第278話 第五章「敵前の炊事」後編
三人の追撃兵が入る。
顔布。短棒。荷鉤。
迅が踵を擦る。
「殴っていい?」
「医療箱へ触れさせない」
ミソラ。
「質問に答えてない」
「必要な範囲」
「便利」
最初の兵が荷鉤を振る。
迅は一歩引いた。
床の乾燥豆を踏まない。
相手の肩が先に動く。
鉤の軌道を左前腕で外し、手首を返す。二歩目は棚際。三歩目は薬箱の前。
七退一還〈セブン・リターン〉の歩数ではない。
源を一人へ決めない。
目の前の兵は、倉庫を壊した車の運転者ではない。命令者でもない。荷鉤を振った行為だけへ返す。
迅は相手の肘を折らず、親指の付け根を棚角へ当てた。荷鉤が落ちる。
二人目を轟が止める。
拳ではなく、木箱を滑らせて足元へ置く。相手が跳んだ先へ、右肩ではなく腰を当てる。橋のような体が、衝撃を床へ逃がした。
三人目は食料箱を掴んだ。
厨房係が反射的に追う。
「行かせて!」
ミソラが止めた。
「でも!」
「取らせる!」
兵は乾燥食の箱を抱えて外へ出た。
その間に、タマキと真琴が医療箱を担架へ載せる。
「一箱でいいの?」
タマキ。
「食料は残置一覧へ。追うな」
「盗まれた」
「残した」
「同じ?」
「違う。盗んだ責任は向こう。追わない判断は私」
外で車が急発進した。
積み方が悪い。
食料箱が一つ、荷台から落ちて割れた。
乾燥豆が石の上へ広がる。
七瀬は撮った。
逃げる車ではなく、箱番号と落ちた量。
「食料、何箱残す」
真琴。
「六」
「根拠」
「医療箱と搬送器具を運ぶ荷車の容量」
「人の食事は」
「十二箱分を持つ。六箱分は残す。うち一箱は盗取、落下分を別記」
「残置診療点へは」
「二箱」
「三百十二人には」
「十箱と、各自携行分」
「足りる?」
「一日半」
「撤退が延びたら」
「不足する」
ミソラは言い切った。
不足を、工夫で消すふりはしない。
「だから時刻を守る。延びたら再配分する」
倉庫の外で、捕まえた追撃兵が呻いた。
手首を痛めている。
「治療する?」
厨房係が訊いた。
「する」
「こっちの食料を盗んだ」
「手首が痛い」
「敵」
「症状」
ミソラは敵味方なし〈ノー・カラーズ〉を使わなかった。
能力で陣営を消せば、盗みと攻撃の責任まで薄くなる。
腕章のない男へ名前を訊く。
「言わない」
「呼ばれたい名前」
「ない」
「では、手首を診る人。治療を受ける?」
男は黙った。
「今決めなくていい。止血材はここへ置く。自分で巻くか、私が巻くか、拒否するか」
「逃がすのか」
「拘束は警備の仕事」
「治したらまた来る」
「来た時は警備が止める」
「医者は楽だな」
「私は医師資格を持ってない」
「そこじゃない」
「楽でもない」
男は、差し出された布を自分で取った。
それを治療同意とは数えない。
道具の受領だけだ。
倉庫から運び出した医療箱は、外へ出した順に正しいわけではなかった。
抗菌薬。
止血材。
吸入薬。
インスリン。
名前の大きい箱ほど先に持ちたくなる。
しかし、一番外へ出た箱には、空の瓶が多かった。
「軽い」
タマキが持ち上げて言った。
「封は」
真琴。
「切れてる」
「誰が」
「分からない」
「使った記録」
「中にある」
濡れた紙が、瓶の底へ張りついていた。
七瀬は箱全体を撮らない。
箱番号、封の切れ目、紙の濡れた範囲だけを固定台で記録する。
「敵が開けたように見える」
厨房係。
「見えるだけ」
七瀬。
「さっきまで閉じてた」
「誰が確認した」
「私」
「時刻」
「覚えてない」
「では、あなたが見た時は閉じていた。時刻不明」
「信じないの」
「信じる範囲を広げない」
「冷たい」
「医療箱は冷たくていい」
ミソラが濡れた使用記録を一枚ずつ剥がした。
空瓶は盗難ではない。
昨夜、患者へ使われている。
記録係が急いで箱へ戻し、廃棄欄へ移すのを忘れた。
「持っていく?」
タマキ。
「空瓶は残す」
「証拠なのに」
「使用記録は写す。瓶は重さになる」
「後で、薬がなかったって言われる」
「瓶を持っていっても、中身は戻らない」
真琴は残置物一覧へ書いた。
《使用済み空瓶十一。現地廃棄。使用記録は複写二部。原本は北医療受領台へ》
「二部?」
「一部は受入。もう一部は診療点」
「三部にしない?」
「誰が持つ」
「空白の旗」
タマキが言い、すぐに首を振った。
「違う。私たちが持つ理由はない」
「気づくのが早い」
真琴。
「持ち物が増えると、配達したくなる」
「配達は悪くない」
「宛先がないのが悪い」
重傷者の担架が倉庫前を通った。
左大腿は仮固定されている。
本人は意識がある。
「医療箱、持っていけた?」
倉庫係が訊いた。
「持っていく」
ミソラ。
「食料は」
「一部残す」
「俺のせい?」
「棚を受けたせいではない」
「棚の前に立ってた」
「仕事だった」
「避ければよかった」
「避けたら、後ろの人へ倒れた」
「じゃあ、正しかった?」
「骨折した判断を、その場で正しいって言うのは雑」
倉庫係は顔をしかめた。
「痛いから?」
「痛い時に、意味まで固定しない」
「後で聞く?」
「後で、あなたが話せる時に」
担架が動く。
彼は右手を上げ、食料箱を指した。
「六箱、封を上に。雨が入る」
「受けた」
厨房係が箱を直した。
負傷しても、仕事の知識は消えない。
負傷した人の言葉を全部、最後の言葉のように扱う必要もない。
ただ、今しか分からないことは聞く。
ミソラは倉庫前の地面へ、二本の線を引いた。
運ぶ物。
残す物。
その間へ、判断待ちの物を置く。
「三本目?」
迅。
「二択にすると、急いだ人が勝つ」
「敵が戻る」
「だから判断待ちは十分だけ」
「十分で決められない物は」
「残す。期限と理由を付ける」
「置いていく方へ偏ってる」
「荷車が足りない」
「じゃあ、荷車を奪う」
「誰から」
「逃げた車」
「追えば、受領札の人手が減る」
迅は黙った。
「殴って増える荷車もある」
ミソラ。
「でも、運ぶ人が減る」
「俺は減らない」
「眠ってない」
「寝た」
「何時間」
「一時間四十」
「減ってる」
「数字で人を減らすな」
「身体は、言い張ると増えない」
迅は判断待ちの線へ、止血材の小箱を置いた。
「これは」
「中身を確認してから」
「急がない?」
「急ぐ。だから開ける人と持つ人を分ける」
彼は箱を開けずに待った。
殴らないことより、急いでいる時に手を止める方が難しい。
十分後。
運ぶ側へ、医療箱七。
残す側へ、乾燥食六、空瓶十一、破損した棚板四。
判断待ち、零。
空欄を残さないために、全部を運んだわけではなかった。
午後五時四十五分。
倉庫襲撃の直後、乾燥豆を拾おうとする者がいた。
車から落ちた箱は割れ、豆は雨水と石粉へ混じっている。
「洗えば食える」
厨房係が膝をつく。
「拾わない」
ミソラ。
「六箱置いていくのに」
「土と燃料が付いた」
「上だけ」
「外見で分けない」
「もったいない」
「そう」
「敵に取られた箱は食べられる」
「盗取として書く」
「落ちた豆は捨てる」
「廃棄として書く」
「書けば戻る?」
「戻らない」
「なら拾う」
厨房係の手が豆へ伸びる。
ミソラは手首を掴まない。
「明日の腹を守りたい?」
「当たり前です」
「今日、腹を壊した人を運ぶ車は増えない」
「でも」
「捨てる量を量る。食べられたはずだと後で言われないよう、石粉と燃料付着を記録する。写真も」
七瀬が近づく。
「手は入れる?」
厨房係は自分の手を見た。
「入れて。拾わなかった手として」
「顔は」
「要らない」
「名前」
「公開しない。厨房記録には入れる」
「受けた」
七瀬は、泥の豆と、豆へ届かなかった手を撮った。
重量、一・八キロ。
少ない。
一・八キロは、撤退全体を左右しない。
だからこそ、捨てた人間には重い。
迅が、割れた箱板を拾った。
「これは使える」
「何に」
「担架の背板」
「釘を抜いて、角を削って」
「食べ物の箱を医療に」
「医療箱を運ぶために食料を置いた。箱板まで置く理由はない」
「きれいに言う」
「汚れてる。洗って」
迅は井戸水を使おうとした。
「飲用じゃない洗浄水」
「同じ透明」
「透明は用途じゃない」
「今日、正しい人が多い」
「昨日から」
「明日は減る?」
「疲れるから増える」
「逆じゃない?」
「疲れると、確認が要る」
迅は板を洗い、轟が角を削った。
倉庫係を載せる布担架の下へ差し、胸が沈まない幅に固定する。
食料箱だった板は、医療搬送の一部になった。
豆は戻らない。
用途だけが、別の物へ移った。
午後六時二十一分。
野戦厨房から煙は出ていなかった。
代わりに、冷たい穀物餅の包みが三本の道へ分けられている。
残置物一覧には、乾燥食六箱。
盗取一箱。
落下散乱、重量未計測。
追撃班の負傷者一、手首捻挫疑い。
青石台側、重傷一。
軽中等傷五。
新規死亡、零。
ミソラは一覧へ署名した。
痛みは消えていない。
良くなったとも、悪くなったとも決めない。
「十一分」
サナが言った。
「さっき休んだ」
「四時間前」
「三時間二十二分」
「数えられるなら休めるね」
ミソラは椅子へ座った。
冷たい餅を一口噛む。
固い。
温かい食事を諦めたことは、英雄的ではない。
ただ、湯気の立たない夕方に、敵へ見つからず食べ終えた人がいた。
それだけは、一覧のどこにも書けなかった。