第532話 第十二章「審理を受ける者」後編
午後一時十三分。
放送所の床には、昨夜の籠城でずれた配線が、番号札を付けて並べられている。
壊れた照明一基。
曲がった機材台二台。
切られずに残った非常解放管。
カナタは椅子へ座り、右足を別の椅子へ載せていた。
足首には冷却布。
靴は脱いでいる。
「報告書って、もっと自分をよく見せるものじゃないの」
迅が訊いた。
「それは宣伝資料」
「違うの?」
「報告書は、よく見せると後で自分に会いに来る」
「何が」
「書かなかった数字が」
カナタは左手で紙を押さえ、右手で書く。
《最大同時視聴 八千四百十二》
《終了時視聴 二十三》
《途中退出 記録あり》
《退出理由 取得せず》
《自動再生 なし》
《拍手・視聴数の賛意換算 なし》
《放送を見て、自身の更新根拠を撤回したと明示した者 一名》
《氏名 佐橋由梨》
迅が覗く。
「一人」
「一人」
「七十二本、決まったのに」
「僕の放送で撤回したと確認できるのは、一人」
「他の人も見てた」
「見たことと、決めた理由は同じじゃない」
「見てたかもしれない」
「かもしれないを、出演料へ足すと高くなる」
「出演料、出るの?」
「行政放送の進行料は、事前契約どおり。籠城したから英雄加算、はない」
「そんな加算、ある?」
「作ればある」
「作らないの」
「今、命令の持ち主を戻したばかりだからね。加算の持ち主まで消したくない」
カナタは次の欄を書く。
《進行上の判断》
《視聴数低下時、演技強化を検討した》
《御厨朝の指摘後、中止》
《無音区間を維持》
《負傷》
《右足関節炎症の再燃》
《新規靱帯損傷なし》
《医療評価まで歌唱・格闘動作なし》
迅が言う。
「最後、自分で休めるんだ」
「成長したでしょう」
「報告書へ書く?」
「書かない。成長は、本人が書くとだいたい演出になる」
「役者なのに」
「役者だから」
真琴と巴が、放送記録の正式文と平文を持ってくる。
正式文には、端末番号、放送時刻、退出記録、判断者名。
平文には、何を数えず、誰が途中で離れてよかったか。
カナタは両方を読む。
「この一行」
正式文を指す。
《本放送は、命令に関する市民理解の促進に寄与した》
「削って」
真琴。
「なぜですか」
「寄与を測っていない」
「一名の撤回が」
「一名が自分の判断を変えた。市民理解が増えたかは分からない」
巴は左手で平文へ追記する。
《放送の効果は、一人の撤回についてだけ確認した。ほかの人が何を理解したかは決めない》
「長い」
カナタ。
「削る?」
「残す。長いけど、舞台で使う台詞じゃない」
「どう違う」
迅。
「舞台の台詞は、客が覚えやすい方が強い。報告書は、忘れたくない条件が多い方が強いことがある」
「じゃあ、真琴が最強」
「褒められていない気がします」
「受領しておけ」
凱が、修理用の木枠を運びながら言った。
左膝を深く曲げず、荷重を腰へ逃がしている。
轟がいれば一人で持ちそうな枠を、凱と放送技師の二人で運ぶ。
「元王、雑用が似合うようになったね」
カナタ。
「王の時もやっていた」
「誰も見てなかった」
「見せていなかった」
「それを、やっていないと呼ぶ人もいる」
「今は見ているか」
「二十三人もいない」
「充分だ」
「拍手は」
「要らない」
カナタは報告書へ、自分の名を書く。
紅葉カナタ。
役名ではない。
午後三時二十六分。
薄墨影治の聴取は、別室で行われた。
凱は証人ではない。
紙帯返却の立会人として、扉の外にいる。
薄墨は、質問を耳で追わない。
机の振動灯と、正面の文字板を見る。
左鼓膜穿孔後の聴力低下。
両耳の耳鳴り。
爆音を当てて自白を取る者はいない。
質問は文字になる。
《過去の記録破壊について》
薄墨は書く。
《四件。命令を受けた。実行を選んだ》
《個人排除について》
《一件。対象は重傷。命令を受けた。方法を選んだ》
《未遂》
《一件。実行前に対象が移動。中止したのではない》
《四月二十九日の屋上時計》
《紙帯破壊命令を受けた。《画角外》を使った。切断機を動かした。自分で画角へ戻り、停止した》
《停止した理由》
薄墨は、長く止まった。
文字板の光が、机へ反射する。
《命令が違法だと、前から知っていた》
《なぜ今回は》
《理由を、きれいにすると嘘になる》
《分かる範囲で》
《耳が壊れたからでも、七瀬に説得されたからでも、迅に負けたからでもない。千種透を事故として処理する文を見た時、自分が命令を便利に読んでいたことが、文字のまま残った》
《後悔》
《ある。免責理由にはしない》
《協力》
《知っている指示系統を提出する。提出後も、過去の実行責任を残す》
文字は、薄墨の声より遅い。
遅いから、戻せない。
聴取担当が、全面免責の可能性を説明しない。
全面処罰も決めない。
今夜決まるのは、記録を受け取ることだけ。
薄墨は最後の欄へ署名する。
薄墨影治。
それが戸籍名かどうかを、凱は知らない。
本人が今、責任を引き受けるために使う名だということだけを知っている。
扉が開く。
薄墨は凱を見た。
声ではなく、小さな文字板を向ける。
《王だった人》
凱は、板の余白へ書く。
《だった》
《命令した》
《した》
《人が傷ついた》
《傷ついた》
《終わった》
凱は首を振る。
《王位は終わった。命令の結果は終わっていない》
薄墨は読む。
《似ている》
《何が》
《終わった肩書きで、終わっていないことを話す》
凱は少し考える。
《似ていても、同じ処分にはならない》
《知っている》
《それでいい》
《よくない》
《そうだな》
薄墨は紙帯の返却受領書へ署名する。
屋上時計の原本は、機械時計室へ戻る。
薄墨の供述は、別の箱へ入る。
同じ箱へ入れれば、告白が紙帯を救った物語になる。
分けておけば、救った記録と壊した記録が、互いを食べない。
午後五時四分。
七十二枚の紙には、帰る場所ができていた。
十八枚は、発令者本人へ返される。
三十一枚は、失効原本として、発令者、最終更新者、影響を受けた受領窓口の三者名を付けて保管される。
十二枚は、審理担当者と停止判断者の両名へ渡る。
十一枚は、期限付き継続の現場へ戻る。
どの紙にも、職名だけの欄はない。
職名は残る。
氏名も残る。
拒否窓口担当者も残る。
タマキは返却封筒を机へ並べた。
「能力、使わないの?」
迅。
「一件、使った」
「残りは」
「普通の便」
「間に合う?」
「今日中に全部は届かない」
「遅い」
「期限が切れた紙は、もう人を止めない。返却は、到着予定と不達時の戻り先を付ける」
「能力なら早い」
「受取側の同意を、一人ずつ取る方が遅い」
「取れば」
「能力を使うために、受取人へ急いで同意させるのは、配達の都合」
「道が見えるのに」
「見える道を全部使うと、配達屋が迷う」
タマキは自分の左耳へ手を当てない。
前庭障害は残っている。
机の端へ指を添え、身体の傾きを確認する。
「これ、南別館」
迅が一通持つ。
「越智鶴子さん」
「俺、持ってく?」
「受取人が、タマキ便を指定してる」
「俺はタマキ便じゃない」
「迅便」
「料金高いよ」
「壊さない保証、ある?」
「努力する」
「安くする」
「値切られた」
タマキは配達札へ書く。
《配達人 竜胆迅》
《内容を読まない》
《走らない》
《受取人へ手渡す》
《不在時は持ち帰る》
「走らない?」
「転ぶから」
「俺が?」
「役所の床で、前に滑った」
「一回」
「記録は、一回で足りる」
迅は封筒を受け取る。
七歩ではなく、普通の歩幅で廊下へ出る。
午後七時三十八分。
中央行政回廊の壁から、暫定命令が剥がされる。
剥がす係は、命令を出した人間ではない。
施設管理の職員たちだ。
糊を温める。
紙を上からゆっくり下ろす。
破れた角は、別袋へ入れる。
凱も手伝う。
左膝を曲げずに届く高さだけ。
上の紙は、脚立を使える職員へ任せる。
「昔なら、上までやった?」
七瀬。
「昔でも、届かなければ脚立を使う」
「王は、跳ばないんだ」
「王冠が落ちる」
「今は」
「膝が腫れる」
「現実的」
「王冠より重い」
紙を剥がすと、壁に四角い糊跡が残った。
管理職員が布で擦る。
全部は取れない。
「塗り直しますか」
凱。
「今夜はしません」
「なぜ」
「乾燥中、通路を狭めます。明日、区画ごとに」
「跡が残る」
「一晩くらい、壁に責任を持たせます」
管理職員が笑った。
「壁、かわいそう」
「人より長く立てます」
剥がした紙は、床へ置かない。
番号順にも並べない。
返却先ごとの袋へ入る。
朝の原案を流用した最初の紙も、壁から外れる。
《中央安定維持に関する第二四時間暫定命令》
発令者欄は職名だけ。
下には、朝の名が参考原案として使われている。
朝は審理を終え、杖をついて戻ってきた。
処分は決まっていない。
審理は継続。
英雄にも、犯罪者にも、一日で片づけられなかった顔をしている。
「これ」
凱が紙を示す。
「受け取るか」
「原本は発令部署へ。私には写しを」
「見たくない?」
「見たいです」
「なら原本を」
「見たい人が持つ、では記録管理になりません」
「面倒だな」
「面倒を省いて、こうなりました」
「それを言われると、何も言えない」
「言えます」
「何を」
「面倒だと」
凱は言った。
「面倒だ」
「受領」
朝は写しを受け取る。
紙の端に、午前零時の失効印がある。
赤でも黒でもない。
ただの凹み。
午後十一時五十九分。
中央行政回廊の南口には、もう紙が貼られていなかった。
糊跡だけが、灯りの下で四角く残っている。
警備柵は撤去されている。
《官庁勤務者》
《医療・給水・交通》
《その他》
三つに分けていた札も、裏返されて壁際へ立て掛けられていた。
朝は帰った。
カナタも、右足を診てもらうため放送所を出た。
巴は右手を休ませるため、真琴へ最終記録を渡した。
薄墨は別室にいる。
タマキは返却便の不達先一覧を作っている。
七瀬は、撮らなかった場所の時刻だけを整理している。
南口に残ったのは、凱と迅だった。
「何か貼る?」
迅。
「何を」
「通れます、とか」
「見れば分かる」
「見ても分からない人いるよ」
「なら、通行案内は必要だ」
「命令じゃない?」
「案内だ」
「違い」
「従わなくても罰がない」
「じゃあ書く?」
「今夜は、書かない」
「なんで」
「一晩くらい、何もない壁を見たい」
迅は糊跡を見る。
「壁、責任取ってるらしいよ」
「誰に聞いた」
「管理の人」
「壁へ押しつけるな」
「王だった人が言うと重い」
「だった」
「知ってる」
屋上の機械時計が、遠くで一打する。
四月三十日が終わる。
端末室では、三十一枚の失効命令が、効力のないまま保管箱に残っている。
十八枚は帰る途中。
十二枚は審理を待つ。
十一枚は、それぞれ違う時刻まで生きている。
七十二枚をまとめる新しい紙は、どこからも出てこなかった。
迅は壁へ触れない。
凱も、何も貼らない。
南口の記録端末が一度だけ鳴った。
失効した医療命令の返却回線。発令者欄には、最後まで《中央医療調整職》としか書かれていなかった一枚だ。
凱が受話具を取らず、記録開始の灯だけを押す。
向こうで、息を吸う音がした。
「六月二日の夜間診療制限命令について」
女の声だった。職名も肩書も先に言わない。
「私が出しました」