第277話 第五章「敵前の炊事」前編
五月二十三日 午後四時六分
温かい食事は、湯気で居場所を知らせる。
時雨ミソラは、鍋の蓋を閉じた。
「火を消す」
野戦厨房の調理人が、濡れた薪を見た。
「まだ湧いてない」
「分かってる」
「水を飲ませられない」
「冷たいまま配る」
「腹を壊す」
「煮沸前の水は使わない。朝の貯水と封を切ってない水だけ」
「乾燥粥は戻らない」
「噛む」
「患者が噛めない」
「患者用は温める。診療棟の遮熱釜で。ここは消す」
調理人は納得しなかった。
納得しないまま、火ばさみを取った。
それで十分だった。
小麦の厨房網から届いた乾燥食は、木箱十八個に分けてある。平たい穀物餅、乾燥豆、塩漬け野菜、粉末味噌。箱の蓋には、量より先に調理者の休息時間が書かれていた。
《連続作業九十分を超えない》
《食べる人より先に、作る人の水を確保する》
《無料配布でも、作業賃を消さない》
土門小麦は青石台にいない。
いない人の手順だけが届いている。
「小麦は、冷たい粥を許すかな」
七瀬が言った。
撮影機は、厨房の煙突ではなく手元へ向けている。公開用ではない。食料の残量と封の状態を記録するためだ。
「食中毒よりは」
ミソラ。
「まずいって言う」
「それも言う」
「本人みたいに話さないで」
「小麦なら言うを言った」
「出典を付けて」
「私の予測」
「それなら」
迅が穀物餅を一枚取った。
「食べていい?」
「配給前」
「味見」
「食べたいだけ」
「両方」
「一枚を四つに割って」
「四人で?」
「味見一人分は四分の一」
「俺は四人分働く」
「食べる量と自尊心を結びつけない」
迅は餅を割った。
固い音がした。
「石」
「青石台の名物」
「名物にするな」
轟が四分の一を口へ入れた。
前歯の隙間で、乾いた粉が鳴る。
「壁材にはならん」
「食べ物の評価を建材でしないで」
七瀬。
「噛める」
「感想は」
「水が欲しい」
「それは感想じゃなくて症状」
ミソラは自分の分を噛んだ。
まずい。
それを、栄養があるという言葉で消したくなかった。
「まずい」
「正直」
迅。
「でも配る」
「独裁」
「拒否できる。代わりは乾燥豆」
「どっちも乾いてる」
「選択肢が二つあっても、嬉しくないことはある」
七瀬が記録盤へ時刻を刻む。
「十六時十二分。医療責任者、食事の自由を認める」
「皮肉を記録しないで」
「事実です」
厨房の裏では、乾燥食より先に、時計が並べられていた。
大きい時計が一つ。
砂時計が三つ。
薬袋へ結んだ紙時計が十一。
動ける者を先に食べさせる、と決めても、動けるかどうかは脚だけでは決まらない。
「この人は二十分後」
ミソラが紙時計を一つ裏返す。
「食べられるのに?」
配膳係の少年が訊いた。
「注射の時刻と合わせる」
「先に食べて、後で打つのは」
「血糖が崩れる」
「後で食べて、先に打つのは」
「もっと崩れる」
「面倒」
「身体は、説明書を短くしても短くならない」
少年は十一枚の紙時計を見た。
「俺、数字苦手」
「形で分ける」
タマキが、北路の札を作った時と同じ木型を持ってきた。
食べてから薬は丸。
薬と一緒は三角。
食べずに出発は欠け四角。
「食べずに出すの?」
「吐く可能性が高い人。受入点で流動食」
「かわいそう」
「そう」
「じゃあ食べさせる?」
「かわいそうを治療条件にしない」
ミソラは、少年の前へ紙を置いた。
「でも、本人へ理由は説明する。食べたいと言ったら、危険も言って選んでもらう」
「医者が決めないの」
「私は医者じゃない」
「そこ、毎回言う」
「間違われるたび言う」
少年は丸札を三枚、三角札を二枚、欠け四角を一枚持った。
「誰から?」
タマキ。
「ミソラから」
「誰へ?」
「食べる人」
「何のため?」
「薬と食事を間違えないため」
「食べる人の名前は?」
「名簿」
「持ってる?」
「……ない」
「じゃあ、まだ配達じゃない」
少年は舌打ちせず、名簿を取りに戻った。
タマキは、彼の背中を見送る。
「大人は、目的を言うと宛先を忘れる」
「子どもは?」
ミソラ。
「目的を聞くと、仕事が増える」
「嫌?」
「増えたって分かる方がいい」
厨房の入口で、凱が二つの木椀を持っていた。
「一つ多い」
ミソラが言う。
「真壁の分だ」
「本人は」
「通信丘を離れられない」
「持っていく?」
「そのつもりだ」
「冷める」
「もう冷たい」
「もっと冷たくなる」
「温度にも底がある」
「人の我慢にはないと思ってる人の台詞」
凱は反論しなかった。
自分の椀へ印を付ける。
真壁の椀へは、右時計の形を小さく描いた。
「なぜ時計」
「彼女は二つ持っている」
「どちら」
「公的な右」
「左の方を本人が欲しがったら」
凱は木炭を止めた。
「訊いてくる」
「食事を運ぶのに、戻る?」
「間違った椀を届けるより早い」
王だった頃の凱なら、同じ物を全員へ配ることを公平だと思った。
今は、同じ粥にも、違う時刻と違う印が要る。
平等は、並べた椀の数では測れない。
誰が自分の椀を選び直せるかで、形が変わる。
食事は、三つの時刻へ分けた。
第一、今動ける者。
第二、移動前に血糖や薬の調整が必要な者。
第三、出発直前まで安静が必要な者。
「負傷者を先にしないのか」
凱が訊いた。
「先に食べさせるのが優先とは限らない」
ミソラは名簿へ印を付ける。
「吐き気がある人へ固形物を先に入れたら、搬送中に詰まる。糖尿病の人は薬と時刻を合わせる。動ける人は、荷を積む前に食べる」
「弱い者を後にするように見える」
「見えるために順番を変えない」
「説明は」
「する。全員に同じ長さではできない」
「俺が読もう」
「命令みたいに聞こえる」
「読むだけだ」
「凱が読むと、同じ文でも命令になる」
「では誰が」
「厨房の人」
「声が届かない」
「列ごとに一人」
「内容が変わる」
「紙を持たせる」
「紙が足りない」
タマキが鉄箱を開けた。
「裏が白い切符がある」
「それを使う」
凱は一歩下がった。
自分の声を使わないことに慣れようとしている。
「俺は何をする」
「食べる」
「作業は」
「食べた後」
「立ったままでも」
「座る」
ミソラは低い箱を指した。
凱の左膝が曲がるまで、一拍かかった。
「医療命令か」
「提案。拒否したら、拒否した時刻を記録する」
「座る」
「受けた」
「便利な言葉だな」
「誰が何を受けたか言って」
「獅堂凱が、時雨ミソラの座位休息の提案を受けた」
「長い」
「あなたが言った」
凱は冷たい穀物餅を噛んだ。
顔は変わらなかった。
「まずい」
「王でも同じ舌」
「王ではない」
「今の訂正は速い」
火を消すと決めた後で、火を必要とする人が来た。
北路の患者を運ぶ介助者だった。
胸へ、小さな金属筒を抱えている。
「温水が要る」
「何に」
ミソラ。
「吸入器の洗浄。昨日の分が残ってる」
「遮熱釜を使う」
「患者用の流動食が先だと聞いた」
「同時には沸かせない」
「どちらを先に」
介助者は、答えを求めている。
責任を渡すためではない。
自分が選びたくないほど、どちらも必要なのだ。
「吸入器は何時に使う」
「十八時」
「流動食は」
「十七時二十分」
「先に食事。吸入器は次」
「敵が来たら」
「途中で火を消す」
「洗浄不足になる」
「なる」
「それで感染したら」
「判断した私の名を残す。あなたは、時刻と必要性を確認した名を残す」
「責任を分けると、軽くなる?」
「軽くならない。どこへ戻ればいいか分かる」
介助者は金属筒を置かなかった。
「私も釜を見る」
「患者から離れる?」
「交代を頼む」
「誰へ」
「本人の姉」
「本人は」
「姉に頼みたいと言った」
「受けた」
遮熱釜は、診療棟の石壁と二重蓋の間に置かれた。
煙は細い地下管へ抜ける。
安全ではない。
外から見えにくいだけだ。
轟が煙管の継ぎ目へ湿った布を巻いていた。
「左肩」
ミソラ。
「腰の高さだ」
「手を伸ばしてる」
「右だ」
「身体は左右で別人じゃない」
「知っとる」
「知ってる人の伸ばし方じゃない」
轟は右腕を下ろした。
「台が要る」
「今言った」
「自分で言いたかった」
凱が木箱を持ってきた。
「乗るか」
「箱の耐荷重」
「乾燥食六十キロ」
「俺は百を越す」
「二箱並べる」
「蓋が割れる」
タマキが、空の荷車板を引いてきた。
「人を荷物の数字で乗せない」
「じゃあ何で」
轟。
「板の支点と、乗る人の足の場所」
轟は荷車板を裏返した。
「ここへ角材二本。中央へ乗らん。端へ足。凱が押さえる」
「俺が押さえる」
「左膝は曲げん」
「分かっている」
「毎回言うな、って言うなよ」
「言わない」
「言いたそうだ」
「顔で責任は分からない」
七瀬の言葉を、凱が借りた。
轟は鼻で笑い、板へ上がった。
煙管の継ぎ目を右手で直す。
凱が板を押さえる。
ミソラが火の時刻を見る。
介助者が洗浄水の量を測る。
一つの湯を沸かすのに、四人いる。
英雄なら一人で釜を運べる。
英雄が一人で釜を運んだ後、その火をいつ消すかまで決められるとは限らない。
流動食の鍋が先に下りた。
吸入器の洗浄水は、予定より四分遅れた。
四分の遅れを、介助者は紙時計へ書いた。
ミソラは、その横へ自分の名を書いた。
失敗ではない。
成功とも書かない。
四分遅れた温水が、必要な量だけあった。
午後四時二十六分。
配給列は、食べる順番より、並べる順番で揉めた。
厨房係は入口から見て右へ動ける者、左へ患者と介助者を置いた。分かりやすい。分かりやすい区分は、だいたい誰かを雑にする。
杖を持つ男が右へ並び、厨房係に左を示された。
「歩ける」
「杖です」
「杖で歩ける」
「患者列の方が早いです」
「早く欲しいんじゃない。荷積みに入る」
「無理をしないで」
「無理かどうかは俺が決める」
ミソラは男の前へ立った。
「名前」
「配給に要るか」
「本人確認に要る。公開名でいい」
男は名乗った。採石路の荷締め係だった。
「右足、痛み」
「二」
「杖を使わないと」
「五」
「今日の歩行距離」
「千八百くらい」
「荷積みは」
「する」
「何分」
「一時間」
「三十分。持ち上げない。結束確認だけ。終わったら再診」
「許可か」
「条件の提案」
「拒否したら」
「右列で食べる。荷積み責任者へ、医療側が一時間作業を勧めていないと伝える」
「俺を止めない?」
「止める根拠が足りない」
男は少し考えた。
「三十分」
「受けた」
厨房係が困った顔をする。
「じゃあ、この人は右?」
「右」
「患者なのに」
「患者で、作業者」
「列が二つじゃ足りない」
「列を増やさない」
「どうする」
「札を増やす」
透子が、右手で形札を持ってきた。
丸は今食べる。
三角は薬と合わせる。
四角は出発前。
札の端へ小さな切り欠きを入れ、作業時間や介助の有無を示す。
「色なら早い」
厨房係。
「暗くなったら見えない」
透子。
「まだ明るい」
「食べ終わる頃も?」
厨房係は空を見た。
雲が低い。
「形で」
透子は頷き、左手を使わず右だけで札を配った。まだ手首を痛める前だった。指は速い。
七瀬がその手元を撮る。
「顔は」
荷締め係が訊いた。
「今は手と札」
「怪我人の顔を撮ると、かわいそうに見えるから?」
「かわいそうに見せる目的では撮らない」
「強そうに見せるなら」
「それも同じ」
「じゃあ、何を撮る」
「あなたが三十分を選んだこと。後で一時間働かされたと言われた時、医療側の提案と本人の選択を両方残す」
「俺が無茶した証拠にもなる」
「なる」
「撮れ」
男は杖を立て、穀物餅を受け取った。
右列と左列はそのままだった。
ただ、同じ人間が一つの列だけでは説明できないことを、形札が認めた。
十六時五十一分。
調理人の一人が、乾燥豆を数えながら手を止めた。
「十九箱目がない」
「最初から十八」
七瀬。
「昨日は十九だった」
「昨日の残量記録は十八箱と半箱」
「半箱を足して十九」
「箱数と中身の量を混ぜないで」
「でも、食べられる量は」
「十八箱と半箱相当」
「今は十八箱」
ミソラが半箱の行先を見る。
昨夜、北診療棟へ運んだ。
患者用の柔らかい豆粥へ使った。
記録はある。
厨房係が、唇を噛んだ。
「私が忘れた」
「記録されてる」
「覚えてない」
「休んだ?」
「忙しかった」
「答えになってない」
「寝た」
「何時間」
「三」
「連続作業」
「分からない」
小麦の箱に書かれた規則が、目の前にある。
《連続作業九十分を超えない》
ミソラは午後の勤務表を見た。
この調理人へ、既に百二十分を割り当てている。
自分が書いた。
「交代」
「今?」
「今」
「配り終わってない」
「だから」
「私が抜けたら遅れる」
「遅らせる」
「撤退時刻を守るんでしょう」
「食事配布を十三分遅らせる。荷積み開始は変えない。今動ける者のうち、食べ終えた六人を配膳へ回す」
「素人です」
「箱を渡す。札を読む。量は秤で決める」
「間違える」
「あなたも間違えた」
調理人の顔が固くなる。
ミソラは、言ってから気づいた。
正しい。
正しい言葉は、相手が座る場所まで奪うことがある。
「今の言い方は撤回する」
「間違えたのは本当です」
「本当でも、休ませる理由に失敗を使った。疲労を確認した時点で交代させるべきだった」
「じゃあ、私が悪くない?」
「忘れた責任はある。百二十分を組んだ責任は私にある。二つは消し合わない」
「面倒ですね」
「そう」
「休んだら、戻っていい?」
「三十分後に再確認」
「十五分で」
「二十五」
「二十」
「休息を値切らない」
「食事がまずいって言われる」
「まずい」
「あなたが先に言わないでください」
調理人は笑わなかった。
だが、火ばさみを置いた。
代わりに入った六人のうち、三人は箱を反対へ置いた。
透子が形札を直す。
凱が一箱を持とうとする。
「座って」
ミソラ。
「食べた」
「膝が熱い」
「見て分かるか」
「歩幅で」
「王でも隠せない」
「王ではない」
「訂正は速い。座るのは遅い」
凱は箱を下ろした。
「俺が配ると命令に見える」
「箱を持つだけなら」
「誰へ渡すかで順番ができる」
「じゃあ、空箱を畳んで」
「役に立つか」
「空箱も運ぶ」
「なぜ」
「残置一覧で、満箱と空箱を区別する」
凱は座って、空箱の釘を抜いた。
王に向かない仕事は、たいてい人間には必要だった。
午後四時三十八分。
阿久津サナと佐渡が、残置診療点の九床を見ていた。
診療棟の東端。厚い石壁。井戸に近く、砲撃を受けやすい北斜面からは外れている。設備は最低限だった。
酸素二系統。
手動吸引器三。
温度管理箱一。
滅菌水。
縫合具。
解熱鎮痛薬。
簡易検査灯。
九床のうち、今使っているのは四床。
残る五床は、誰が来るか分からないために空けてある。
「空床って、空いてるんじゃないよ」
サナが言った。
「まだ来てない人の場所」
佐渡は左掌の古い電撃痕を机へ付けず、記録板を持った。
「拒否した時の処理は」
「何を拒否」
「残留、搬送、治療、氏名確認、所属確認」
「所属は聞かない」
「聞かないことを拒否する人もいる」
「所属を言いたい人」
「言った情報をどこへ書く」
「医療記録には必要な範囲だけ」
「警備へは」
「渡さない」
「武器を持って来たら」
「武器を預ける。治療はする」
「預けないなら」
「安全距離を取る。出血を止める道具は渡す」
「誰が残る」
「私、佐渡、二人ずつ交代。厨房一。井戸管理一。経路伝令一。全員が常時いるわけじゃない」
「ミソラは」
「往復」
ミソラが答えた。
「ここを所有しない」
佐渡がペンを止める。
「所有者なし?」
「共同運用」
「共同は、責任者なしの言い換えになる」
「時間ごとの責任者を書く」
「止まった時の責任は」
「止めた人」
「再開できない時」
「再開できないと確認した人」
「確認者が不在なら」
「診療を縮小する」
「撤退する?」
「患者ごとに決める」
佐渡は最後に訊いた。
「この九床を守るために、他の三百十二人を遅らせる?」
ミソラの脇腹が疼いた。
答えは、きれいではない。
「遅らせない」
「なら、見捨てる可能性がある」
「ある」
サナが四床目の毛布を直した。
「見捨てないって言う人は、どこまで一緒に残るの」
「最後まで、と言う」
ミソラ。
「最後っていつ」
「分からない」
「分からない言葉で患者を安心させないで」
「分かった」
「今決めなくてもいいよ」
サナは、患者へ言うのと同じ声で言った。
「でも、決めない間に何をするかは決めよう」
九床の一覧に、担当時刻が入った。
空白は残る。
空床を空白と同じにしないための名前が並んだ。
最初の破裂音は、厨房の鍋が落ちた音に似ていた。
午後五時三分。
物資倉庫の北壁が内側へ膨らんだ。
「伏せろ!」
轟の声。
壁の一部が崩れ、石粉と木片が倉庫内へ吹き込む。
爆薬ではない。
追撃車が、外から荷台をぶつけた。
二度目。
扉の蝶番が曲がる。
無署名の追撃班だった。所属旗は外され、腕章もない。捕まっても命令者の名を残さない形だ。
「医療箱を出す!」
ミソラが叫ぶ。
「食料は!」
厨房係。
「置く!」
「十八箱ある!」
「抗菌薬、止血材、インスリン、吸入薬を先!」
「食料がなければ明日もたない!」
「医療品がなければ今日もたない!」
三度目の衝撃。
棚が傾いた。
倉庫係が下敷きになる。
轟が右肩を棚へ入れ、左腕を上げず腰で受けた。
「持ち上げるな!」
ミソラ。
「分かっとる!」
「左肩!」
「使っとらん!」
轟は棚を持ち上げない。
床へ転がっていた鉄管を支点にし、右手で棚脚を三センチ浮かせる。
迅が倉庫係を引き出した。
棚脚は、倉庫係の左大腿の中央を押さえていた。
膝から下の色は保たれている。足趾も動く。だが、脚の軸がわずかに外へずれ、本人が起き上がろうとした瞬間、息ではなく声が止まった。
「重傷一!」
ミソラが言う。
数えるためではない。
必要な人手と搬送順位を変えるためだ。
「意識あり。末梢血流あり。左大腿骨骨幹部骨折を疑う。牽引せず両側固定。北医療路へ追加」
「六十四は」
真琴。
「対象内の人。内訳を更新。総数は変わらない」
扉が破られた。