第281話 第七章「迅が殴らない日」前編

五月二十五日 午前四時二十八分

 殿は、最後に残る者ではない。

 最後まで残っていい時刻を、先に決められた者だ。

 守屋峻はそう言い、青石台の西門に白い線を引いた。

 乾いた石灰が、夜明け前の地面へ真っ直ぐ伸びる。線の端には時刻が書かれていた。

《西殿 五月三十日 午後五時三十六分まで》

 その横へ、人数。

《八名。西路百七十三名の内数》

 北は二名。

 南は七名。

 全部で十七。

 三百十二人へ足す数字ではない。

 三百十二人の最後に置かれた数字だ。

「俺が西」

 迅は言った。

「外す」

 由良が即答した。

「まだ何も聞いてない」

「聞いた。『俺が西』」

「理由は」

「強い」

「それ、外す理由?」

「一番強い奴を最後に置くと、みんなそいつを待つ」

 由良は地面の白線を靴先で示した。

「負傷者が、迅が来るまで車を出すなと言う。伝令が、迅なら何とかするから変更を戻さなくていいと言う。殿が、迅がいるから五分延ばせると言う。五分が三つ重なって、十五分になる」

「俺が時間を守る」

「守れない。お前がいるだけで、人が時間を使う」

「便利なのに」

「便利なものは、計画を腐らせる」

 守屋が短い物差しを右足の装具へ当て、留め具の緩みを確かめた。

「橋と同じだ」

「俺、橋?」

「荷重が集中する」

「橋よりは動く」

「だから悪い」

 守屋は白線の横へ、もう一本、短い線を足した。

《交代不能時、延長しない》

 迅は線を見た。

「誰か倒れたら」

「前の隊から戻さない」

「じゃあ残す?」

「殿を減らして退く」

「追いつかれる」

「追いつかれない経路へ変える」

「間に合わない」

「だから伝令が要る」

 由良が、油紙の筒を迅の胸へ押しつけた。

 長さは掌一つ半。

 外側に三つの盛り上がりがある。

 北、西、南。

 色ではなく形。

 暗くても、泥がついても、指で分かる。

「お前は殿じゃない」

 由良が言う。

「受領札を走らせる」

「俺じゃなくてもできる」

「できる」

「じゃあ――」

「お前がやる」

「矛盾してる」

「強い奴にしかできない仕事を渡すと、その仕事は強い奴がいない日に消える。誰でもできる仕事を、強い奴がやれば、次の人がやり方を見られる」

「見本?」

「失敗例」

「なんで」

「紙、嫌いだろ」

 迅は筒を見た。

「殴っても返事しない」

「人も、殴ったら大体返事できない」

「由良、今日よく喋る」

「お前がよく間違う」

 風祭澪が、三本の真鍮笛を胸元で揃えた。

「聞け」

 迅は澪の左側へ回った。

 右耳は高い音を拾いにくい。正面から言えば口元が見える。迅は、澪が話す時だけ足を止めた。

「伝令は走るな」

「走る仕事」

「下りだけ速歩。上りは歩幅一定。曲がり角で三秒。分岐で札を触る。戻りは受領者の名を復唱」

「時間かかる」

「迷うより短い」

「敵が来たら」

「札を守る。自分も守る。順番は状況で決めろ」

「命令じゃない」

「命令にすると、紙のために死ぬ」

 澪は低い声で、三つだけ確認した。

「送り主」

「真壁梓」

「受取人」

「北は診療受領台、西は採石所南詰め、南は稜線下の水場」

「目的」

「撤退順の変更と、受領確認の返送」

「行け」

 迅は油紙筒を制服の内側へ差した。

 赤い七つ結びの紐が、右手首で濡れている。

 殿へ残るより、軽い。

 軽いものほど、落とした時に音がしない。

 午前五時三分。

 最初の下りは北医療路だった。

 石段は二百十九段。

 途中、崩落箇所が三つ。

 昨日まで一つだった。

 雨は地形へ追記する。

 迅は上から十五段目で速度を落とした。

 階段の右側に、担架の持ち手が擦れた跡がある。左側には水が流れ、苔が薄く光っていた。真ん中は人が通る。迅は左足を外側へ向け、右足を半段下へ置く。

 走れば四秒縮む。

 滑れば四分止まる。

 澪の言葉を思い出す。

 下りだけ速歩。

「走ってない」

 背後から声がした。

 透子だった。

 黄土色の短い外套。銅色の髪を耳の後ろへ押し込み、胸へ四角札の束を吊っている。

「速い歩き」

「走ってる人はだいたいそう言う」

「追い越す?」

「試験」

「何の」

「紙を濡らさない人が、紙を濡らすか」

「日本語が濡れてる」

「雨だから」

 透子は迅の右側へ並ばない。

 右環指と小指が痺れることを知っている。荷を渡す時は左へ出す。知っていても、気遣いの顔はしない。

「筒、どこ」

「服の中」

「汗で濡れる」

「油紙」

「油紙の外が濡れたら、受領台で手が滑る」

「じゃあ」

「脇じゃなく、背中」

 透子は自分の外套を開き、肩甲骨の間へ通した紐を見せた。筒が縦に固定され、体温は伝わるが汗は直接触れない。

「付ける?」

「自分で」

「右手で?」

 迅は返事をしなかった。

 透子も手を出さない。

 迅は左手で紐をほどき、筒を背へ回した。右手は押さえるだけに使う。小指の先が、濡れた布を自分の皮膚と間違えた。

「何秒」

 透子。

「二十七」

「遅い」

「殴るなら早い」

「紙を殴る?」

「返事しない」

「大体の人も、殴ったら返事できないよ」

「今日二人目」

「正しいことは、人気がある」

 崩落箇所へ着く。

 石段が五段ぶん消えていた。

 幅一・二メートルの溝。底には雨水と、折れた排水管。

 迅は踏切位置を測った。

 飛べる。

 透子が先に、右壁の金具へ短い紐を掛けた。

「跳ばない」

「時間」

「着地で札が浮く」

「浮かない」

「一枚でも?」

 迅は、背中の筒を意識した。

「零枚」

「じゃあ渡る」

 透子は紐へ体重を預けず、手の位置だけを決める。左足を残った段へ、右足を壁の窪みへ。三点で支え、溝を跨いだ。

 迅も同じ動きをした。

 跳べば一秒。

 跨げば四秒。

 四秒で、紙は背中に残った。

 北の受領台は、旧石灰倉庫の軒下にあった。

 ミソラが赤い右手袋と青い左手袋を、別々の釘へ掛けている。

「遅い」

「四十一分」

「予定は三十九」

「崩落増えた」

「何段」

「五」

「通行可?」

「担架は一回下ろす」

「一回じゃ分からない。何メートル」

「一・二。底に管」

「固定できる?」

「轟を呼ぶ」

「轟を呼ぶと、他が止まる」

 ミソラは迅の背から筒を外した。

 右手で触れない。

 左手で油紙の湿りを確かめ、紐の結び目を見る。

「封、無傷」

「受領」

「内容を見る」

 筒を開き、変更札を読む。

《北第一陣出発を午前六時十分から六時二十五分へ変更》

《理由:西路受入点の車輪止め不足。荷車二台を北から転用》

《北の患者搬送能力を減らさない範囲で、空荷車のみ移す》

 ミソラは眉を動かさなかった。

「空荷車二台。介助者は渡さない」

「署名」

「先に確認」

 彼女は受領台の後ろへ声をかけた。

「サナ。六十四の内訳、荷車二台抜いて変わる?」

 阿久津サナが、濡れた名簿をめくらず答えた。

「歩行十六、杖七、車椅子九、担架十二、医療荷十、介助十。空荷二は予備。抜ける。ただし北着後に戻さない」

「戻せない理由」

「上りで追撃時間に入る」

「記録」

 ミソラは受領欄へ、時刻と条件を書いた。

《六時二十五分への変更を受領。空荷車二台の西転用を承認。北路への返却は要求しない》

「返却を要求しない、まで要る?」

 迅。

「後で誰かが『借りた物を戻せ』と言う」

「戻せないのに」

「戻せない時ほど、言う」

 ミソラは札を筒へ戻した。

「受領。復唱」

「北第一陣、六時二十五分。空荷車二台を西へ。北へ返さない」

「誰が決めた」

「時雨ミソラ。阿久津サナが能力確認」

「何時」

「五時五十二分」

「行って」

「休まない?」

「今は休息表の九分目」

「十一分じゃない」

「あと二分で終わる」

「走っていい?」

「上りは一定」

 今日三人目だった。

 往路と復路は、同じ道ではない。

 同じ石段でも、背負っているものが違う。

 行きは命令。

 帰りは、命令が受け取られた証拠。

 迅は上りで速度を上げなかった。

 透子は先に西路へ向かい、別の伝令と交代した。

 交代した少年は、名前を言わなかった。

 胸へ、角の欠けた四角札。

 右の靴紐だけ二重結び。

 声はまだ変わり切っていない。

「呼び方」

 迅が訊く。

「四角で」

「札と同じ」

「なくしたら、俺も探してもらえる」

「名前なら探さない?」

「名前は、勝手に放送される」

「四角は?」

「同じ形が多いから、場所だけ出る」

「賢い?」

「怖い」

「同じ?」

「賢い人は、怖いのを先に数える」

 少年は、迅の背中を見た。

「能力、使わないんですか」

「何に」

「速く戻る」

「俺のは速く走る能力じゃない」

「七歩退いて、一発で戻す」

「説明、雑」

「合ってる?」

「条件が違う」

「じゃあ、敵が来たら」

「敵のせいで退いたか、道のせいで退いたか、俺が間違えたせいで退いたかを先に見る」

「その間に殴られる」

「ある」

「怖くない?」

「怖い」

「すぐ言う」

「賢いから」

 少年が笑った。

「自分で言う人、初めてです」

「四角は、紙をどう守る」

「腹巻き」

「汗」

「筒を二重にする」

「重い」

「なくすより軽い」

 迅は少年の走り方を見る。

 踵を上げすぎない。

 泥を後ろへ飛ばさない。

 角で一度、肩を壁へ寄せる。

 誰かとぶつかっても、胸の札を押し潰さないためだ。

 拳では覚えない技術がある。

 拳を持っていても、習える。

 午前八時十一分。

 通信丘へ戻ると、真壁梓が二つの時計を見ていた。

「受領は何時」

「五時五十二分」

「到着は」

「八時十一分」

「二時間十九分」

「崩落五段」

「報告済み」

「四角が速かった」

「四角?」

「伝令」

「識別符」

 迅は少年の札の欠け方を描いた。

 梓は記録する。

「名を聞かなかった?」

「本人が四角でいいって」

「公開名と実名は分ける。安全台帳には照合番号がある」

「俺は見ていい?」

「必要?」

「今はない」

「では見せない」

 梓は受領札へ右の時計の時刻を押した。

 六十四人の行が、まだ空白のまま並ぶ。

 受領時刻だけが一つ増えた。

「次」

「西」

「変更」

「荷車二台を北から。西第一陣を十五分遅らせる。採石坂の車輪止め確認後」

「送り主」

「守屋」

「受取人」

「西の由良」

「目的」

「百七十三を落とさない」