第279話 第六章「橋を残す」前編
五月二十四日 午後七時二十二分
橋を落とすのは簡単だった。
伏見轟は、簡単な案から先に疑う。
石樋橋の中央へ、爆薬箱が三つ置かれていた。
古い石造橋。全長二十八メートル。幅四・六。下は細い谷川で、雨が強くなると一時間で水位が腰まで上がる。北医療路の車両が通り、青石台へ残る人間が井戸と市場を行き来する道でもある。
橋脚の根元には、三世代ぶんの補修跡があった。
古い石。
新しい石。
金属帯。
樹脂注入。
壊すなら、二分。
同じ橋を作り直すなら、二年では足りない。
「撤退定石だ」
天環外環隊の爆破係が言った。
「最終車両通過後に中央径間を落とす。追撃車は止まる」
「歩く人も止まる」
轟。
「残留者には南の迂回路がある」
「四キロ増える」
「敵に使わせるよりましだ」
「誰にとって」
「撤退する側にとって」
「残る側は」
「やむを得ない」
轟は爆薬箱の蓋へ手を置いた。
開けない。
「やむを得んで橋が戻るか」
「では、あなたが殿をする?」
「橋を残す」
「両方はできない」
「できる形を作る」
「時間は」
真壁梓が二つの時計を見る。
「追撃先遣、最短で二十時十六分。医療第一車、二十時四十分通過予定。障害完成に使えるのは五十四分。ただし敵が早まれば短縮」
「資材」
轟。
「採石場の回転台、鉄枕木十二、荷車軸二、巻上げ機一」
「人手」
「橋守七、工兵四、住民作業員九。左肩を使わないあなた一」
梓は最後を平坦に言った。
「分かっとる」
「確認です」
「毎回言うな」
「毎回守れば、言う回数は減ります」
「減っとらん」
「十一回目の確認ですから」
「数えとったのか」
「守られなかった確認だけです」
七瀬が撮っていなかったので、言い間違いは記録に残らなかった。
轟は橋面へ白墨で四角を描いた。
「ここへ回転台を埋める。鉄枕木を扇形に組む。普段は橋側へ畳む。追撃車が来たら、重りを落として道を斜めに塞ぐ」
「爆破より遅い」
「戻せる」
「敵も戻せる」
由良が言った。
赤索を橋の欄干へ結び、谷の風を測っている。
「そうだ」
轟。
「戻すのに何分」
「構造を知っとる者で八分。知らん者なら二十分以上」
「二十分しか稼げない」
「二十分を何に使う」
迅が近くにいないのに、由良は彼の質問を使った。
「医療車を料金所の屋根へ入れる。西隊の尾を採石曲路へ隠す。南隊が梯子を上り切る」
「足りる」
「足りる形へ時刻を合わせる」
由良は橋の向こうを見た。
「でも、敵にも橋を残す。青石台へ戻れる」
「残る診療点にも来る」
「兵も」
「負傷者なら治療する」
「武装してたら」
「橋の向こうで止める」
「ずっと?」
「ずっとは無理だ」
轟は、言いにくいことを短くしなかった。
「この障害は二十数分。橋守の常駐は五月三十一日正午まで。撤去期限は六月七日正午。管理が続かん時は開放する。橋を永久の防壁にはせん」
「敵へ説明する?」
「標板を付ける」
「親切」
「罠にせんためだ」
「敵に解除法まで」
「解除法は書かん。可逆障害、管理者、撤去期限、歩行者通路だけ書く」
由良はしばらく考えた。
「橋を残すのは、敵へ利を渡す」
「そうだ」
「帰る人へも」
「そうだ」
「どっちのためって聞かれたら」
「橋のためじゃない。使う人のためだ」
「名言みたい」
「構造説明だ」
由良は赤索を解いた。
「記録して。敵にも利があると知って、私は同意した」
七瀬が記録盤へ時刻を刻む。
「十九時二十九分。鷹取由良、橋の非破壊と可逆障害へ同意。敵側利用可能性を認識」
「轟も」
「伏見轟、設計・施工責任。左肩使用制限あり」
「最後は要らん」
「必要」
橋を残すかどうかを決める席に、橋を使う人がいなかった。
轟がそれに気づいたのは、回転台の寸法を測り終えた後だった。
「誰が毎日渡る」
真壁梓が名簿をめくる。
「青石台側の橋守七。井戸番二。市場へ出る住民、平常時で一日二十から三十。残置診療点の往復は未定」
「呼ぶ」
「時間は四十六分」
「四十六分ある」
「作業時間が減ります」
「後で止められるより短い」
橋守の年長者は、右手の中指が第一関節からなかった。
採石機の巻上げ事故で失ったという。
彼は爆薬箱を一度見て、回転台の白墨図を踏まないようにしゃがんだ。
「車は止まる」
轟。
「人は」
「九十センチ残す」
「荷車は」
「小型なら、荷を下ろして押せる」
「棺は」
誰も、すぐに答えなかった。
橋守は続ける。
「この辺じゃ、棺も荷車で運ぶ」
「幅、七十四」
轟が言う。
「取手を入れて八十六。通る」
「担ぎ手が横へ入れない」
「一人ずつ。橋上で持ち替える」
「雨の日は」
「滑る」
「そこまで分かってて、残す?」
「落とせば通らん」
「残せば敵も通る」
「そうだ」
橋守は、残りの指で石を叩いた。
「敵を通すための橋だって言われる」
「言われる」
「説明するのは誰」
「設計した俺」
「撤退した後に?」
轟は答えを止めた。
設計者が帰れば、橋を使う人が説明を背負う。
壊さない決断をした英雄は去り、敵へ道を残した住民だけが残る。
「標板へ俺の名を書く」
「名を書けば、あんたが毎日来る?」
「来ん」
「じゃあ足りない」
橋守は、欠けた指を白墨図へ置いた。
「管理者を一人にするな。朝は私。昼は井戸番。夜は橋守二人。開ける判断も、閉じる判断も、一人でしない」
「敵が来たら相談する時間はない」
由良。
「閉じるのは担当一人でいい。閉じた後、理由を二人へ戻す」
「解除は」
「二人。負傷者が通るなら医療一人を足す」
「管理不能時」
「開ける」
「敵が得する」
「誰も管理できない罠を残す方が嫌だ」
由良は橋守の顔を見た。
「剛嶺側の兵が来ても?」
「兵でも人でも、車は止める。歩くなら武器を置かせる。置かないなら北詰めへ入れない」
「天環側なら」
「同じ」
「本当に?」
「本当にできるかは、その時の私が決める」
橋守は、正しい自分を予約しなかった。
由良が赤索を指へ巻く。
「私は、敵にも使える橋を残すことへ同意する。敵にも使えるって文を消さない」
「俺も」
橋守。
「私は、暮らしに要るから残す。敵を通したいわけじゃない。でも、敵に使われる可能性を知らなかったことにはしない」
七瀬は二人の顔を撮らなかった。
白墨図。
欠けた指の影。
赤索の端。
署名の範囲だけを記録する。
非破壊は、善人の選ぶ答えではない。
壊さないことで生じる危険を、残る人へ黙って渡さない選択だった。
午後七時三十七分。
橋を使う人間を、図面の外へ置くと、図面はよくできる。
守屋峻は、橋の南詰めへ三脚椅子を置いた。
右足の短下肢装具を外さない。濡れた石へ座ると、立つ時に足首を捻る。座ることを甘えだと思っていた時期は、二度目の手術までだった。
「通行試験をする」
轟。
「完成前に?」
爆破係。
「完成してから通れんと分かるより早い」
「医療車の寸法は測った」
「車だけが橋を使うんじゃない」
守屋が呼んだのは四人だった。
手押し車で水を運ぶ女。
幅の広い車椅子を使う男。
山羊を二頭連れた少年。
竹竿を担ぐ屋根職人。
「何の冗談だ」
爆破係。
「生活」
守屋。
「撤退戦だぞ」
「撤退後も橋は橋だ」
水運びの女が、まだ固定されていない鉄枕木を見た。
「これ、毎日閉まるの」
「追撃時だけ」
「誰が決める」
「橋守」
「橋守が寝てたら」
「閉めない」
「敵が来たら」
「警報後、確認して閉める」
「敵って誰」
轟は答えなかった。
守屋が答える。
「車両で追撃する者。歩く者は、武器を預ければ通行できる幅を残す」
「私の水車は?」
「一輪ずつ」
「水がこぼれる」
「何割」
「やれば分かる」
女は手押し車を押した。
九十センチの通行帯へ右輪を入れ、左輪を鉄枕木の低い隙間へ通す。
車体が傾く。
樽から水がこぼれた。
「八分の一」
女。
「多い」
轟。
「毎日なら一週間で樽一つ」
「通行帯を百五センチへ」
「車椅子は」
男が自分で進む。
前輪が木栓の突起へ当たった。
止まる。
「ここ」
轟はしゃがんだ。
左肩を使わず、右手で突起を触る。
「削る」
「削ると木栓が抜けやすくなる」
守屋。
「木栓の位置を三センチ外へ」
「回転台の荷重線から外れる」
「じゃあ突起へ斜板」
「濡れると滑る」
「粗くする」
「車輪が噛む」
「交換式」
「何日」
「今作る」
屋根職人が竹竿を地面へ置いた。
「竹を割る。表を上にすれば滑る。裏を上にして節を一つ残せば、足は止まるが車輪は越える」
「持ち主」
真琴。
「俺」
「切断への同意」
「橋が残るなら」
「代替材の返却は」
「屋根を葺く前まで」
「期限がない」
「次の雨季前」
「六月七日までに同径の竹を返す。難しい場合は作業賃で精算」
「細かいな」
「橋は細かいところから落ちます」
守屋が言った。
「人も」
轟が続けた。
屋根職人は竹を割った。
車椅子の前輪が、今度は越える。
山羊は鉄枕木を嫌がった。
一頭が立ち止まり、もう一頭が後ろから頭をぶつける。
「山羊は武装してる?」
タマキ。
「角は預けられない」
少年。
「目的」
「向こうの草場」
「受取人」
「山羊」
「本人確認は」
「鳴く」
山羊が鳴いた。
由良が笑った。
「受領」
「勝手に決めるな」
タマキは真面目だった。
少年は、山羊の目を布で隠した。
鉄枕木を見なければ、一頭ずつ通った。
「標板へ追加」
守屋。
《家畜は一頭ずつ。驚く場合は視界を狭める。角を引かない》
「敵へそこまで教えるのか」
爆破係。
「敵が山羊を連れて来るなら、山羊に罪はない」
由良。
「冗談か」
「半分」
通行試験は十一分遅れた。
その十一分で、通れる者が増えた。
時間は、早くするためだけに使うものではなかった。
回転台は、元は採石場で荷車の向きを変えるためのものだった。
直径二・二メートル。錆びた円盤。橋の石板三枚を外し、その下へ軸を据える。
轟は左腕を肩より上へ上げない。
右手で鉄棒を押す。
腰で荷重を受ける。
橋守二人へ声を掛け、同時に持ち上げる。
「三、二、一」
「一で持つ?」
作業員。
「一の後」
「普通は一で」
「普通に合わせる。三、二、一、持て」
石板が浮く。
轟の声は遅いが、遅い声へ人が揃う。
昔の彼は、一人で持てる物まで一人で持った。
今は、持てないことを隠さない。
「右が二センチ高い」
「轟さんの右?」
「橋の北を上とする。北東が二センチ高い」
「最初に言って」
「今言った」
「持つ前に」
「次から」
作業員が笑った。
笑う余裕は、作業時間を一分延ばす。
轟は止めなかった。
急ぐ現場ほど、声を出せる人間が必要だ。
回転台へ鉄枕木を放射状に固定する。一端は鈍い楔。車輪を破裂させず、車体を進めなくする角度。歩行者の幅を九十センチ残す。小型荷車は、一輪ずつ通せる。
重りには、爆薬箱の代わりに石を入れた。
「爆薬を使わないのに箱を使う?」
タマキ。
「水に強い」
「爆薬って書いてある」
「消す」
「消した跡が怖い」
「《石・百二十キロ》と書け」
「中身を見てから」
タマキは箱を開けた。
石を一つずつ数える。
「三十一個」
「重量は」
「百十九・六」
「四百グラム足りん」
「濡れた布を入れる?」
「乾いたら減る」
「釘」
「後で使う」
「豆」
「食料」
迅がいれば、石を一つ割ったかもしれない。
轟は橋の欠けた補修片を拾った。
「これが四百二十」
「橋を壊した?」
「落ちてた」
「誰が確認」
「俺」
「一人」
由良が橋脚の古い写真と見比べた。
「前から欠けてる」
「二人」
タマキは箱へ入れた。
「百二十・〇二」
「二十グラム多い」
「誤差」
「誰の」
「秤の」
「秤に署名させるか」
「轟がして」
轟は箱へ名前を書いた。
回転台を据える前に、橋の荷重を測った。
人を並べる案を轟は却下した。
「落ちた時に、測定が事故になる」
代わりに、砂袋を使う。
五十キロを四十袋。
二トン。
橋の中央へ一袋ずつ置き、石継ぎの開きを薄い金属片で測る。
「〇・三」
橋守。
「次」
「〇・五」
「次」
「〇・八」
真壁が時計を見る。
「追撃予測まで三十八分」
「次」
「まだ載せる?」
「医療車はもっと重い」
砂袋を二列へ分ける。
轟は左肩を使わず、袋の口を右手で押すだけにした。
持ち上げるのは作業員二人。
「自分でやった方が早い顔」
七瀬。
「顔で荷重は分からん」
「顔で焦りは分かります」
「記録するな」
「撮ってません」
「なら言うな」
「言わないと、左手が出る」
轟の左指は、もう袋の縁へ触れていた。
彼は手を離す。
「出た」
「触れただけだ」
「持つ前です」
「持たん」
「確認」
「毎回――」
轟は言葉を飲んだ。
「受けた」
七瀬は、そこを撮らなかった。
負傷を守る人間が、守られた瞬間を見世物にしない。
四十八袋目で、橋の南側継ぎ目が一・二ミリ開いた。
「止める」
轟。
「耐えるのでは」
爆破係。
「耐えると、安全は違う」
「医療車は通すんだろ」
「一台ずつ。中央で止めん。車間を二十メートル」
「追撃中に、そんな丁寧に」
「丁寧じゃない。速度管理だ」
「車が止まったら」
「次を橋へ入れん」
「敵が来たら」
「障害を半閉じ。患者は人で渡す」
「最悪だ」
「最悪の中で、橋を落とさない条件を作っとる」
轟は、橋面へ新しい線を引いた。
《車両停止禁止区間》
その文字を、橋守の少年が読んだ。
「止まったら、罰?」
「罰より先に、車を出す」
「運転手が倒れたら」
「同乗者が制動。できなければ輪止めを外から入れる」
「外から入る人、轢かれる」
「だから速度を落とす」
「遅いと敵が来る」
「そうだ」
「全部は無理」
「そうだ」
少年は、轟が否定しないことに少し驚いた。
「じゃあ、何を諦める」
「車間の速さ。荷の一部。俺が一人でやること」
「最後のは、諦めるもの?」
「難しいぞ」
轟は少年へ物差しを渡した。
「継ぎ目を読め」
「俺が?」
「おまえが残る橋だ」
「数字、間違えたら」
「俺が確認する」
「轟が帰った後」
「橋守が二人で読む」
「二人とも間違えたら」
「車を止める。分からん時に通すな」
「それで怒られたら」
「怒った奴の名を聞け」
少年は物差しを継ぎ目へ当てた。
「〇・六」
「もう一度」
「〇・七」
「目を水平に」
「〇・六」
「受けた」
測る仕事が、一人から二人へ移った。
轟の仕事は減っていない。
橋を離れた後も続けられる形へ変わった。
追撃が来る直前、回転台の重りが一度、落ちなかった。
綱は引かれている。
滑車も回る。
鉄枕木だけが十五度で止まる。
「石を噛んだ」
橋守の少年が、台の下へ潜ろうとした。
轟は外套の襟を掴んで止める。
「入るな」
「取れる」
「重りが落ちたら、頭が取れる」
「じゃあ誰が」
「重りを戻す」
「時間がない」
真壁の右時計。
「先遣予測まで六分」
左時計。
「自分の感覚では三分二十三秒」
「役に立たん時計だ」
轟。
「焦りの補正には」
「余計焦る」
由良が回転台の反対側へ伏せた。
「見える。楔石、拳二つ。泥で奥へ入った」
「赤索で引けるか」
「索を軸へ通せば」
「軸へ巻くな。傷が入る」
「じゃあ、どこ」
「交換木栓」
「壊していい場所?」
「そのために目立たせた」
由良は赤索の鉤を、交換木栓へ掛けた。
轟は巻上げ機の荷重を半分抜く。
橋守二人が重りを支える。
少年は台の下へ入らず、横から木栓の動きを読む。
「一センチ」
「まだ」
「二」
「由良、引くな」
「引いてない。泥が戻す」
「巻上げ、右へ三」
「右って橋の?」
「北を向いて右!」
「作業する人は南向き!」
七瀬が言う。
「方角で」
「東へ三!」
巻上げ機が三センチ動く。
楔石が見えた。
少年が鉄鉤を入れる。
「手を出すな」
「鉤だけ」
「長さ」
「六十」
「足りる」
石が転がり出た。
その瞬間、重りが落ちかける。
橋守二人の腕が伸びる。
由良が索を離す。
轟は左腕を出さない。
右足で補助止めを踏む。
回転台が、低い音を立てて止まった。
誰も潰れない。
少年は泥だらけの石を拾い上げた。
「これ、敵が入れた?」
鷺沼廉が橋面の泥と石を見た。
「分からない」
「形が楔みたい」
「川の丸石じゃない。採石場の割れ石。でも作業中に靴で入れた可能性もある」
「敵の妨害って記録しない?」
「証拠がない」
「味方の失敗って」
「それも証拠がない」
「じゃあ何」
「楔石混入。発見時刻。除去者。動作再確認」
鷺沼は石へ印を付け、袋へ入れた。
「犯人がいないと、話が弱い」
少年。
「橋は話で動かない」
鷺沼。
「でも、後で誰かのせいにされる」
「だから、分からないを残す」
遠くで車軸音がした。
真壁が右時計を上げる。
「先遣、予測より四分早い」
「動作試験」
轟。
重りを四分の一。
鉄枕木が開く。
戻す。
半分。
十五度。
全量。
車両路を塞ぐ。
「通る」
少年が歩行者幅を走った。
「走るな!」
橋守の年長者。
「試験!」
「雨で滑る!」
少年は速度を落とした。
試験は、できることを見せるためではない。
できない速度を覚えるためにある。