第533話 第一章「浮かぶ境界」前編
五月二十日 午前六時三十二分
境界は、だいたい水の下にある。
見えないから争わずに済むこともあれば、見えないのをいいことに、強い側が少しずつ動かすこともある。
火群七瀬は、運河の底から現れた石杭を、腰の高さに固定した撮影機で捉えていた。
杭は十二本。
藻が乾き、白い塩が筋になっている。
いちばん上流側の一本には《上流市水利境》、下流側の一本には《臨時水上居住群係留限界》と彫られていた。
同じ場所に、二つの境界がある。
「仲が悪い石だね」
七瀬の隣で、土門小麦が言った。
山吹色の前掛け。
右手に空の水差し。
左手に帳簿。
この十一日、彼女は水差しを持ち歩き、飲んだ量ではなく、飲めなかった理由を書いている。
「石は喋ってない」
「喋らないやつほど、あとで偉い人が代わりに喋る」
「それは石の責任じゃない」
「じゃあ彫った人の賄いから引く」
「何を」
「水」
小麦は空の水差しを振った。
音がしない。
運河沿いの共同水栓は、午前五時から六時まで開く予定だった。
実際に出たのは、二十七分。
最初の四分は赤錆色。
飲用に回せたのは、一世帯あたり平均十三・八リットル。
水上難民区〈フロート〉の住民は、船の上で暮らす。
船は水へ浮いている。
だから、水に困らないと思う人間がいる。
海水と工業排水と生活排水を飲めるなら、その通りだった。
「撮影開始、六時三十二分十一秒」
七瀬は記録票へ書く。
《目的――水位低下により露出した境界杭と、医療船の航行状態》
《公開範囲――運河、水位柱、船体番号。住民の顔と船内は除外》
《固定台使用。左肩挙上なし》
左肩は、上げなくても痛む日がある。
今日は、上げなければ痛みは三。
上げれば六。
数字は痛みを小さくしない。
ただ、あとで「撮れたのだから平気だった」と言われるのを防ぐ。
運河の中央で、白い病院船が止まっていた。
第六病院船。
船腹の赤い線は、本来なら水面から二十センチ上にある。
今は線の半分が泥へ沈み、船尾の推進器が底へ触れている。
甲板で、透析担当の医師が両手を振った。
「撮影じゃなく、曳船を!」
「曳船、上流で止められてる」
小麦が叫び返す。
「理由は!」
「取水の優先確認!」
「こっちは透析が優先だ!」
「それを上流に言って!」
「言った!」
「返事は!」
「水管理不足!」
「それ、返事じゃなくて悪口!」
七瀬は撮影機を回す。
病院船の甲板には、透析用の純水槽が二基。
残量を示す旗は、一基が黄、もう一基が赤。
患者数は撮らない。
医療担当が公開を許可したのは、純水残量と、船が動けない事実だけだ。
上流の浮橋には、青い作業服の住民が五十人ほど集まっている。
下流の係留船団には、色の違う布が何十枚も上がっている。
白は飲用。
緑は洗浄。
赤は医療。
黒は、配給そのものへの異議。
七瀬は両岸を同じ画角へ入れなかった。
一枚に収めると、対立の形は分かりやすくなる。
分かりやすい映像は、どちらが多いか、どちらが派手かを、正しさへ変えやすい。
上流は上流だけ。
下流は下流だけ。
同じ時刻札を画面の端へ置く。
「一緒に撮らないの?」
小麦。
「別々の被害を、同じ時刻で残す」
「仲直りの絵にならない」
「まだしてない」
「喧嘩の絵にもならない」
「それも、まだ始まってない」
言い終える前に、始まった。
上流浮橋の中央で、金属の鎖が外れた。
下流側の若者三人が、小舟から鉤を投げた。
浮橋を第三水門へ引き寄せようとする。
上流側が押し返す。
水位の低い運河では、浮橋の底板が泥へ引っ掛かる。
一度傾けば、戻すのに水が要る。
「橋から離れて!」
七瀬が叫ぶ。
誰も聞かない。
聞こえないのではない。
聞く理由がない。
橋を取った側が、水門の手動輪へ先に届く。
手動輪へ届いた側が、次の二時間の水位を決める。
小麦が空の水差しを七瀬へ押しつけた。
「持って」
「何する」
「朝飯」
「今?」
「だから今」
小麦は前掛けのポケットから、硬い平パンを二枚出した。
浮橋へ走る。
「喧嘩してる人! 食べたの、いつ!」
若者が振り返る。
「関係ない!」
「空腹で水門触るなら関係ある! 右の三人、昨日の夕方から食べてない! 左の帽子、低血糖で手が震えてる!」
「おまえ医者か!」
「鍋の人!」
自称が雑だった。
だが、一人の手が止まった。
小麦はパンを投げない。
投げれば水へ落ちる。
橋の端へ置き、本人が取るか決められる距離を残す。
その一秒で、青緑の布が橋の中央へ滑り込んだ。
布は一本ではない。
左右の欄干へ別々に結ばれ、三角形の足場を作る。
小柄な少女が、布の上を渡った。
短い黒髪。
そばかす。
右と左で色の違う編み上げ靴。
背には、小型の卓上織機。
碧路紬は、橋の中央で両腕を開いた。
「上流、三歩」
掠れた声が、水面へ通る。
「下流、三歩。船頭は櫂を水から上げて」
「おまえに命令される筋はない!」
上流側の男が言う。
紬は言葉を変えず返した。
「私に命令される筋はない。受け取った」
布端を一度結ぶ。
「では、あなたが水門から三歩退く条件を言って」
「下流が先に退け」
「下流が先に退け。受け取った」
もう一本、結ぶ。
下流の若者が叫ぶ。
「上流が水を隠してる!」
「上流が水を隠している。受け取った。量は」
「知るか!」
「知らない。受け取った。知らない量を、今から奪う?」
「病院が止まる!」
「病院が止まる。受け取った。いつ」
若者が答えられない。
病院船の医師が甲板から叫ぶ。
「純水は三十六時間! 洗浄工程を削れば四十八! ただし感染リスクが上がる!」
紬が布端を結ぶ。
「三十六時間。削れば四十八。感染リスクあり。受け取った」
彼女は、上流側を見る。
「上流の貯水、何日」
「答える必要はない」
「答える必要はない。受け取った。では、下流も使用量を答えなくていい?」
「同じにするな!」
「同じにするな。受け取った」
結び目が三つになる。
橋の両側から、苛立ちが膨らむ。
質問ばかりで、水は増えない。
紬は腰の水筒を開けた。
一口だけ飲む。
空の杯を、橋の中央へ置く。
「私の条件」
彼女は言った。
「双方、同じ距離だけ、水門から退く。上流三歩。下流三歩。商船は櫂を上げる。病院船は係留を切らない。十分だけ」
「十分後は」
「また選ぶ」
「何も決まらない!」
「十分で全部決める人に、水門は触らせない」
上流側の老女が、乾いた笑いを漏らした。
「結び手。おまえの鏡を使え」
その言葉で、橋の音が変わった。
欄干を握る指。
小舟の櫂。
病院船の甲板。
全員が、紬の腕を見た。
青緑の布の下。
両前腕に、文字のような痣が浮いている。
敵対する二者が、互いへ禁じたい行為を言う。
紬がそれを交換する。
双方は、自分が相手へ求めた禁止を、自分も守らなければならない。
交換禁則〈ミラー・バン〉。
上流が下流へ「水門へ近づくな」と禁じれば、上流も近づけない。
下流が上流へ「貯水を隠すな」と禁じれば、下流も使用量を隠せない。
見た目は美しい。
同じ禁止。
同じ重さ。
紬は、左腕の布を解いた。
痣が濃くなる。
「使えば十分を待たなくていい」
上流の老女が言う。
「双方、同じ距離。公平だ」
下流の若者も言った。
「いい。やれ。上流も門へ触れなくなる」
紬は両岸を見た。
上流の浮橋は、水門から十二メートル。
下流の小舟は、三メートル。
同じ三歩を退けば、上流はまだ橋の上。
下流は船尾が浅瀬へ乗る。
同じ禁止の重さが、違う。
紬は布を巻き戻した。
「十分だけ、自分で退いて」
「能力を使え!」
「今は使わない」
「怖いのか!」
紬は空の杯を持ち上げた。
「怖い。受け取った」
それから、自分の要求を言う。
「怖いまま、十分を買う」
上流側の老女が、最初に一歩退いた。
「九分だ」
「値切る?」
「貯水努力を罰する交渉人へ、十分は高い」
「九分三十秒」
「九分」
「九分十五秒」
「小娘」
「老女」
「九分十五秒」
「受け取った」
紬が結び目を一つ増やす。
下流の若者が一歩退いた。
二歩。
三歩目で小舟の底が泥へ触れる。
紬は布を引き、船首を少し横へ逃がした。
「同じ三歩じゃない」
若者が言う。
「同じ距離にしたら、あなたの船が止まる」
「上流は三歩」
「あなたは二歩と船首一尺。違う」
「不公平だ!」
「そう」
紬は、はっきり答えた。
「今から、その不公平を説明する」
午前七時二分。
九分十五秒の停戦は、二十一分続いた。
誰も腕時計を合わせていなかったからではない。
九分十五秒を過ぎた時、上流の老女が水門へ戻らず、貯水量の一部を口頭で出したからだ。
「上池、六日」
紬が聞き返す。
「家庭使用を半分にすれば、九日」
「工業は」
「含めない」
「含めない。受け取った」
下流の若者が怒鳴る。
「隠してた!」
「おまえたちは漏水率を出せ」
「漏れてるのは上流が急に放すからだ!」
「整備不足だ!」
「病院船が動けません!」
「商船も動けねえ!」
新しい声が加わった。
第二水門の向こうから、平底の貨物船が三隻現れる。
船首には、商船組合の黒黄旗。
先頭の船頭は片目を白い布で覆い、長い棹を肩へ担いでいた。
「交渉は結構!」
棹で水面を叩く。
「水位を七寸上げろ。今日の塩、乾燥薬、豆、全部ここで腐る!」
小麦が帳簿を開く。
「豆、何袋」
「二百」
「腐るまで」
「三日」
「病院の水、三十六時間」
「病人だけ食えばいいのか!」
「言ってない。順番と、誰が減らすかを聞いてる」
「料理人が水門を決めるな!」
「船頭が病院を止めるな!」
七瀬は、撮影機を止めた。
商船の船頭が画角へ入る前に、撮影目的を更新する必要がある。
《追加目的――商船貨物の滞留と、水門開閉要求》
《船員の顔は、本人確認後まで非公開》
記録票を書いている間に、船頭は七瀬へ棹を向けた。
「撮るなら、腐った荷も撮れ!」
「撮る。目録は」
「組合印が要る」
「今、確認できる現物は」
「封を切るな!」
「封を切らず、袋数と船体沈下線」
「沈下線を撮れば荷重がばれる!」
「水位交渉で隠す数字?」
船頭が黙る。
隠す理由がある。
違法積載かもしれない。
他組合に荷量を知られたくないだけかもしれない。
撮れば、どちらも同時に暴く。
「限定記録にする」
七瀬が言う。
「公開は総重量帯だけ。原映像は、上流、下流、病院、商船から一人ずつ鍵を持つ」
「おまえが持たない?」
「持つ。五鍵。私だけでは開けない」
「信用しろと?」
「信用しなくていい。鍵を取って」
船頭は棹を下ろした。
「交渉人」
紬を呼ぶ。
「商船も卓へ入れろ」
「要求を、そのまま言って」
「毎日、水門を七寸。上流も下流も同じ通行料。医療船だけ優先は禁止」
紬は一字一句返した。
「毎日、水門を七寸。上流も下流も同じ通行料。医療船だけ優先は禁止。受け取った」
青緑の布に、新しい結び目ができる。
「私の要求」
紬が言う。
「荷の量、腐敗期限、代替路、船ごとの必要水深を出して。病院船と同じ卓で」
「患者の数も出せ」
病院船の医師が答える。
「患者数は出す。病名と氏名は出さない」
「ずるい」
「荷物は袋数を出して、送り主名は出さない。あなたも同じだ」
船頭が片目を細めた。
「同じじゃない」
「そう」
紬が言う。
「今日は、その言葉を使う日」
午前八時十五分。
仮の交渉卓は、船の上へ置かれた。
上流の小型貯水船。
下流の係留作業船。
病院船の連絡艇。
商船組合の荷船。
四隻を、紬の青緑布と由良の赤索でつなぐ。
鷹取由良は、右膝へ短い装具を巻いていた。
日常歩行はできる。
長い滑空と、船から船への跳躍は禁止。
「飛ばないの?」
小麦が訊く。
「飛ぶ必要がない」
「できないんじゃなく」
「両方」
由良は赤索を投げない。
隣船の船員へ端を渡し、結ぶ位置を本人に選ばせる。
「私が引けば早い」
「じゃあ引けば」
「早いことが、ここでは信用を減らす」
「成長した」
「喧嘩を売っている?」
「朝飯を売ってる」
小麦は硬い平パンを二つに割った。
「水、一口で食べられる?」
「食べられない」
「じゃあ半分」
「理屈が逆では」
「全部食べて喉に詰まるよりいい」
船上卓には、御厨朝が最後に乗った。
黒い杖。
右足。
間。
左足。
船板が揺れるたび、歩幅ではなく杖の角度を変える。
水門塔へ上る階段は使わない。
高所の水位計確認は、イオと轟へ委任した。
「国家調停官が来た!」
上流側から歓声とも罵声ともつかない声が飛ぶ。
「国家調停官ではありません」
朝が答える。
「現在、地域間調停の依頼を受けています。国家標準を持ち込む権限はありません」
「なら何をしに来た!」
「誰が、何を、どこまで決めたかを記録します」
「役に立たない!」
「その評価も記録します」
朝は船上卓の端へ座る。
中央ではない。
その隣へ、一文字巴が折り畳み黒板を置いた。
白手袋の指には、黒い句読点。
右人差し指は、細い固定布で支えてある。
巴は全員の視線が手元へ来るまで、話さない。
商船の船頭が苛立って棹を鳴らす。
巴は黒板へ大きく書いた。
《誰が 何を どれだけ 減らす》
その下へ、もう一行。
《誰が 減らせない》
上流の老女が鼻で笑った。
「減らせない人間ばかり集めれば、水は増えるか」
巴は音声ではなく、手話と短い発声で答えた。
「増えません。減らす人を、減らせない人に決めさせないためです」
紬が布を結ぶ。
「受け取った」
「何でも受け取るな」
巴が手話で返す。
紬は彼女の手を見てから、同じ意味を船上語で言い直した。
「荷物じゃない言葉もある」
七瀬は、撮影機を四隻の外側へ固定した。
同じ画角には入れない。
だが、同じ時刻は残す。
午前八時二十二分。
干上がった運河底で、十二本の境界杭が影を伸ばしている。
その上へ浮かぶ四隻は、同じ高さではなかった。
水位が違う。
船底の深さが違う。
積んでいる物が違う。
それでも、卓だけは四隻の間へ渡されていた。
少し傾いている。
誰か一人の側へ水平にすれば、別の一隻から浮く。
紬はその傾いた卓へ、空の杯を置いた。
杯は、下流側へゆっくり滑った。
誰も止めなかった。
午前九時四分。
最初に壊れたのは、交渉ではなく水位柱だった。
第二水門塔の北面。
白い目盛り板が、乾いた音を立てて傾いた。
「触るな」
伏見轟の声は低い。
低いが、船板と水門壁を同時に震わせる。
目盛り板へ手を伸ばした上流の作業員が止まる。
「落ちますか」
「板は落ちない」
「では」
「目盛りが嘘になる」
轟は右手で水門壁を二度叩いた。
返る音を聞く。
左肩は上げない。
高い位置の留め具へは、隣の作業員に鏡を持たせた。
「上、見る。俺、言う。外すのはそっち」
「あなたがやった方が早い」
「早い。肩、壊れる。次の門、直せない」
「大げさだ」
「大げさなら、あとで笑え」
作業員は鏡を掲げた。
水科イオが、水位柱の足元へしゃがんでいる。
左前腕の真鍮装具は光らない。
能力を失ってからも外していない。
今日はそこへ、細い水平器と巻尺が結ばれている。
「柱、二・三度傾斜」
「水位の数字は」
「上流側で一・七センチ高く見える。下流側で二・一センチ低く見える」
商船の船頭が棹を鳴らした。
「誤差だ」
「あなたの船の必要水深は」
イオ。
「九十六センチ」
「現在表示、九十七・四」
「通れる」
「補正後、九十五・三」
「……通れない」
「誤差で座礁する」
イオは能力を使わない。
使えないからではなく、使えた頃も、傾いた柱は真っすぐにしなければならなかった。
彼女は三つの量水器へ、同じ時刻に錘を落とす。
「上流池、第二門、下流船団。三点を合わせる。時計じゃない。錘が底へ着く音」
「水深が違う」
上流作業員。
「違うから、到達時間を同じ数字にしない。紐の長さを書く」
「標準器は」
「今、標準が傾いてる」
朝はその会話を記録する。
国家の目盛りを否定するのではない。
国家の目盛りも、壁のボルトが緩めば傾く。
蔵前価は、卓の端へ座ったまま、紙札を切っていた。
深緑の外套。
右腰の薄い装具。
腰椎の圧迫骨折から季節は過ぎたが、長時間立位と重量物は禁止のままだ。
「補正費」
価が言う。
「板の再固定、目盛り再刻、三点測量。人件費を含めて銀貨四十七」
「高い!」
上流作業員。
「座礁した商船一隻、最低でも銀貨百二十。病院船の透析停止は価格を付けない」
「付けられない?」
「付けない。医療費と搬送費は計算する。人の値段は別」
商船の船頭が笑った。
「競売人が、ずいぶん綺麗になった」
「腰を折ると、壇上が遠い」
「反省は」
「金額にしない。責任の欄へ」
価は札を三枚に分けた。
《測量費》
《座礁回避による損失減》
《費用を払えない理由》
「最後、要るのか」
「払えない人を、払いたくない人へ混ぜると、安い方が得する」
紬が結び目を一つ作った。
「受け取った」
「有料」
「いくら」
「交渉成立後に決める」
「無料より怖い」
「正しい」
その時、病院船から短い警笛が三度鳴った。
一度目は注意。
二度目は作業停止。
三度目は医療優先。
船尾の取水管が、泥を吸った。
透明な確認管へ、茶色い水が上がる。
「純水装置、前処理停止!」
甲板の医師が叫ぶ。
「第三水門を四分開けて! 船尾を浮かせる!」
上流側が一斉に反発した。
「四分で、上池から何立方流す!」
「計算する!」
イオが量水器を見る。
「全開は禁止。第一弁二割、第二弁一割。四分で百八十立方。病院船尾、推定七センチ上昇」
「百八十立方あれば上流家庭が――」
「何人、何日」
紬。
「今、出す!」
「出るまで病院は待てる?」
医師が答える。
「前処理槽、十五分!」
「上流、十五分で百八十立方の代替案」
「ない!」
「下流、百八十立方を受けた後の漏水」
「分からない!」
「商船、流速上昇で係留できる?」
「二隻はできる。一隻は荷が重い!」
「誰が索を持つ」
由良が赤索を上げた。
「私が張る。ただし跳ばない。船員二人、端を受けろ」
轟が水門塔を叩く。
「第一弁、錆びてる。二割で止まる保証ない」
「止める方法」
「手動楔。上流側から一人、下流側から一人。俺は荷重を見る」
「誰」
沈黙。
水は、意見がまとまるまで泥を吸い続ける。
紬は両腕の布へ指を掛けた。
交換禁則を使えば、上流と下流の双方へ「水門へ単独で触れるな」を課せる。
同じ禁止の下で、二人を選べる。
美しい。
早い。
彼女の指が止まる。
「上流」
紬は言った。
「あなたたちは水を失う。下流は病院を止めないために受け取る。交換じゃない」
「なら、上流だけ損だ!」
「今の四分は、そう」
「認めるのか!」
「認める」
紬は空の杯を上流側へ置いた。
「代わりに、今日の交渉で上流の損失を最初の欄へ書く。下流は漏水率を隠さない。商船は二隻を係留支援へ出す。病院は純水使用量を病名なしで公開する」
「あとで破る」
「破れる」
「何?」
「破れない約束を、十五分で結ばない。破った人の名前と、もう一度開く時刻を残す」
上流の老女が、水門塔を見上げた。
「楔は、私が入れる」
「年寄りは下がれ!」
「この門を建てた時、私は若かった。錆び方くらい知ってる」
下流の若者が手を挙げた。
「反対側、俺」
「名前」
「公開しない」
「限定記録」
「それなら」
朝が二人の意思を別々に確認する。
轟は作業手順を完全な文で言う。
「弁を開く。二割で止める。止まらなければ楔を入れる。手を離す合図は、鐘一回。誰も英雄にならない。危なければ戻る」
「最後、余計だ」
上流の老女。
「必要だ」
轟。
第一弁が回る。
錆びた鉄が、長く泣く。
水が落ちる。
最初の勢いで、露出した境界杭の一本が倒れた。
七瀬は撮る。
上流から失われる水。
下流へ押し寄せる濁流。
病院船の赤い線が、泥から少しずつ離れる。
同じ映像へまとめない。
四つの撮影機。
同じ時刻札。
水門は二割で止まらなかった。
「楔!」
轟の声。
上流の老女と、下流の若者が、別々の側から鉄楔を打つ。
一回。
二回。
鐘が鳴る。
手を離す。
弁は二・六割で止まった。
予定より三十二立方多い。
イオが叫ぶ。
「総流出、二百十二!」
「病院船!」
船尾が浮く。
推進器が泥から離れる。
医師が前処理槽を切り替える。
「再開! ただし洗浄水、廃棄六十!」
「記録!」
小麦が帳簿へ書く。
「失った水、二百十二。医療で使える水、全部じゃない!」
上流の老女が楔から手を離した。
掌の皮が裂けている。
「うちの損は、二百十二だ」
「違う」
価が言う。
「二百十二の水量。作業二人の負傷。楔の交換。病院が止まらなかった結果。別欄」
「面倒だ」
「面倒を省くと、誰かが安くなる」
紬は、空の杯へ二百十二と書いた紙を入れた。
その杯を、卓の中央へ戻す。
傾いた卓の上で、今度は滑らなかった。
底へ、濡れた紙が張り付いたからだ。
午前九時二十八分。