、夜間交代命令の失効だった。
旧命令は、交代者の到着まで夜勤者を残す。
本人の拒否を認めず、勤務終了だけを更新し続ける。
失効した瞬間、夜勤者九人は帰宅を選んだ。
交代者は、移動制限の解除後も列車の再配置が間に合わず、四十三分遅れる。
《救急処置は継続できます》
診療区の担当、二宮沙都。
《一般受付と薬剤相談を、四十三分停止します。待機中の十二人には、停止理由と再開予定を説明します》
「患者の状態」
ミソラではなく、今夜の当直医が答える。
《緊急度上昇なし。二人は別診療所を選択。一人は説明を聞かず帰宅。九人は待機》
「夜勤者へ、残るよう頼みますか」
《頼みません。二人が自発的に十五分だけ引継ぎを延長すると申告しました。賃金を別計上します》
「名前」
《本人が勤務記録には残す、公開しないを選択》
「受領」
朝は、損害報告の一行目を書く。
《東診療区一般受付停止 四十三分》
右足が痛む。
手は動く。
南給水区。
夜間通行命令の失効で、修理用給水車が旧優先路を使えなくなった。
通常門へ回れば、住宅四棟への補給は予定より一時間十一分遅れる。
《継続三本のどれかへ入れられないか》
現場職員が訊く。
笠井尚は、通信管の前にいた。
「入れません」
《同じ給水です》
「区域と弁系統が違います」
《今から更新を》
「新しい命令を出すなら、発令者、受領者、期限、拒否窓口を決めます。親帯は使いません」
《一時間かかります》
「通常門を使う方が早い」
《住民が待ちます》
「待たせます」
笠井は言い直す。
「私が、待たせる判断をしました。住宅四棟へ、私の名で説明してください」
朝は二行目を書く。
《南給水区補給遅延 予定比七十一分》
貨物移動局。
区域外夜間運行を全面許可していた命令が失効した。
冷蔵貨物車七台が、通常確認へ戻される。
うち二台は薬剤。
保冷機は動いている。
だが、運転手の拘束時間が延びる。
《先に薬剤車だけ通せませんか》
移動担当、梅野紺。
真琴が書類を確認する。
「期限付き継続の一本は、患者搬送だけです。貨物へ転用できません」
《発令者の越智さんへ》
「移動群十五番は返却済みです。未成年者の受取確認で、貨物ではありません」
《では通常確認》
「何分」
《最短五十二分》
「保冷限界」
《三時間二十分》
「運転手」
《一人が勤務上限まで三十八分。交代者は門外》
「交代を先に入れる」
《人員通行は通常確認で十七分》
「なら、十七分」
《薬は五十二分待つ》
「はい」
朝は三行目を書く。
《薬剤貨物二台 通常確認による出発遅延五十二分見込み》
《運転手一名 交代により拘束延長十七分》
迅が紙を見る。
「失敗?」
「不便です」
「命令を止めたせい」
「一部は」