第283話 第八章「行方不明の伝令」前編

五月二十六日 午前零時十二分

 記録できないことと、記録しなくていいことは違う。

 火群七瀬は、撮影機の蓋を閉じた。

 通信丘の卓上には、南稜線路の地図がある。

 地図の上には、何もない。

 行方不明になった伝令の氏名も、担当区間も、受領札の内容も書いていない。

 代わりに、時刻だけが並んでいた。

《十五時二十七分 分岐通過》

《十五時三十八分 旧雨量計前を通過予定》

《十五時五十一分 南中継点到着予定》

《十六時五分 未着確認》

《十六時十六分 捜索判断》

《十六時二十四分 近傍二名を区間捜索へ》

《十六時三十一分 撤退全体は継続》

 誰が、どこで、何を運んでいたか。

 公開すれば、捜す相手へ位置を教える。

 隠せば、後から「最初からいなかった」と言われる。

 七瀬は、時刻だけを二部作った。

 一部は公開盤。

 一部は封緘記録。

 公開盤には、遅延が存在することだけ。

 封緘記録には、照合番号、担当札、最後に見た者、捜索範囲、判断者。

「名前を書かないと、人が消える」

 透子が言った。

 左手で四角札の束を押さえ、右手で記録紐を結んでいる。速い指だった。

「名前を出すと、見つける前に別の人へ捕まる」

 七瀬。

「じゃあ、どうする」

「名前は封緘。存在は公開」

「半分」

「全部を一枚へ載せない」

「見せないのは、嘘じゃない?」

「見せない理由を見せる」

 七瀬は公開盤へ、もう一行加えた。

《安全確保のため、伝令の氏名・担当経路・札内容は一時非公開。非公開判断者:火群七瀬。解除条件:本人帰還または捜索終了後の本人・署名者確認》

「長い」

「短くすると、七瀬が隠した、だけになる」

「それも本当」

「そう」

「怒らない?」

「事実だから」

 透子は口を尖らせた。

「事実が怒らない理由になるの、ずるい」

「怒っても、記録は変えない」

「もっとずるい」

 七瀬は左肩へ触れた。

 夕方から固定台を二度運び、鈍い熱が首まで上がっている。撮影機を肩へ担ぐことはできる。三分なら。五分なら、翌朝まで腕が上がらなくなる。

「痛い?」

 透子。

「四」

「数字で言う人、病院に多かった」

「共有しやすい」

「嘘もつきやすい」

「四は本当」

「三じゃない?」

「四」

「五?」

「交渉しない」

 七瀬は肩の帯を締め直した。

 撮影機は持たない。

 今夜必要なのは、顔を撮ることではない。

 見つかった時に、誰かを悪人へ固定する映像を急いで作らないことだ。

 午前零時三十一分。

 風祭澪が通信丘へ上がってきた。

 雨具の肩から水が落ちる。

 三本の真鍮笛は、布へ包んで胸に固定してある。

「最終応答」

「十五時二十七分。南分岐」

 七瀬は澪の正面へ立った。

 口元が見える距離。

 低い声。

「捜索二名は、旧雨量計まで。足跡は雨で消えた。敵影なし。受領札も未発見」

「声の共有」

 澪。

「出発前に、伝令班へ三つの意味を教えた。第一声は止まる。第二声は位置を返す。第三声は帰路がある」

「本人は聞いた?」

 透子が答える。

「全員で復唱した。四角も」

「高音、届く?」

「稜線は風が切る」

「低く吹く」

「三回使う?」

「一回」

 澪は即答した。

「三声で一回。位置確認だけ」

「全隊へは」

「使わない」

「理由」

「意味を共有してない人が混じる。撤退隊全体へ鳴らすと、止まる人、戻る人、敵が出る」

 七瀬は記録した。

《三声帰路〈スリー・コールズ〉使用判断。対象:行方不明伝令一名。目的:応答位置の絞り込み。撤退隊全体への同期使用なし》

「撮る?」

 澪が訊いた。

「笛は撮る。場所は映さない。音は公開しない」

「音を記録しないと、後で使った回数が」

「笛を包む前と後の時刻、立会二名、澪の申告。音源は封緘」

「足りる?」

「足りない」

「じゃあ」

「足りない記録だと書く」

 澪は少しだけ顎を引いた。

「受けた」

 七瀬は撮影機を固定台へ置いた。

 画角は澪の胸から下。

 顔を入れない。

 背後の地形を入れない。

 真鍮笛を布から出す手だけを撮る。

 澪の右手が一番短い笛を選ぶ。

 左手が二本目へ触れる。

 三本目は胸元へ残す。

「第一声」

 澪は低く吹いた。

 音は笛というより、濡れた金属板を遠くで擦ったようだった。

 風へ押される。

 通信丘の杭が、わずかに震える。

 止まれ。

 音の意味を知る者だけが、止まる。

 七瀬は時刻を刻む。

 午前零時四十分十二秒。

 七秒。

 澪が二本目を吹く。

 位置を返せ。

 高い成分は風へ散り、低い振動だけが地面を這う。

 返事はない。

 透子が息を止めている。

 七瀬は撮影機を見ない。

 地図を見る。

 音が届く範囲を先に決める。

 旧雨量計。

 南の祠。

 崩れた養蜂小屋。

 水切り溝。

 澪が三本目を吹いた。

 帰路がある。

 三つの音が、同じ人へ届いた時だけ、誓痕が応答を拾う。

 三声帰路。

 澪の左鎖骨の下で、古い痕が淡く光った。

 光は道を作らない。

 人を引き戻さない。

 敵と味方を選ばない。

 共有された三つの意味に対し、対象が返した位置だけを、一度、澪の身体へ返す。

 澪が右足を半歩ずらした。

 右耳ではなく、靴底で聞く。

「南西」

 低い声。

「距離、二百から三百。高さ、下」

「応答は」

「金属三回。間隔、短、長、短」

 透子が顔を上げた。

「伝令班の応答」

「場所」

「旧養蜂小屋の下。水切り溝が落ちてる」

「道は」

「正規路じゃない」

 澪は笛を布へ戻した。

 肩が一度、強く震える。

「反証」

 七瀬。

「右耳の圧迫。吐き気、軽い」

「休む」

「五分」

「十一」

「ミソラじゃない」

「人間は同じ」

 透子が言った。

「正しいこと、今日も人気」

 澪は座った。

 七瀬は撮影を止め、停止時刻を記録した。

 能力を使った映像より、能力を使った後に座った時間の方が長い。

 午前一時十九分。

 最初に見つけた金属音は、人ではなかった。

 旧雨量計の柱へ、空の缶が紐でぶら下がっている。

 風に押されるたび、短く二度、長く一度。

 短、短、長。

 澪が拾った応答とは違う。

「外れ」

 透子が言った。

「外れではない」

 七瀬。

「本人じゃない」

「そう」

「じゃあ外れ」

「捜索範囲から一つ除ける情報」

「言い方」

「何が」

「失敗を働かせる言い方」

 缶の下には、小さな紙が結ばれていた。

《雨量計故障。音で風向きを確認》

 日付は一年前。

 誰かが生活のために残した仕掛けが、今夜は捜索を惑わせる。

 瀬尾が缶を外そうとした。

「残す」

 澪。

「また紛らわしい」

「今夜だけ布を巻く。朝に戻す」

「誰が」

「私」

「忘れたら」

「七瀬が記録」

「記録が忘れたら」

 七瀬は瀬尾を見た。

「あなたが覚えて」

「三人」

「足りる?」

「忘れる時は三人で忘れます」

「正しい」

「怖いだけです」

 缶へ布を巻く。

 音が止まる。

 その瞬間、遠くでもう一度、短、長、短。

 今度は西。

 澪は目を閉じない。

 右耳を手で塞がない。

 足裏を石へ付け、風の間隔を見る。

「動いてる」

「本人が?」

 透子。

「音源が。さっきより二十メートル低い」

「怪我してるのに」

「自力とは限らない」

「連れられてる?」

「決めない」

 七瀬は地図へ、点ではなく帯を描いた。

 能力が返したのは住所ではない。

 答えが曖昧なのではなく、答えの形が帯だった。

「三声、もう一回」

 透子。

「使わない」

 澪。

「場所が動いた」

「一回と決めた」

「決めた時と状況が違う」

「だから通常捜索へ戻す」

「能力を使えば早い」

「次の反証で右耳が使えなくなれば、帰りの隊列を聞けない」

「でも一人が」

「一人を理由に、残りの声を聞けなくする判断はしない」

 透子の口が固くなる。

「冷たい」

「そう聞こえる」

「本人へ言える?」

「帰ったら言う」

「帰らなかったら」

 澪は答えるまでに二歩使った。

「捜索判断へ書く」

 謝ると言わなかった。

 正しかったと言う準備もしなかった。

 七瀬は、その二歩を撮らなかった。

 撮影されない時間にも、判断は起きる。

 午前一時二十六分。

 捜索は四人に限定した。

 七瀬。

 透子。

 澪。

 瀬尾直。

 迅は北路の変更を届けた後、南へ戻っている。由良は西路の受入確認。全隊を止めないため、探す人数を増やさない。

 瀬尾は三本の水瓶を持っていた。

「一本、置いていきますか」

「持つ」

 澪。

「重い」

「誰かに渡す」

「予備は」

「使うためにあります」

 七瀬は彼の言葉を記録しなかった。

 既に何度も聞いた。

 記録は、同じ台詞を名言へ育てる畑ではない。

 南稜線路を外れ、旧養蜂小屋へ下る。

 正規路には、三角の切り欠き札が二十メートルごとにある。

 脇道にはない。

 透子は色を見ない。

 札の形と、縄の結び数で進む。

「ここ」

 水切り溝の縁で止まる。

 幅二メートル。

 深さ三メートル半。

 底に泥水。

 向こう岸へ、子どもの靴跡が二つ。

 大人の杖跡が一つ。

 伝令靴の浅い跡。

「三人増えた」

 七瀬。

「増えてない」

 透子が、泥へ残った札片を拾う。

「南の名簿にいる。住居列の端の家族。夕方の点呼で三人とも未確認」

「なぜ別経路」

「迎えに行った」

 澪。

「四角が?」

「たぶん」

「命令違反」

 瀬尾。

「たぶん、善意」

 七瀬。

「両方です」

 瀬尾は水瓶を一本、地面へ置いた。

「善意なら、違反じゃないんですか」

「善意は理由になる。免除にはならない」

「助けたのに」

「助けた人と、待たせた人がいる」

「じゃあ、どう撮る」

 透子。

「今は撮らない」

「何で」

「顔を撮ると、先に物語が決まる。英雄か、勝手な伝令か」

「本当は?」

「まだ分からない」

 七瀬は撮影機を固定台から外さない。

 代わりに、溝の幅、足跡、札片、時刻を記録する。

 人間の顔を映さなくても、出来事は残せる。

 溝の先で、短い金属音がした。

 短。

 長。

 短。

 澪が掌を上げる。

「応答」

「何メートル」

「八十」

「下?」

「同じ高さ」

 旧養蜂小屋は、斜面へ半分埋まっていた。

 屋根が落ち、壁板が一本だけ立っている。

 その裏に、四人いた。

 四角札の伝令。

 杖を持つ老女。

 七歳ほどの子ども。

 十歳ほどの子ども。

 全員、生きている。

 伝令は右膝を泥へつき、受領筒を胸へ抱えていた。

「遅れました」

「知ってる」

 透子が言う。

「札」

「あります」

「封」

「一回、濡れました。中は見てません」

「何でここ」

 伝令は老女を見た。

「南分岐で、この子が来た。祖母が動けないって」

 十歳ほどの子が、泥だらけの靴で立っている。

「伝令を止めた?」

 七瀬。

「止めた」

「名前は」

「言いたくない」

「公開しない。本人確認だけ必要」

「家の札はある」

 子どもは首から下げた木札を見せた。

 南路の三つ結び。

 名簿番号。

 透子が照合する。

「三人とも三百十二の内。未出発欄」

「増えてない」

 老女が笑った。

「数だけならね」

「脚」

 澪がしゃがむ。

 老女の左足首が腫れている。骨の変形はない。荷重すると痛い。

「歩ける」

 老女。

「何メートル」

「死ぬまで」

「距離で」

「分からない」

 澪は瀬尾へ目を向ける。

「担架なし」

「背負います」

 瀬尾。

「あなた、左肩の古傷」

「知ってるんですか」

「水瓶の持ち替え方」

「じゃあ、どうします」

 透子が周囲を見る。

 崩れた屋根板。

 養蜂箱の枠。

 縄。

「橇」

「斜面で滑る」

 七瀬。

「滑らせるんじゃなく、二人で下ろす」

 透子は右手で縄を解いた。

 左手を添えた瞬間、濡れた板がずれた。

 子どもが踏んでいた土が崩れる。

 透子は左手を伸ばし、外套の襟を掴んだ。

 子どもは止まった。

 透子の手首だけが、板の角へ曲げられる。

 鈍い音。

 透子が息を飲んだ。

「離して」

 七瀬。

「落ちる」

「瀬尾が持った」

 瀬尾が子どもの腰を抱えている。

 透子は指を離した。

 左手首がすぐ腫れ始める。

「動かす」

 澪。

「動く」

「痛み」

「三」

「嘘」

「四」

「固定」

「伝令」

「交代」

「できる」

「できると、続けていいは違う」

「正しいこと――」

「人気はどうでもいい」

 澪は透子の左手を胸の前へ置き、細い板を当てた。

 透子が右手で結び目を作ろうとする。

「触るな」

「自分の手」

「今は患者の手」

「私が患者?」

「軽傷者」

「伝令」

「両方」

 透子は唇を噛んだ。

「交代を受ける」

「復唱」

「左手首固定。走る担当は交代。照合と口頭伝令は続ける」

「受けた」

 七瀬は、透子が固定を受け入れた時刻を記録した。

 子どもを救った瞬間は撮らなかった。

 代わりに、固定具へ書かれた時刻と、交代条件を撮る。

 英雄の一秒より、続け方を変えた五分の方が、明日の身体を残す。

 橇は、養蜂箱の枠二つと屋根板三枚で作った。

 轟がいれば、三分で作る。

 四人では十八分かかった。

 老女を乗せる前に、本人へ説明する。

「揺れる」

 澪。

「どれくらい」

「分からない。止めてと言えば止める」

「敵が来ても?」

「止める場所を選ぶ」

「降りるって言ったら」

「降ろす」

「面倒だね」

「そう」

「乗る」

 伝令は筒を七瀬へ渡そうとした。

「持って」

 七瀬。

「遅れた責任が」

「運ぶ責任は残ってる」

「罰は」

「今決めない」

「怒ってますか」

「怒ってる」

「撮らないのに」

「撮影は感情の温度計じゃない」

「英雄にしないため?」

「それもある」

「違反者にしないため?」

「それも」

「じゃあ、俺は何です」

「受領札を持った伝令。三人を迎えに寄り道し、予定を崩し、三人を連れ戻している途中」

「長い」

「短くすると、どれかが消える」

 伝令は筒を胸へ戻した。

「戻ったら、全部言います」

「自分の言葉で」

「はい」

「名前の公開範囲も決める」

「四角で」

「照合用の名は封緘」

「それで」

 澪が先頭に立つ。

 瀬尾と伝令が橇の前後。

 七瀬は老女の横。

 透子は右手で、三つの形札を触る。

 帰路は、来た道ではない。

 水切り溝を橇で上がれない。

 正規路へ戻るには、養蜂小屋の裏から東へ回る。

 十五分遠い。

 十五分を隠せば、次の隊が同じ場所へ入る。

 七瀬は通信丘へ、位置を言わず遅延だけを送った。

《救助追加三名。既存名簿内。経路変更承認待ち。予定帰着、午前二時二十分。撤退総数変更なし》

「承認待ちで動く?」

 瀬尾。

「今いる場所に止めた方が危険」

「後から、勝手に変えたって」

「言われる」

「どうするんです」

「変更した者の名を残す」

「誰」

「火群七瀬。風祭澪。瀬尾直。葦名透子。四角札の伝令。家族三人」

「家族の名は」

「封緘」

「責任は匿名じゃない?」

「公開しないだけ。消さない」

 瀬尾は頷いた。

「僕の名、出していいです」

「範囲」

「経路変更と橇」

「救助判断は」

「全員」

「受けた」

 橇を正規路へ戻すには、二つの道があった。

 東の石段は短い。

 ただし尾根の見張り台から全身が見える。

 西の蜂場跡は長い。

 低い石垣の間を通るため、橇の幅が足りない。

「石段」