第530話 第十一章「午前零時」後編
「じゃあ失敗」
「違うと言いたいです」
「言えば」
「言いません」
朝は続きを書く。
《上記損害は、命令の失効が正しかったことを証明しない》
《また、旧命令をまとめて継続した方が正しかったことも証明しない》
《判断者と理由を個別に記録する》
迅は紙を覗く。
「ずるい文章だね」
「どこが」
「どっちも証明しない」
「事実は、便利な側へ証明してくれません」
「じゃあ、何のためにある」
「説明を逃がさないためです」
「事実、性格悪い」
「人間ほどではありません」
凱が言った。
「それは事実に謝れ」
「事実は傷つかない」
「だから、人間は謝らなくなる」
朝は、二人の会話を止めなかった。
午前零時十九分。
最初の期限付き継続命令が発効確認を返す。
医療群十一番。
《東酸素補給線の夜間優先使用》
発令者、二宮沙都。
受領者、外環共同病院夜勤責任者。
拒否窓口、医療連絡室・鳥飼至。
失効、五月二日午前零時。
自動更新なし。
次に、給水群四番。
《南第三区逆流防止弁の手動閉鎖権限》
発令者、笠井尚。
期限、四月三十日午前六時。
閉鎖後の再開は別判断。
一本ずつ、名前が灯る。
十一本が灯っても、太い線にはならない。
午前零時三十二分。
期限付き継続のうち、監視群の一本が現場で拒否された。
《薬剤庫外周の夜間映像保存》
発令者は保存を求めた。
受領側の薬剤庫責任者は、顔を映さない範囲だけを受ける。
命令文は、その場で縮む。
継続は取り消されない。
対象範囲が、本人の拒否によって狭くなる。
七瀬は、変更前と変更後の文書を別々に撮る。
「成功した形だけ、撮らないんですか」
芒野。
「成功か、まだ分からない」
「名前が戻った」
「名前が戻ると、間違いも人へ戻る」
「それが目的でしょう」
「目的は、正しくすることじゃない。誰が間違えたかを、消さないこと」
七瀬はカメラを下げる。
「それに、撮らない選択もある」
薬剤庫責任者が非公開を選んだ画角には、黄色い覆いを掛ける。
文書の存在と変更時刻だけを残す。
午前一時七分。
朝は三種類の書類を机へ並べた。
一つ目。
《自動更新安全弁原案 撤回申立て》
自分が過去に提案した条項を、今後の運用根拠から外すための申立て。
二つ目。
《四月二十日から二十九日までの運用被害報告》
名前のない更新によって生じた移動拘束、勤務延長、非公開情報の流用、説明欠落。
三つ目。
《四月三十日零時以後の失効影響報告》
診療停止四十三分。
給水遅延七十一分。
薬剤貨物遅延五十二分。
追加賃金、返金、待機、変更された受取先。
三枚は、互いを打ち消さない。
朝は一枚目へ署名する。
御厨朝。
二枚目へ署名する。
御厨朝。
三枚目にも署名する。
御厨朝。
署名するたび、字は少しずつ崩れた。
脚の痛みは手へ移らない。
疲労は移る。
「代筆できます」
真琴。
「自分の欄だけは、自分で書きます」
「英雄の署名みたいになるよ」
カナタの声が、放送所から来た。
視聴者は、二十三人まで減っていた。
「英雄じゃありません」
朝。
《それを決めるのは観客です、と昔の僕なら言った》
「今は」
《観客がいない》
「二十三人」
《二十三人は、観客役を引き受けていない》
「では、何ですか」
《見たい範囲だけ見ている人》
カナタは、声を少し休めた。
《朝さん。三枚目も読みますか》
「読みます」
《失効の不便を読めば、今日の作業を失敗だと取る人がいる》
「います」
《旧命令を戻せと言う人も》
「います」
《怖くない?》
「怖いです」
《よかった》
「何が」
《怖くない人の放送は、だいたい他人を舞台装置にする》
朝は三枚目を放送へ渡した。
カナタは、診療停止四十三分を四十と言い換えない。
給水遅延七十一分を、一時間程度と丸めない。
薬剤貨物が保冷限界内に収まったことも読む。
待たされた人がいたことも読む。
読み終わっても、結論を足さない。
午前一時四十分。
芒野澄子は、銀筒の黒い帯を証拠箱へ入れた。
「これは、破棄しないんですね」
朝。
「はい」
「危険な文です」
「使わなかった危険も、残します」
「あなたの判断で」
「私の名で」
蓋を閉じる。
朝倉絹が封印する。
真琴が正式文を確認する。
巴が平文を確認する。
《この箱には、四月二十九日午後十一時五十二分に搬入され、芒野澄子が挿入許可を撤回した群継続帯が入っている。帯は一部が端末へ送られたが、朝倉絹が保証失効を選択し、手動排出した。親更新は発効していない》
短くする。
条件を落とさない。
巴は左手で最後の句点を書く。
右人差し指は、固定具の中で休ませる。
「終わった?」
迅。
「午前零時の処理は」
真琴。
「事件は」
「事件という言葉で、何を数えるかによります」
「また長いやつ」
「短く言えば、終わっていません」
「長く言えば」
「明日の朝、帰れない人、薬を待った人、水を待った人、命令を返された人、審理を待つ人がいます」
「じゃあ、今日は」
「七十二本の状態が決まりました」
「それだけ?」
「それだけを、十日かけてやりました」
迅は端末室を見る。
三十一の窓は暗い。
十八は返送待ち。
十二は停止中。
十一は細い灯り。
「それだけって、重いね」
朝。
「紙は軽いです」
「迅に持たせると重くなる」
凱。
「さっき下から持ったから」
「まだ言うのか」
「感じが大事だから」
迅の右手首には、黒い帯の赤い痕が残っている。
朝の両脚には、立たなかった痛みが残っている。
誰も、それを勲章にしない。
午前二時二分。
期限切れになった三十一枚は、裁断されず、机の上へ並べられた。
字は消えない。
効力だけがない。
窓の外で、屋上時計が二時を打つ。
新しい全群命令は、出なかった。