第284話 第八章「行方不明の伝令」後編

 瀬尾。

「見られる」

 七瀬。

「今、敵影は」

「ない。いないと確認できたわけでもない」

「蜂場は」

 透子が右手で地図の切り欠きを触る。

「石垣を一つ外せば通る」

「誰の石垣」

 老女が橇の上から言った。

「私の」

 全員が老女を見る。

「養蜂箱も?」

「息子の。死んだ後は私の。蜂はいない」

「外していい?」

 澪。

「戻すなら」

「今夜は戻せない」

「いつ」

「撤退後、通れる人が戻す。期限を決める」

「戻る人がいなかったら」

「外した石を番号順に置く。積み方を残す」

「それで戻したことになる?」

「ならない」

 老女は濡れた毛布の下で手を動かした。

「石垣は、夫が積んだ。上手じゃない。番号を振っても同じにはならない」

「石段へ行く?」

「子どもを見張り台へ見せたくない」

 十歳ほどの子が言った。

「私は見られてもいい」

「私は嫌」

 七歳ほどの子。

 同じ家族でも、公開範囲は一つにならない。

 七瀬は撮影機を伏せたまま訊いた。

「石垣を外す範囲だけ記録していい?」

 老女。

「石と手。家の札は映さない」

「受けた」

「壊した人の名前も」

「誰が外す」

 瀬尾が右手を上げ、打撲した前腕を思い出したように下ろす。

「僕は左で補助」

 澪。

「私が上二段。伝令が下。透子は順番札。七瀬は記録と橇」

「私は片手」

 透子。

「番号は書ける」

「走らない?」

「走らない」

 嫌そうに言う。

 それでも受け入れた。

 石垣の上二段、十四個を外す。

 透子が一から十四まで、色ではなく切り欠きで札を作る。

 一は角なし。

 二は右上。

 三は右下。

「十五になったら」

 迅がいれば訊きそうなことを、伝令が訊いた。

「増やさない」

 透子。

「石が十五あったら」

「外す幅を変える」

「石に合わせない?」

「札に合わせて石を落とすの?」

「駄目」

「だから十四で通す」

 石を持ち上げる前に、老女が一つずつ触った。

「これは裏が平ら。これは苔を上。六は割れてるから二つで一つ」

 七瀬が声だけを封緘記録へ入れる。

 石垣の積み方は、軍事経路情報ではない。

 それでも家の位置を示す。

 公開は、復旧担当が決まるまで止める。

 橇が通る幅ができた。

 石は路肩へ番号順に置く。

 真琴へ送る短い変更札に、長い一文が加わった。

《蜂場跡の私有石垣十四石を、所有者の当夜同意により一時撤去。原形復旧を保証せず、六月七日までに所有者または指定者へ復旧方法と実施可否を返す》

「長い」

 伝令。

「石が十四あるから」

 七瀬。

「一個なら短い?」

「一個でも、持ち主がいる」

 橇が石垣の間を抜ける。

 七歳ほどの子は、見張り台から見えない場所を通った。

 老女は、自分の石垣が低くなったところを見た。

「戻らなかったら」

「記録は返す」

 七瀬。

「記録で蜂は飼えない」

「そう」

「正しい顔をしないんだね」

「できないことをしたから」

「通れた」

「壊した」

「両方か」

「両方」

 帰路は、人を通すたびに元の形を少し失った。

 その損失を、救助という一語で塗り直さなかった。

 午前二時二十六分。

 南中継点へ戻ると、迅がいた。

 制服の右肩に泥。

 左手に北の受領札。

 顔は怒っている。

「遅い」

「六分」

 七瀬。

「予定から十一時間」

「それは四角へ」

 伝令が前へ出た。

「俺が寄り道しました」

 迅は伝令の胸の筒を見る。

「札」

「あります」

「人」

「四人。自分と三人」

「怪我」

「俺は膝の打撲。歩ける」

「透子」

「左手首、軽い捻挫」

 透子が答える。

「ほかは」

「瀬尾の右前腕打撲。俺の右膝打撲。祖母の左足首捻挫。透子を含めて軽中等傷四」

「数えるの、早いな」

「待たせた人へ、何を増やしたか言うためです」

「走る?」

「交代した」

「嫌じゃない?」

「嫌」

「受けた?」

「受けた」

 迅は伝令へ戻る。

「なんで命令を届けなかった」

「子どもが来た」

「誰かへ渡せた」

「周りにいなかった」

「通信丘へ戻れた」

「祖母が動けないって」

「戻って人を連れてくる方が早かったかもしれない」

「かもしれない」

「分からなかった?」

「分かったつもりだった」

「三人助けた」

「はい」

「南の七十五を止めた」

「はい」

「どっちが正しい」

「分かりません」

 迅は少し黙った。

「俺も」

 伝令が顔を上げる。

「怒ってるんじゃ」

「怒ってる」

「じゃあ」

「怒ってる人が正しいとは限らない」

 七瀬は、その会話を撮らなかった。

 伝令の顔を、後で誰かが切り取り、英雄か違反者へする。

 代わりに、受領筒が開かれる手元だけを撮った。

 中の札は湿っている。

 文字は残っている。

 南第二陣の出発承認。

 時刻は十一時間遅れた。

 意味はまだ使える。

「署名者へ戻す」

 真琴が言った。

 いつの間にか中継点へ来ていた。丸眼鏡へ雨粒が残っている。

「変更は既に起きた。後から承認して、勝手を正当化するのではありません。何を変え、誰へ負担を出し、次の隊へどう反映するかを書く」

「三人は名簿内」

 透子。

「総数は変わらない」

「順番が変わった」

「南第二陣、二十二分遅れ」

「北と西への影響」

 迅が答える。

「北はなし。西の殿交代を七分早める」

「誰が承認」

「守屋と由良」

「受領は」

「俺が持ってる」

 迅は左手の筒を上げた。

「では、追加救助として記録します」

 伝令が息を吐いた。

「許される?」

「違います」

 真琴。

「記録されます」

「同じじゃない?」

「許すと、終わります。記録すると、次に誰が何を変えるかへ使えます」

「罰は」

「安全確認後に、本人を含めて決めます」

「本人も?」

「あなたが言い訳するためではなく、命令がどこで使えなかったかを知るため」

「言い訳、あります」

「書いてください」

「長い」

「短くすると、三人か七十五人が消えます」

 七瀬は記録盤へ、停止時刻と再開時刻を刻んだ。

《撮影停止 午前零時十二分》

《理由 安全確保、評価先行の防止》

《代替記録 時刻、形札、立会者、本人申告》

《撮影再開 午前二時三十九分》

《再開範囲 受領札、変更条項、固定具。顔は撮影しない》

「本人の顔、ずっと撮らない?」

 迅。

「本人が決める」

 伝令は考えた。

「今は撮らないで」

「受けた」

「後で変えられる?」

「変えられる。撮らなかった時間は戻らない」

「それでいい」

 七瀬は撮影機を低い台へ置いた。

 画面には、三つ結びの札。

 濡れた受領紙。

 透子の左手首の固定具。

 老女の橇から外された縄。

 人の顔はない。

 それでも、誰もいなかったことにはならない。

 午前二時五十二分。

 戻った伝令を待っていたのは、安堵だけではなかった。

 南中継点の伝令六人が、壁際へ立っている。

 一人が言った。

「勝手に寄り道していいなら、命令札に意味がない」

 四角札の少年は、筒を胸へ抱えたまま答えない。

「三人を置いて来いとは言わない。でも戻って知らせる手順があった」

「周りに誰もいなかった」

「笛は」

「持ってない」

「石へ札を置けた」

「雨で消える」

「だから何もしなかった?」

「連れて来た」

「それで七十五人が遅れた」

 迅が割って入ろうとした。

 真琴が袖を引く。

「何」

「本人同士で話しています」

「殴り合いになったら」

「なってから止めてください」

「遅い」

「言葉を途中で奪う方が早すぎます」

 伝令の一人が、四角の胸を指した。

「おまえの名を出せ。誰がやったか分からないまま、次も四角札が疑われる」

「出さない」

「責任を取らないのか」

「照合台帳にはある」

「俺たちには」

「必要?」

「同じ班だ」

「同じ班だから怖い」

 少年の声が一度、裏返った。

「名前を知ったら、俺の家も知ろうとする。家が分かったら、あの三人の家も分かる。助けたって言って、勝手に見に来る」

「誰が」

「正しい人」

 誰もすぐには返さなかった。

 透子が固定した左手を胸へ置いた。

「四角は公開名。照合番号は私と安全台帳の二人が持つ。班へは、判断経路と違反内容を出す。家族情報は出さない」

「透子がかばうのか」

「左手、これ」

 透子は固定具を上げた。

「この人を探して痛めた。怒ってる」

「なら名前を」

「怒ってるから知っていい、にはしない」

「じゃあ何を罰する」

「まず、何が使えなかったか聞く」

 真琴が紙を三枚置く。

 一枚目。《本人の判断》

 二枚目。《命令の不足》

 三枚目。《待った側の負担》

「罰は、この三枚を読んだ後です」

「後回し」

「安全確認の後です」

「逃げるかもしれない」

 四角札の少年が言った。

「逃げない」

「英雄ぶるな」

「怖いから。逃げたら、名前を探される」

 七瀬が訊く。

「今の言葉、記録する?」

「顔なしで」

「声は」

「変えて」

「意味が変わる可能性がある」

「じゃあ、文字」

「本人確認できないと、誰かが作った言葉に見える」

「封緘の声と、公開の文字」

「受けた」

 七瀬は撮影機を回さず、録音筒だけを布の中で動かした。

 少年は自分の判断を話した。

 子どもに呼ばれた。

 祖母を見た。

 通信丘へ戻る時間を惜しんだ。

 全体が待つことは分かっていた。

 分かっていたが、目の前の三人を置けなかった。

 自分なら両方できると思った。

 できなかった。

 最後に、班の一人が訊いた。

「次も同じなら」

 少年は長く黙った。

「札を石へ残して、戻る」

「三人は」

「一人で運ばない。近い担当を探す」

「見つからなかったら」

「その時、また決める」

「答えになってない」

「今の俺に言えるのはそこまで」

 真琴が三枚目へ書く。

《再発防止は、本人の善意を禁止することではなく、救助要請を渡せる中継点を増やす》

「罰じゃない」

「罰だけでは、次の子どもが来た時に札が届きません」

「本人は」

「次の伝令勤務から外す。撤退終了まで、中継点で受領補助。これは安全措置。処分は後で別に審理」

 少年が頷いた。

「走れない?」

「今は」

「嫌です」

「嫌だと記録します」

「それでも?」

「それでも」

「受けます」

 透子が右手で四角札を外し、少年の胸へ横線の札を付けた。

 中継補助。

 役目を失ったのではない。

 同じ役目を続けさせないことも、帰路の一部だった。

 午前三時十六分。

 南第二陣の出発時刻が、書き直された。

 古い時刻は消さない。

 一本線で残し、横へ新しい時刻と変更理由を書く。

 七十五人の人数は変わらない。

 三人は、もともとその中にいた。

 変わったのは、順番と、誰が待ったかと、誰が痛めたかと、誰が決めたかだった。

 透子は右手だけで形札を並べる。

 遅い。

 誰も急かさない。

「私、もっとできる」

「できる」

 澪。

「じゃあ」

「今日は右手で照合。走者は交代」

「左、明日には」

「明日、診る」

「約束?」

「診る約束。走れる約束じゃない」

 透子は不満そうに、三角札を一枚、右手で置いた。

「正しいこと、嫌いになってきた」

「正常」

 澪が答えた。

 七瀬は、そこだけ撮った。

 顔ではなく、右手で置かれた三角札。

 午前三時二十二分。

 行方不明欄から、四角い印が消えた。

 代わりに、新しい一行が増えた。

《寄り道を正式な追加救助へ変更。変更者と待機者を記録。総数変更なし》

 善意は、計画の外へ出た。

 計画は、善意を罰して元へ戻すのではなく、広がった分だけ書き直された。

 紙は少し長くなった。

 撤退の道も、少し長くなった。