第276話 第四章「署名の責任」後編

「濡れれば重い」

「油紙を増やす」

「タマキが料金を」

「現地経費」

「誰が」

「署名者ごと」

 七瀬が少しだけ笑った。

「巴の請求書が効いてる」

「悪い職業同士です」

 記録と沈黙は、同じ人が同時に全部を持たない。

 真琴が、書く範囲を決める。

 七瀬が、見せる時刻を止める。

 署名者が、公開範囲を選ぶ。

 誰か一人が正しいからではない。

 一人が間違えた時、全部が同じ方向へ倒れないためだった。

 由良はまだ署名しなかった。

「剛嶺側の二十二人に、本人確認が残ってる」

「区間へ先に署名できます」

 真琴。

「人の行先が空白のまま、道だけ書かない」

「敵は待ちません」

「故郷も待たない」

「どちらを優先します」

「優先って言葉を使うな」

 由良の赤索が指へ一周した。

「後で、敵へ協力したって言われる。天環の撤退へ剛嶺の道を売ったって。だから、誰をどこへ通したか、自分で聞く」

「凱との共同署名は」

「要らない」

「まだ提案していません」

「する顔してる」

 凱は少し離れた場所にいた。

「顔で責任は分からない」

 七瀬。

「凱は分かりやすい」

「記録には使えない」

「使わなくていい」

 由良は三角札を二十八枚持って、住居列へ向かった。

 署名は遅れる。

 遅れることを、逃げにはしない。

 午後二時一分。

 迅は署名机の前に立っていた。

 六つの欄のうち、三つに名前が入った。

 真壁梓。

 時雨ミソラ。

 巌門崇牙。

「俺の欄は」

「ありません」

 真琴。

「最終受領を運ぶ」

「運搬者欄には書けます」

「命令へは」

「権限がない」

「命令に従って殴るのは俺だ」

「殴る権限と、三百十二人の移動を決める権限は違う」

「失敗したら俺も責任を取る」

「何をします」

「残る」

「それは罰です。責任ではありません」

 迅の目が細くなった。

「格好良く署名して、自分だけ残って死ぬ。残った人は、あなたの責任を受け取れません」

「じゃあ何を」

「依頼された範囲を、完了する。受領札を戻す。命令へ異議があるなら、異議欄へ書く。権限のない署名をしない」

「書かない方が楽だ」

「楽ですか」

 真琴は新しい欄を指した。

《受領札運搬担当》

 その下に、帰還確認の条件がある。

 一枚でも欠ければ、撤退完了と発表しない。

「あなたは、最後の空欄を運ぶ」

「紙一枚」

「三百十二人のどこかです」

「なくしたら」

「あなたの名が残る」

 迅は鉛筆を取った。

 右手ではなく、左。

 《竜胆迅》と書く。

 字は右より少し角張っていた。

「これで満足?」

「満足はしていません」

「なんで」

「まだ帰っていない」

 真琴は、署名済みの三枚と、未署名の三枚を分けた。

 タマキが、迅の署名へ細い枠を引いた。

「何」

「範囲」

「書いてある」

「外まで署名に見える」

「名前が大きい?」

「少し」

「格好いい?」

「邪魔」

 枠の下へ、三つの問いを足す。

《誰から受け取るか》

《誰へ返すか》

《何を戻したら仕事が終わるか》

 迅は答える。

「各経路の受領担当」

「曖昧」

「名前、まだ全部決まってない」

「決まったら追記」

「返す先は青石台受領台」

「誰が受ける」

「南野」

「運転できない」

「受領はできる」

「戻すもの」

「札」

「迅は」

「戻る」

「順番」

「俺が先」

「受けた」

 真琴が枠の外へ一文を加えた。

《運搬担当の署名は、経路・撤退・残置・戦闘の決定権を含まない》

「弱くなった」

 迅。

「正確になりました」

「強いのと正確なの、どっち」

「戻せる方です」

 タマキは紙を折った。

 文字を内側。

 折り目を上。

 紐は紙へ触れさせない。

 迅は一度見て、同じように折り直した。

 拳の形は教わらなくても覚えた。

 紙の守り方は、十四歳の手から習った。

 紙の厚さは同じだった。

 名前のある方だけが重く見えた。