第206話 第五章「壁を殴らない迅」後編

「七歩目は」

 轟が上から覗き込む。

「置かなかった」

「見れば分かる」

「壁、殴ってない」

「それも見れば分かる」

「褒めろ」

「後で診察を受けたらな」

「取引?」

「命令だ」

「権限ない」

「怪我人にはある」

「誰が決めた」

「俺」

 迅は起き上がった。

 右手を開く。

 小指が遅れる。

 骨の痛みではない。

 神経の痺れ。

 脇腹には、完成させなかった力の鈍痛が残っている。

 七階の子どもが、窓から見ていた。

 迅は片手を上げた。

 無事を示したつもりだった。

 子どもは黄色い靴で、窓枠を一度蹴った。

 久我の放送器が鳴る。

『侵入者一名を退けた』

 塔の内部で、拍手が起きた。

 全部の階ではない。

 北側の三階、五階、七階。

 廊下の手すりを叩く音。

 食器を鳴らす音。

 子どもの歓声。

 久我は続ける。

『外の者は、壁を越えられない。建物を壊さずには入れない。だから退いた』

「事実」

 迅が言った。

 七瀬が彼を見る。

「異議は」

「ない」

《退けた》は、久我側の働きだけを原因にしている」

「子どもが止めた」

「記録する?」

「本人がいいなら」

「確認手段がない」

「なら、今はしない」

 七瀬は撮影機を下ろした。

 久我の放送は続く。

『外の力は、家を壊す時だけ強い。ここを守るのは、内側の規則だ』

 塔内の音が大きくなる。

 久我に反対していた者も、外から壁を破られそうになれば、内側へ寄る。

 迅は、自分がその結束を作ったと理解した。

 正しい撤退が、正しい結果を生むとは限らない。

 壁を壊さなかった。

 住民を傷つけなかった。

 その代わり、久我の言葉を強くした。

 轟が低く言う。

「失敗だな」

「壁は残った」

「だから、失敗を残せる」

「壊したら?」

「失敗ごと片づけた気になる」

 迅は七階を見た。

 窓は閉じている。

 黄色い靴だけが、曇った硝子の下で動いた。

 救護員が迅の外套をめくった。

「脇腹、見せて」

「折れてない」

「見てないのに分かる?」

「息できる」

「肋骨が折れても息はできます。痛いだけで」

「じゃあ、できる」

「答えになってない」

 迅は仮設椅子へ座らされた。

 右前腕。

 小指と薬指の知覚。

 手首の回旋。

 脇腹。

 左肩。

 救護員は一つずつ触れる。

「右腕、古傷の神経症状が増えています。新しい骨折所見はない。四階換気箱へ当てた時の打撲。脇腹は、外からの打撃痕がない」

「内から」

「何をした」

「六歩でやめた」

「能力を途中解除した反動?」

「たぶん」

《たぶん》で終わらせない。痛みは何秒後」

「すぐ」

「どこから」

「脇腹。背中。右腕」

「吐き気」

「少し」

「視界」

「白くなった」

「意識」

「落ちてない」

「落ちてました」

「建物から」

「言葉を正確にする余裕があるなら、診察を受けてください」

 迅は右手を開いた。

 小指が、他の指より遅れて伸びる。

「七歩目を置けば、反動はなかった?」

 救護員。

「壁が壊れた」

「身体を守る選択と、壁を守る選択が逆だった」

「同じ」

「同じではありません。あなたは自分の身体も、住民の家の一部として勝手に使っています」

「俺の体」

「治療するのは私です」

「権限?」

「治療への同意はあなた。診断を伝えるのは私の仕事」

 救護員は包帯へ、使用制限を書いた。

《本日、登攀禁止。右手による強打禁止。能力の完全発動禁止。》

「最後、必要?」

「完全発動する予定がある顔です」

「顔で決めるな」

「症状と過去行動で決めました」

 七瀬が隣で聞いている。

「記録公開は」

「診断名は出さない」

 迅。

「なぜ」

「久我が使う」

「弱点として?」

「外も使う。俺を外す理由に」

「では、作戦制限だけ公開。症状の詳細は医療記録。本人の同意なく共有しない」

「それで」

 水務隊の班長が近づいてきた。

「失敗を隠すのか」

 迅が見る。

「侵入に失敗した。負傷した。能力も使えない。住民へ見せるべきだ」

「侵入は隠さない」

 七瀬。

「負傷も、作戦に必要な範囲は」

「敵へ都合の悪い情報だけ伏せる」

「医療情報は、敵味方に関係なく本人のものです」

「英雄の負傷は部隊の情報だ」

「俺、英雄じゃない」

 迅。

「おまえがどう思うかではない」

「じゃあ誰が決めた」

「市民が期待している」

「期待した人へ、俺の脇腹を見せる?」

「比喩を」

「実物」

 班長は言葉に詰まった。

 迅は包帯を外套の下へ戻した。

「壁を殴らなかったことは出す」

「それでは美談になる」

「失敗も出す」

「何を失敗とする」

「中の人へ聞かずに登った。久我の結束を強くした。換気箱を凹ませた」

「撤退は」

「失敗じゃない」

「侵入できなかった」

「しなかった」

「結果は同じだ」

「壁には違う」

 班長が塔を見上げる。

 四階の換気箱には、迅の靴の形で浅い凹みがある。

「壊してはいない」

「凹ませた」

「細かい」

「住んでる人には、そこから風が入るかもしれない」

 轟が修理札を持ってきた。

《四階北西換気箱。外部登攀者の接触により凹損。換気量確認、必要なら交換。費用負担未定。》

「名前」

 迅。

「書く?」

「俺」

「公開は住民へ確認」

「なぜ」

「おまえの名前を出すと、修理を頼みにくくなる人がいる。英雄へ請求するみたいに見える」

「英雄じゃない」

「相手が決める」

「面倒」

「建物なので」

 轟は札を、四階から読める高さへ掲げた。

 しばらくして、四階の窓へ青い布が出た。

 中央。

 洗濯ばさみ一つ。

 急がない設備確認。

「修理していい?」

 迅。

「確認依頼を受けた。入る許可ではない」

 七瀬。

「分かってる」

「学習した」

「少し」

 迅は換気箱の凹みを見た。

 壁を殴らなかった日の傷だった。

 壊さない選択にも、修理費は残る。

「次は」

 凱が言いかける。

 迅は首を振った。

「次を、俺が決めない」

「では誰が」

「中の人」

「どうやって聞く」

 塔の内部から、金属を叩く音がした。

 コン。

 間を置いて、二度。

 コン、コン。

 さらに長い沈黙。

 コン。

 タマキが顔を上げた。

「今の、昨日もあった」

 七瀬は記録紙をめくる。

「午前六時十四分。九時三十二分。十二時二分。いずれも窓札の変更前」

「水道?」

「配管だ」

 轟が塔へ耳を向ける。

 再び音。

 コン。

 コン、コン。

 コン。

 タマキは雪の上へ、四つの丸を書いた。

「誰から」

 迅が聞いた。

「まだ分からない」

「誰へ」

「たぶん、外じゃない」

「何のため」

 タマキは塔の窓を見上げた。

「それを聞く」

 久我の放送では、迅は退けられた。

 その声の下で、建物は別の音を鳴らしていた。