第280話 第六章「橋を残す」後編
最初の偵察車が曲路へ現れた。
回転台は、壊さずに閉じた。
午後七時五十八分。
障害の試験をするには、障害を閉めなければならない。
閉めると、その瞬間だけ橋が使えない。
北医療路から、予定にない担架が一台来た。
老人が横たわり、孫らしい女が付き添っている。呼吸は安定。腹部痛。青石台の診療棟では検査できない。
「二分待って」
守屋が言った。
「二分なら」
付き添いの女は頷きかけた。
老人が首を振った。
「私は待つと言ってない」
声は弱い。
ミソラが担架の横へしゃがむ。
「待つと、障害試験が終わる。今通すと、試験を中止して障害を開ける。次の閉鎖確認が遅れる」
「私が通れば、追って来る車も通る?」
「今は見えていない」
「二分で悪くなる?」
「可能性は低い。零ではない」
「じゃあ待つ」
「付き添いの判断ではなく?」
「私の」
「受けた」
女が訊いた。
「待たせたせいで何かあったら、誰の責任」
「私が医療判断へ署名する」
ミソラ。
「橋の試験は俺」
守屋。
「二人で半分ずつ?」
「違う」
真琴が言った。
「医療上、二分待てると判断した責任は時雨。橋を二分閉める必要を判断した責任は守屋。どちらか一人が全部を負うと、次に同じ場面で必要な判断が消えます」
「老人本人は」
「待つ選択をした。悪化の責任を本人へ押しつける意味ではありません」
「難しい」
「難しいまま書く」
障害が閉まる。
重りが落ち、鉄枕木が扇に開く。
守屋は右足を白線へ置き、車両幅を測る。跳ばない。装具の金属が石へ当たって鳴る。
「北東、二センチ浮き」
轟。
「さっきも」
「回転軸の座りが悪い」
「石板を外す?」
「時間がない」
「楔」
「戻せる物で」
屋根職人の竹片を二枚重ねる。
重りを上げる。
障害が戻る。
「一分四十八」
真壁。
「通す」
担架が橋へ入る。
老人は閉じた障害を横目で見た。
「壊さないのか」
「壊す案はありました」
守屋。
「なぜやめた」
「あなたが戻るかもしれない」
「戻らないかもしれない」
「それでも橋は、あなた一人の決心より長く残る」
「私のためじゃないのか」
「あなたも含む」
老人は鼻で笑った。
「橋に好かれても、礼は言えん」
「橋は聞いとらん」
轟。
担架が北詰めへ渡る。
予定外の通行は、障害設置を三分二十秒遅らせた。
守屋は時刻を消さず、横へ新しい完成予定を書いた。
遅れは失敗だった。
待てると決めた人がいて、待たせた責任者がいて、渡った人がいた。
それを成功と呼ぶ必要もなかった。
午後八時十一分。
雨が降り始めた。
最初は、橋の石へ黒い点を作る程度。
三分後には、白墨の線が流れた。
「先遣車、見えた!」
南側の見張りが叫ぶ。
予定より五分早い。
橋面の回転障害は、まだ固定ピンが一本入っていない。
「医療車は」
「第一、北詰めまで二分!」
真壁の声が伝令管から返る。
「障害を閉じるな」
轟。
「敵が先に来る」
「医療車を通す」
「追撃車も入る!」
「橋上で止める!」
敵車は一台。
軽い偵察車。前面へ鉄板。荷台に四人。
橋へ入れば、後ろから医療車と挟まる。
爆破係が起爆器を握った。
「まだ置いていたのか」
轟。
「最終手段だ」
「線を切れ」
「敵車が橋へ入る!」
「医療車も入る!」
「だから落とす!」
轟は起爆器を奪わなかった。
奪えば、爆破係の判断を力で消す。
「爆破範囲に医療車が入る。今押せば、誰を落とす」
男の指が止まった。
「敵を止める」
「患者も止まる。永遠に」
「ではどうする!」
「線を切れ。おまえが」
敵車が橋へ入った。
轟は中央へ走った。
左肩を上げない走りは、巨体の均衡を崩す。右腕を大きく振り、腰を落とす。
偵察車の運転手が速度を上げた。
轟へぶつけるつもりではない。
橋を抜けるつもりだ。
その合理性が、かえって危険だった。
轟は回転台の仮レバーへ右足を掛けた。
「重り、半分!」
タマキと橋守が綱を引く。
鉄枕木が、完全には閉じず、十五度だけ回る。
偵察車の左前輪が楔へ乗った。
破裂しない。
車体が斜めに持ち上がる。
運転手が反射的に右へ切った。
橋の欄干が近づく。
「戻せ!」
轟は車体側面へ右肩を当てた。
押し返すのではない。
欄干へ向かう横荷重を、回転台の中心へ流す。
轟の安全靴が濡れた石を滑る。
左肩が反射で上がりかける。
上げない。
右肘、背中、腰、橋面。
衝撃を一人の関節へ集めない。
車は欄干の手前で止まった。
運転手の胸が操舵輪へ当たり、呼吸が詰まる。意識はある。自分で制動を握り直そうとしたが、右腕が途中で落ちた。吸う息だけが短い。
荷台の四人が飛び降りる。
棒と短斧。
橋守の一人が、荷台に残った巻上げ索を外そうと車体へ上がった。索が回転台へ噛めば、障害ごと欄干を引く。
「上がるな!」
轟の声と同時に、左前輪が楔から半分落ちた。
車体が右へ揺れる。
橋守は荷台の縁を掴み損ね、腰から橋面へ落ちた。
高さは一・四メートル。
落下先は石。
右腰が先に当たり、脚が開いたまま止まる。
「動かすな!」
ミソラの声が北詰めから飛ぶ。
「落下者、意識あり。骨盤の不安定なし。右腰部打撲、軽中等傷へ入れる。車両の陰から先に出す!」
橋守二人が、車体を盾にしながら布担架を滑らせる。
ミソラは次に運転席へ手を入れた。胸骨の左脇へ触れた運転手が、息を吸うたび顔をしかめる。
「運転手、重傷一。肋骨骨折と肺挫傷を疑う。所属は後。治療を受けるか」
運転手は二度うなずいた。
「受領。呼吸を優先。座位のまま固定して北詰めへ」
残る橋守が迎えようとする。
「橋脚へ打たせるな!」
轟が言った。
斧の一人が、轟ではなく回転軸へ向かった。
正しい。
障害を壊せば車が通る。
轟は相手の腕を掴まない。左肩を巻き込むからだ。短斧の柄へ右前腕を添え、振り下ろす方向を横へずらす。
刃が石へ当たる前に、木製の仮受けへ食い込む。
「そこは交換できる」
轟が言う。
「何の話だ!」
「壊す場所の話だ」
膝で相手の腿を押し、橋面へ伏せさせる。
二人目は鉄棒を振る。
由良の赤索が手首へ巻き、軌道を欄干の外へ逃がした。
「橋に当てるな」
「敵に注文するな!」
「じゃあ、あなたに注文。落ちないで」
由良は索を引きすぎない。
相手を谷へ落とせば、追撃は止まる。
人も戻らない。
三人目と四人目が歩行者幅へ入る。
巌門が立った。
誓痕〈ヴァウ・スカー〉はない。
石灰色の外套を脱ぎ、細い通路へ横向きに入る。巨体を正面にすれば道を塞ぎすぎる。負傷者を通す九十センチを残す。
「通行は止めない」
「どけ!」
「武器を置けば通す」
「敵へ道を開けるのか」
「歩行者へだ」
一人が突く。
巌門は棒を受けず、半歩回って肩を外す。相手の勢いを鉄枕木の間へ落とし、足首を挟まない位置で止める。
「我が――」
言いかけ、直す。
「この橋では、落とさない」
北側から警笛。
医療車が来た。
「開けろ!」
轟。
敵四人は橋上にいる。
障害を畳めば、偵察車も動ける。
畳まなければ、医療車が通れない。
爆破係が切断した導線を握っていた。
「俺が車を止める!」
「誰の命令で」
真壁梓が北詰めへ到着した。
「自分の判断だ!」
「名前」
男は一瞬詰まった。
名札は裏返していない。
「外環工兵、二班。爆破担当」
「個人名」
彼は自分の名を言った。
七瀬は、公開しない記録へ入れた。
「受領。爆破担当が導線を切断し、偵察車の再始動監視を引き受ける」
轟は回転台を戻した。
医療車が、斜めに止まった偵察車の横を十センチずつ抜ける。
患者の顔は見えない。
丸札だけが窓へ下がっている。
一台。
二台。
三台。
六十四人の第一陣。
最後の車が抜けた後、轟は重りを全落下させた。
鉄枕木が扇形に閉じる。
追撃車の車輪は通れない。
人は通れる。
担架も、二人で持ち上げれば通れる。
敵の運転手は、ミソラの方へ運ばれた。
橋上の四人は、武器を置いた者から北詰めへ座らせる。抵抗した二人は打撲。落下した一人を含む橋守側四人にも、打撲と捻挫。
運転手の重傷は別に数える。
この橋での軽中等傷、六。
新規死亡、零。
医療車が渡り終えた後、橋を守った人間は、橋を所有しなかった。
真琴が、管理札を四枚へ分ける。
《閉鎖判断》
《開放判断》
《負傷者通行》
《撤去・延長》
「四枚も要る?」
橋守の年長者。
「一枚だと、閉じた人が延長まで決められます」
「閉じた人が一番事情を知ってる」
「閉じた時の事情を」
「次の日は違う」
「そうです」
轟が標板の裏へ、交換部品の場所を書いた。
木栓六。
予備綱二。
油一瓶。
物差し二。
「油は敵にも使われる」
由良。
「錆びれば、住民も使えん」
「隠す?」
「場所は管理札だけ」
「管理札を奪われたら」
「橋守が知っとる」
「橋守が捕まったら」
「そこまで全部、仕組みで防げん」
轟は言い切った。
「できんことを、できる顔で渡す方が危ない」
巌門が、武器を置いた追撃兵二人の拘束を確認した。
「彼らは北へ移す」
「橋を渡す?」
由良。
「歩いて」
「敵を自分の橋で逃がすって言われる」
「治療と個別確認へ移す」
「逃がすんじゃない?」
「拘束は続く」
「武器は」
「別便」
「戻す?」
「本人確認と審理の後」
「敵の武器まで帰路がある」
巌門は石灰色の外套を着直した。
「我が――」
言い直す。
「この区間で預かった物には、返すか処分を決める責任がある」
爆破係が、切断した導線を二本まとめた。
「これも返す?」
真琴。
「俺が持つ」
「何のため」
「切った証拠」
「爆破を実行しなかった証拠ですか」
「実行できたのに、しなかった」
「自慢?」
「次に、命令が出た時の説明」
「次を予告しないでください」
「作業の話だ」
「保管期限」
「橋の障害撤去まで」
「六月七日正午」
「それ以後は」
「導線を廃棄。起爆器は所属庫へ返す」
男は、自分の名を書いた。
橋を落とさなかった責任は、橋を落とす担当者にも残る。
轟は最後に、回転軸へ耳を当てた。
一定の低音。
金属の擦過音なし。
荷重を抜いた時の戻り、五秒。
「異常」
少年が訊く。
「今はない」
「明日は」
「朝に測れ」
「轟がいない」
「だから測る」
少年は二本の物差しのうち、短い方を取った。
「長い方が正確じゃない?」
「目盛りは同じ」
「短い方が落としにくい」
「受けた」
轟は長い方を工具袋へ戻さず、橋の箱へ置いた。
自分が使いやすい道具を、残る人へ押しつけない。
橋の中央を、最後に歩く。
爆薬の跡はない。
交換木栓には斧傷がある。
欄干には偵察車の鉄板が擦った銀色の線。
壊れなかった橋にも、戦った跡は残る。
跡があるから失敗ではない。
跡を消して安全だったことにする方が、次の人を落とす。
午後八時四十六分。
戦闘が止んでから、轟は最初に橋脚を見た。
倒れた人ではない。
人はミソラと橋守が診ている。
橋脚は、自分が診る。
「冷たい」
由良が言った。
「役割だ」
「分かってる。言ってみただけ」
北東橋脚の金属帯に、細い銀色の筋がある。
新しい傷。
偵察車の横荷重が、欄干から床石へ入り、補修帯まで届いた。
轟は右手の指先で幅を測る。
「〇・六ミリ」
「割れ?」
守屋。
「表面だけかもしれん」
「かもしれないで通す?」
「打音」
轟は小槌を使わない。
戦闘中に落ちた鉄棒を拾い、先端へ布を巻く。
一打。
低い。
二打目。
少し高い。
三打目。
「帯の端が浮いた」
守屋。
「締め直す」
「通行を止める?」
橋の南に、歩く人が四人待っている。
うち一人は、さっき武器を置いた追撃兵だった。手首に布を巻き、北側で治療を受けた後、南へ戻ると言っている。
「五分」
轟。
「待てない人」
守屋が訊く。
四人は互いを見る。
追撃兵が先に言った。
「待つ」
「理由」
「落ちたくない」
「所属は」
「要るか」
「橋の通行には要らん」
「なら言わない」
「受けた」
轟は金属帯のボルトを締める。
左肩を使わない。
右手だけでは回らない。
守屋が反対側を押さえる。
「俺の足に荷重を掛けるな」
「掛けん」
「今、掛かった」
「二キロ」
「一でも掛けるな」
「厳しい」
「橋と足は、壊れてから謝られても戻らない」
轟は姿勢を変えた。
自分の腰で受ける。
ボルトが半回転。
銀色の筋は消えない。
消さない。
日時を白墨で横へ書く。
《五月二十四日 二十時四十八分 偵察車接触後。表面亀裂疑い。締結増し。六月七日まで毎日打音確認》
「敵に弱点を教える」
追撃兵が言った。
「見れば分かる」
轟。
「壊す奴は、ここを打つ」
「修理する奴も、ここを見る」
「どっちを信じる」
「信じん。書く」
追撃兵は傷を見た。
「俺たちが来なければ、傷はなかった」
「そうだ」
「治したんだから、帳消しには」
「ならん」
「治療も受けた」
「受けた」
「おまえら、変だな」
「橋よりは」
「橋も変だ。敵を通す」
「橋は敵を知らん」
五分十二秒後、通行を再開した。
追撃兵は南へ戻る。
武器は北側へ預けたまま。
「返さないのか」
「明日、本人確認と受領者を決めて返す」
「盗む気か」
「武器を持って橋へ戻る理由を訊く」
「返すと言ったら」
「返却時刻と場所を書く」
「面倒だ」
「橋を落とせば簡単だった」
男は何も言わず、歩行者帯を渡った。
竹の斜板を踏み、木栓の横を通る。
山羊より静かだった。
午後九時七分。
標板が橋の両側へ取り付けられた。
《可逆車両障害》
《歩行者・小型手押し車通行可》
《管理責任:青石台橋守交代班》
《撤去期限:六月七日 正午》
《管理不能時:開放》
由良が読んだ。
「敵にも読める」
「読ませる」
轟。
「解除される」
「二十分は稼ぐ」
「その後は」
「橋になる」
轟は爆薬箱から外した起爆器を、持ち主へ返した。
「使わなかった物も、返却を記録する」
真琴が言う。
「誰も褒めんぞ」
「返した物は、拍手しません」
雨は強くなっていた。
橋の中央で、回転台の軸が低く鳴る。
壊れなかった音だった。