第534話 第一章「浮かぶ境界」後編

 医療船が浅瀬で止まった直後、船内から空の洗浄容器が一つ投げ渡された。

 受けた下流の男が、上流側へ見せる。

「これが今夜までに満ちない」

 上流の女は、自分の水券束を掲げた。

「こちらは三十日分を節約して貯めた」

「患者は節約できない」

「工場が止まれば薬の容器も来ない」

「今夜の患者と来月の容器を同じ秤へ置くな」

「置かなければ、来月を誰が守る」

 言葉が水面でぶつかる。

 七瀬は、空容器と水券束を同じ画角へ入れなかった。

 空容器だけを撮る。

 次に水券束だけを撮る。

 どちらを先に公開するかで、物語の主語が変わる。

「同時に出す?」

 タマキが聞いた。

「同じ時刻で、別に出す」

「見る人が片方しか見なかったら」

「もう片方があると表示する」

「それで公平?」

「分からない」

「分からないまま撮る?」

「分かったふりより」

 医療船の警報が鳴る。

 上流の水券が風で一枚飛び、下流の男が拾った。

 返す時、二人は礼を言わない。

 水券には、持ち主の名前と、節水した日数が書かれていた。

 敵の数字を手にした一秒だけ、男はそれを破らなかった。

 仮の停戦が続く九分十五秒の間に、七瀬は境界杭のそばへ降りた。

 泥の中から現れた杭には、上流の古い焼印と、下流の新しい係留傷が重なっている。どちらが先かを撮れば、所有の歴史に見える。だが、杭の根元には、子どもの身長を刻んだ横線もあった。

「ここ、境界じゃないの」

 七瀬が尋ねる。

 家船の少年は、泥の付いた指で一番低い線を示した。

「去年、ここまでだった」

「水位?」

「ぼく」

 その上に、今年の線がある。

 境界杭は、土地を分けるためだけに使われていなかった。水が高い時には、家船の子どもが背比べをする柱だった。

「撮っていい?」

「顔は嫌」

「線だけ」

「名前も」

「書かない」

「上流の杭って言わないで」

「下流の杭とも言わない」

「じゃあ、何」

 七瀬は答えを急がなかった。

「今、水の下から出てきた杭」

「長い」

「正確」

「面白くない」

「そこは困ってる」

 少年は笑わず、自分の線の泥だけを拭った。

 停戦終了まで二分。

 七瀬は、所有印より先に、その横線を記録した。誰の土地かを決める証拠には弱い。ここで生活が続いていた証拠にはなる。

 撮影機を上げた瞬間、左肩が鈍く痛んだ。七瀬は無理に保持せず、固定台を少年へ押してもらう。

「僕が撮ったことになる?」

「台を押さえた人として名前を出すか選べる」

「出さない」

「分かった」

「でも、押さえたのは僕」

「そこは記録する。非公開で」

 少年は納得した顔をしなかった。

 納得していないことも、七瀬は撮らなかった。

 境界杭は十一本になった。

 水位は、七センチだけ上がった。

 争う理由は、ひとつも減っていなかった。

 ただし、隠せる数字が、最初より三つ減っていた。