第531話 第十二章「審理を受ける者」前編
四月三十日 午前八時四十一分
審理へ行く人間は、朝食を食べてもいい。
獅堂凱は、その当たり前を御厨朝へ三度説明した。
一度目。
「食堂が混む前に行きます」
「審理は九時半だ」
「資料の確認があります」
「腹の確認を先にしろ」
二度目。
「食欲がありません」
「食欲は命令じゃない」
「意味が分かりません」
「俺も今、言ってから思った」
三度目。
「杖と盆を同時に持てません」
「だから俺が盆を持つ」
「元王に」
「その言い方をするなら置く」
「獅堂さんに」
「急に役所みたいになるな」
結局、朝は食堂へ入った。
凱が盆を持つ。
朝は黒い杖を持つ。
昨夜から庁舎へ残った職員たちは、椅子や長机で短い睡眠を取っていた。鍋には豆と根菜の薄いスープ。パンは端が少し硬い。
朝が現れると、二人の職員が立ち上がった。
「御厨さん」
一人が、両手を胸の前で合わせかける。
拍手ではない。
それでも、朝は杖を止めた。
「何でしょう」
「ありがとうございました」
「何についてですか」
「命令を止めたことです」
「私は、止めた人の一人です。作った人の一人でもあります」
「でも、昨夜」
「昨夜の作業へ礼を言うなら、命令一件ごとの担当者へお願いします。私へまとめないでください」
職員は手を下ろした。
「分けるの、難しいですね」
「はい」
「ありがとうも」
「責任も」
朝は席へ着く。
凱が盆を置いた。
「英雄扱いを拒むのは勝手だが、スープまで拒むな」
「英雄扱いとスープを同じ盆へ置かないでください」
「同じ盆にあるのはパンだ」
「比喩です」
「食堂で比喩を使うと冷める」
朝は匙を持った。
右手が少し震える。
脚の神経障害ではない。
睡眠不足だ。
凱は見なかったふりをしない。
代わりに、匙を取ろうとも言わない。
「何時間寝た」
「一時間十二分」
「審理を延期しろ」
「逃げるよう勧めない約束では」
「延期は逃亡じゃない」
「今朝でなければ、昨夜の記憶が整いすぎます」
「整ってから話す方がいいだろう」
「整えた説明は、自分に都合よくなります」
「寝不足の説明は、誰にでも不都合だ」
朝はスープを一口飲んだ。
「それも記録します」
「何でも記録にすれば勝てると思うな」
「勝ちに行く審理ではありません」
「負けに行くのか」
「説明しに行きます」
「同じ顔をしている」
「王だった人に言われたくありません」
凱はパンを割った。
「王は、勝つ顔と負ける顔が同じだと便利だった」
「今は」
「腹が減った顔だけ分かる」
朝は、二口目を飲んだ。
午前九時二十二分。
審理室の前には、花束が一つ置かれていた。
《命令を止めた勇気へ》
差出人名はない。
朝は花束を跨がない。
杖をつき、横から回る。
「持って入りますか」
凱。
「持ちません」
「捨てる?」
「無記名物の受取窓口へ」
「花にも発令者がいる」
「贈った人です」
「名前がない」
「だから、受け取れません」
受付担当が花束へ札を付ける。
《受取保留》
凱は審理室の扉まで同行した。
中へ入る許可はある。
ただし、朝の代理人ではない。
証人席へ呼ばれた時だけ話す。
「ここまででいいです」
朝。
「証人として中へ行く」
「私を守る証言は要りません」
「おまえを守るとは言っていない」
「何を話しますか」
「俺が聞いたこと」
「評価は」
「求められたら、俺の名で」
「元王として?」
「獅堂凱として」
朝は扉へ手を掛けた。
「逃げろと言わないんですね」
「逃げたいのか」
「少し」
「なら、その少しも話せ」
「厳しい」
「王じゃないから、優しくする義務もない」
「王だった時にも、ありませんでした」
「そうだった」
扉が開く。
審理室は広くない。
高い壇もない。
質問者三人。
記録担当二人。
公開席十二。
非公開資料を扱うための遮音区画。
七瀬の撮影機は、入口で止まっていた。
「御厨さん」
七瀬。
「公開審理部分だけ撮影します。脚の症状、治療歴、私生活は、本人が話した範囲以外を撮りません」
「受領」
「休憩を求めた時は、時刻だけ記録します」
「理由は」
「本人が公開を選べば」
「公開しません」
「受領」
朝は杖を椅子の右へ置く。
座る前に、審理担当へ言う。
「長時間立位はできません。着席で回答します。休憩が必要な場合は申告します。これは責任軽減の申立てではありません」
担当者が記録する。
「本日の審理対象を確認します」
最初の質問者、橘野史郎。
「御厨朝氏が、暫定命令の自動更新条項を安全弁として原案へ提案したこと。発令者氏名を本文と別ログへ分離する運用を承認したこと。後の運用拡大を把握した時期と、停止措置を取らなかった期間。以上でよろしいですか」
「不足があります」
「述べてください」
「処理時間を九秒短縮する目的で、氏名分離を承認したこと。拒否窓口の表示を任意欄としたこと。更新時の本人再確認を、緊急時には省略できる案へ同意したこと」
「それらは、後の追加条項では」
「一部は、私の原案です」
「後から文面が変えられた」
「変えられました」
「あなたの想定外だった」
「想定外は、責任外と同じではありません」
「内部調査へ協力した」
「しました」
「昨夜、全群更新を止めた」
「止めた作業へ参加しました」
「それらを、情状として申し立てますか」
「事実として記載してください。相殺には使わないでください」
公開席で、誰かが息を吐いた。
朝はそちらを見ない。
「なぜ、自動更新が必要だと考えたのですか」
「災害時、発令者が死亡、負傷、通信断となっても、医療、給水、移動を継続できるようにするためです」
「合理的では」
「合理的です」
「なら、何が誤りだった」
「合理性の範囲を、命令を受ける側が変更できない設計にしたことです。止める責任だけを重くし、続ける責任を軽くしました」
「氏名を分離した理由は」
「処理速度と、発令者への報復防止」
「報復防止は必要では」
「必要です。公開しないことと、記録しないことを分けませんでした」
「昨夜は分けた」
「昨夜できたから、当時できなかった責任が消えるわけではありません」
質問者は次の紙へ移る。
朝の答えは、短くならない。
長くもならない。
分からない時は、分からないと言う。
記録を見れば分かる時は、記録番号を言う。
記憶にない時は、記憶にないと答える。
午前十時十九分。
脚の痛みが増す。
朝は質問を遮った。
「休憩を申告します」
「理由を」
質問者。
「公開しません」
七瀬の撮影機が下がる。
記録には、時刻だけが入る。
五分。
朝は立たない。
膝の下へ小さな台を入れる。
薬を飲む。
凱は、公開席から見ている。
励まさない。
頷かない。
再開時、朝が最初に言う。
「休憩を受けたことは、回答内容の撤回ではありません」
「承知しました」
次に、凱が証人席へ呼ばれた。
「獅堂凱氏」
「はい」
「御厨氏は、あなた方へ限定協力を求めましたか」
「求めた」
「自分が原案へ加担した事実を、最初から明らかにしましたか」
「最初ではない。自分の名前が利用されたと言った。後に、本人の原案ログが見つかってから、加担範囲を追加した」
「隠したと考えますか」
「本人が覚えていない部分もあった。自分に有利な言い方をした部分もあった。二つを同じにしない方がいい」
「あなたは、協力継続を支持した」
「支持ではない。仕事を続けさせた」
「違いは」
「支持は、正しいと思うことがある。仕事は、正しくなくても必要な時がある」
「御厨氏を信頼していた」
「全部はしていない」
「では、なぜ」
「知っていることを話せた。知らないことを知らないと言えた。途中からは」
「途中から?」
「最初は、知らないことまで整えて話そうとした」
朝が証言席から見る。
凱は視線を返さない。
「元王として、命令責任をどう考えますか」
「元王としては答えない」
「理由は」
「王位は終わった」
「経験者として」
「肩書きで出した命令は、受けた人間の身体へ残る。出した側が肩書きを降りても、残る」
「御厨氏にも残るべきだと」
「残すために、今日ここへいる」
「刑罰を求めますか」
「俺は審理者ではない」
「感情として」
「俺の感情を、処分へ使わないでくれ」
凱は席へ戻った。
次の証言者は、遮音区画から声だけを届けた。
最初の試験放送が行われた朝、南口で帰宅を選んだ看護補助員。
氏名は限定記録。
勤務先と職種だけ公開。
《私は、あの朝、帰れました》
質問者。
「御厨氏の照会によって」
《御厨さん一人ではありません。警備の篠原さんが名前を出した。芒野さんが午前九時までの判断をした。私が帰ると決めた》
「では、暫定運用は有効だった」
《あの一回は》
「自動更新制度について、どう考えますか」
《私の勤務が終わっても、誰の名前もない紙が、まだ働けと言った。あれを安全とは呼びたくない》
「御厨氏は、あなたへ謝罪しましたか」
《自分の範囲を確認してから、と言った》
「謝罪が遅いと」
《長いと思った》
公開席で、迅が少し肩をすくめた。
《でも、今は短い謝罪を欲しいわけでもない》
「何を求めますか」
《夜勤が十四時間を超えた人へ、誰が残ると判断したか、勤務記録に名前を残してほしい。帰った人だけを成功例にしないで。あの日、待機を選んだ人もいた》
「御厨氏の処分について」
《私が決めません》
声が切れる。
朝は、遮音区画へ向けて頭を下げない。
公開の謝罪演出にしないためだ。
「証言を受け取りました」
それだけを言う。
次は、紙屋セツ。
南二号共同宿舎の管理人。
昨夜、給水車が七十一分遅れた四棟の一つを管理している。
紙屋は公開席へ座った。
「水が遅れたことで、何が起きましたか」
「夕食後の薬を飲む人が十二人、予定より遅れた。貯水を使って、実際に遅れたのは四人。共同洗濯は中止。厨房は、鍋を二つ洗わず残した」
「健康被害」
「確認されていない」
「群継続帯を入れていれば、遅延は避けられた可能性がある」
「あると思う」
朝の手が、膝の上で止まる。
「なら、昨夜の判断は誤りだったと」
「そうは言ってない」
紙屋は質問者を見る。
「水が遅れたのは困った。誰の命令か分からないまま、私たちの出入りを見られるのも困った。困ったものを二つ出したら、一つへ減らさないといけないの?」
「制度上、判断には優先順位が」
「優先した人の名前を聞いてる」
質問者は少し黙る。
「給水担当の笠井尚氏が、通常門を使う判断をしています」
「笠井さんには、宿舎の記録を送った。謝罪も来た。補給費の追加分も給水所が払うと言った」
「御厨氏には」
「自動更新を作った分を説明してもらう。水が遅れた全部を、御厨さん一人へ払わせない」
「なぜ」
「一人へまとめると、次からその人だけ見ればいいと思うから」
凱は、紙屋の言葉を聞いた。
王がいた頃、人々は王だけを見た。
命令が失敗すれば王を責め、成功すれば王を讃えた。
分かりやすい。
分かりやすさは、見なくてよい人間を増やす。
質問者は朝へ向く。
「一人は、あなたの照会によって帰宅できた。一人は、制度停止後の遅延を受けた。この二つを、どう評価しますか」
「評価を一つにしません」
「便利な答えでは」
「便利ではありません。処分判断には、私の原案、承認、把握時期、停止措置、協力行為をそれぞれ使ってください。看護補助員が帰れた事実を情状に使うなら、本人の証言どおり、他の判断者と本人の選択を分けてください。給水遅延を不利益に使うなら、笠井さんの判断、通常門の運用、私の原案がどこまで関与したかを分けてください」
「結論は」
「審理する側の仕事です」
「あなた自身は、正しかったと思うか」
「昨夜、群継続を入れなかったことは必要だったと思います。同時に、失効による損害へ責任者が署名すべきだと思います。その二つを同じ正誤へ入れません」
紙屋は頷かない。
看護補助員の声も戻らない。
二人の証言は、朝を救わなかった。
朝を断罪する一つの物語にもならなかった。
凱は、それでよいと思った。
よいと思ったことを、審理結果へ使わない。
朝は小さく息を吐いた。
礼ではない。
安堵でもない。
自分の責任を、代わりに背負われなかった呼吸だった。
視聴率の下がり方を、成果表へ書いた役者は、たぶんカナタが最初だった。