第282話 第七章「迅が殴らない日」後編
「行け」
迅は水を一口だけ飲んだ。
瀬尾直が瓶を持っていた。
三本。
自分用、他人用、予備。
「もう一口」
「足りる?」
「予備は、使うためにある」
「使ったら予備じゃない」
「使わない予備は、荷物です」
「今日、正しい人多い」
「誰か間違ってるんですか」
「俺」
瀬尾は少し考え、水瓶を迅へ押した。
「自覚があるなら、二口」
西採石路は、雨が降ると道ではなくなる。
石屑の斜面に、人が通った痕だけが残る。
迅は油紙筒を背へ固定し、左手で岩を触った。
表面が剥がれる。
右手で掴めば、力加減が分からない。強く握りすぎるか、抜けるか。だから掌全体ではなく、親指の付け根を当てる。
一歩。
二歩。
三歩。
下から、石が飛んできた。
拳大。
迅は右へ退く。
石は頬を掠め、背後の岩へ当たった。
二つ目。
同じ角度。
迅は左足を引く。
上の尾根に、人影がある。
敵か。
崩落を誘う見張りか。
ただ石を落とした住民か。
三つ目が来る。
迅は斜め下へ退いた。
退いた理由は同じに見える。
だが、石を投げた手は毎回違うかもしれない。
斜面が崩しているだけかもしれない。
暴力の源を、まだ一つにできない。
赤い紐の結び目は、熱を持たなかった。
「迅!」
由良の声。
「右の割れ目!」
迅は割れ目へ足を入れ、上体を伏せた。
石が三つ、背を越える。
尾根の影が動く。
由良の赤索が岩角へ掛かり、彼女自身が斜面を横切って降りてきた。
「伝令を狙ってる」
「俺か、紙か」
「紙。お前なら、殴って止めると思ってる」
「止める」
「その間に別が取る」
「じゃあ走る」
「走るな」
「今日四人目」
「何が」
「走るなって言う」
「人気ある正しさ」
由良は迅の筒を確認した。
「封は」
「無傷」
「下の旧破砕機まで二百十メートル。左壁沿い。石が来たら前へ出ろ」
「退くんじゃなく」
「下へ。伝令の進行方向」
「敵に近づく」
「相手は、お前を止めたい。近づけば投げる角度を失う」
「殴っていい?」
「札を渡してから」
迅は出た。
石が来る。
退かない。
前へ。
斜面の落差を一段ずつ潰す。
石は頭上を越える。二つ目は肩へ当たった。痛い。骨ではなく筋肉。右手は開く。筒は背中。
人影がナイフを抜いた。
刃が小さい。
札の紐を切るための刃だ。
迅は拳を構えず、左前腕を外へ出した。
刃を受けるのではない。
手首の内側へ触れ、肩の向きを変える。
男は斜面で踏ん張れず、膝をついた。
迅は追わない。
旧破砕機の鉄骨をくぐる。
「逃げるのか!」
背後で男が叫ぶ。
「配達中」
「殴れ!」
「料金払った?」
タマキが聞けば、たぶんそう言う。
男は追ってきた。
迅は速度を上げない。
足場の悪い坂で、追う側だけが急ぐ。
三歩後、男の靴底が石屑を滑った。
迅は振り返り、左手で襟を掴む。
落下を止める。
「何で」
「死ぬと、報告が増える」
「敵だぞ」
「名前」
「言うか」
「じゃあ、札を狙った人」
迅は男を平らな場所へ押し戻した。
由良が追いつき、男のナイフを踏んだ。
「拘束する」
「札、先」
「行け」
迅はまた走らない速歩で下った。
西受領点で、由良の副手が変更札を受けた。
本人確認。
時刻。
荷車二台。
車輪止め。
第一陣の遅延。
受領印が押される。
迅は乾くまで待った。
「急いで」
副手が言う。
「滲む」
「風で乾かせ」
「飛ぶ」
「息」
「唾つく」
「面倒だな」
「正しい方」
「誰に習った」
「面倒な人」
印が乾く。
迅は札を油紙へ戻し、筒の紐を二重にする。
四角の少年が、次の筒を持って立っていた。
「南への変更です」
「俺が持つ」
「あなたは西の受領を戻す」
「途中で交換」
「混ざる」
「形、違う」
「疲れてると、指は嘘をつく」
少年は三角の盛り上がりを迅へ触らせた。
「これは南。あなたは西の二つ山」
「分かる」
「目を閉じて」
迅は閉じた。
少年が二本の筒を入れ替える。
迅は一本目を触る。
「南」
「次」
「西」
「もう一回」
「南」
「合格」
「料金」
「タマキさんに払って」
「さん付け」
「怖いから」
「賢い」
少年は笑い、南路へ向かった。
迅は西の受領を背負い、上る。
午前九時二十六分。
四往復目の前に、透子が迅の内ポケットを指した。
「そこ、受領札じゃないよね」
「手紙」
「何通」
「三」
「濡れたら」
「俺の」
「受領札が濡れなくても、内側から水が回る」
迅は三通を取り出した。
同じ筆跡。
母から。
封は切っていない。
「預かる?」
透子。
「読まない?」
「読まない」
「じゃあ、何で持つの」
「捨ててないから」
「配達先は」
「俺」
「受領は」
「まだ」
「変」
「知ってる」
透子は油紙を一枚出した。
「公用札と私信を同じ防水袋へ入れない。どっちが先か分からなくなる」
「俺は分かる」
「倒れた人は分からない」
「倒れない」
「それ、真琴に言った?」
「言った」
「怒られた?」
「長かった」
「じゃあ、学んで」
透子は三通を細い袋へ入れた。
《私信・未開封・本人受領前》
「大げさ」
「迅が倒れた時、誰かが撤退命令だと思って開けたら困る」
「字が違う」
「雨で滲んだら」
「読めない」
「読めないから開ける人もいる」
迅は袋を受け取った。
受領札は右脇。
私信は左内ポケット。
近い。
混ぜない。
「手紙と命令、どっちが重い?」
透子。
「命令」
「今?」
「今」
「後で変わる?」
「読むまで分からない」
「読んだら」
「もっと分からないかも」
「大人」
「悪口?」
「状態」
瀬尾が三本の水瓶を抱えて通りかかった。
「伝令は、人の手紙を読まない方がいいです」
「経験?」
迅。
「僕は読んでない。読まされたことがある」
「誰に」
「上官に。家族からの手紙だと言われて開けたら、出頭命令でした」
「家族じゃない」
「封筒は家族の物でした。中身だけ差し替えられた」
「見抜けた?」
「無理でした」
「今なら」
「送り主へ返す経路を先に確認する」
「返せなかったら」
「開けない」
「命令だったら」
「届かない命令を、家族の声で届かせる方が悪い」
瀬尾は同じ言葉を、もう一度言った。
「家族の声で届かせる方が悪い」
緊張すると反復する。
迅は三通の端を触った。
「これは本物」
「確認した?」
「筆跡」
「返事の道は」
「ない」
「じゃあ、開ける時は、自分で決める」
「瀬尾、賢い」
「怖いだけです」
「同じって言われた」
「誰に」
「透子」
「子どもに?」
「十四」
「僕より賢い」
「年齢で逃げるな」
透子が言う。
瀬尾は水瓶を一本迅へ渡した。
「一口」
「二口じゃない?」
「さっき二口。今は一」
「覚えてる」
「水は命令より数えやすい」
迅は一口だけ飲んだ。
伝令の仕事は、速く行くことではない。
持っていない物まで届けたことにしないことだ。
午前十一時四分。
南路へ出す変更札の封が、片側だけ浮いていた。
「このまま行く」
若い伝令兵が言った。
「中は濡れてない」
迅は封を見た。
「戻す」
「二分遅れる」
「受けた人が、途中で開いたって言われる」
「俺が見た」
「誰へ返す」
「透子」
「何のため」
「封を直す」
「行け」
伝令兵は動かない。
「迅なら、そのまま敵を殴って通ると思ってた」
「封は殴って直らない」
「能力で時間を稼げる」
「何に使う」
「届ける」
「誰が封を開けたか分からない札を?」
「中身は正しい」
「正しい中身を、間違った形で届けると、後で中身まで疑われる」
「面倒」
「俺もそう思う」
「じゃあ」
「思うのと、やるのは違う」
伝令兵は札を持って戻った。
二分四十秒後、新しい封で出発する。
途中、通信丘から出発時刻の変更が来た。
遅れは、なくなった。
「ほら」
伝令兵が言う。
「戻って正解だった」
「変更がなかったら?」
「遅れた」
「それでも戻す」
「正解じゃなくても?」
「次に戻せる」
迅は自分で言い、少し嫌な顔をした。
「真琴みたい」
「嫌い?」
「長い」
「今のは短い」
「悪化してる」
若い伝令兵は笑い、南路へ下った。
封を直した二分四十秒は、誰にも褒められなかった。
褒められない時間ほど、後で説明できる形にしておく必要がある。
午後一時四十八分。
三往復目で、右の小指が筒の紐を感じなくなった。
あるのは見える。
触れているのも分かる。
だが、強さが分からない。
迅は左手で結び直した。
四往復目で、昼の乾燥食を落とした。
拾わない。
後ろを歩いていた老人が拾い、迅の制服の襟へ押し込んだ。
「落とした」
「見た」
「返す」
「帰ったら」
「誰」
「西の百七十三の一人」
「名前」
「受領台で言う」
「今は」
「今言うと、お前が覚える」
「覚えた方が」
「覚えた人から助けるだろ」
老人は杖を突き、先へ行った。
「順番を壊すな。帰ったら、粥を奢れ」
「冷たい」
「温めろ」
「煙出る」
「帰ってからだ」
迅は襟の乾燥食を噛んだ。
固い。
名前を知らないまま、歩幅だけ覚えた。
午後四時十六分。
通信丘へ、南路の受領札が戻らなかった。
予定から十一分遅れ。
十一分は、休息なら短い。
伝令なら長い。
真壁梓が右の時計を見た。
「担当」
透子が名簿を指す。
「四角札。照合番号は私だけ確認する」
「最終目撃」
「南路分岐、十五時二十七分。送り主は稜線門。受取は通信丘。目的は南第二陣の出発承認」
「随行」
「なし」
「経路変更」
「届いてない」
迅は立った。
「探す」
梓が次の筒を差し出した。
「北へ届ける」
「人が消えた」
「北第三陣の出発を止める変更。届けなければ、崩落箇所へ二台が同時に入る」
「別の伝令」
「全員、区間中」
「透子」
「南経路の照合を外せない」
透子の声は速い。
「変更、誰から誰へ。今、私が抜けたら二十二枚の順番が混ざる」
「澪」
「北入口で隊列整理」
「俺が探す」
「北が止まらない」
迅は筒を見た。
北の一つ山。
人を探すか。
人を危険へ入れない命令を運ぶか。
どちらも、人だ。
拳なら、一つを殴る。
紙は、殴っても答えない。
「行方不明を記録」
迅は言った。
「捜索開始も」
梓。
「俺が北を届けた後、戻る」
「誰が先に捜す」
「由良へ位置照合。澪へ連絡。近い区間の二人を出す。全隊は止めない」
「受けた」
梓は時刻を押す。
透子が迅へ筒を渡した。
「四角を探して」
「探す」
「命令を先に」
「分かってる」
「怒ってる?」
「自分に」
「何で」
「両方できると思った」
「できる人、いる?」
「いない」
「じゃあ、賢い」
「怖いだけ」
「同じ」
迅は北路へ向かった。
走らない。
背中の筒を一度、左手で触る。
雨がまた降り始めた。
南路の帰還名簿には、四角い一行だけが空いていた。