第205話 第五章「壁を殴らない迅」前編
二月二十三日 午前四時五十二分
侵入できる道は、見つかった。
だから、竜胆迅は侵入しなかった。
環水三号塔の北西面。
三階の雨樋受け。
四階の換気箱。
五階の外周帯。
六階の洗濯台。
七階の窓下にある、後付けの小さな庇。
足を置ける場所が、七つあった。
正確には、最初の一歩を含めて七歩で届く場所があった。
迅は凍った地面へ踵を置き、塔を見上げた。
「見つけた顔だな」
背後で轟が言った。
「顔で分かる?」
タマキ。
「こいつは普段、見つけてない顔をしてる」
「それ、同じでは」
「違う。今は眉が一ミリ上がってる」
「測った?」
「構造技師は目測から入る」
迅は二人を無視した。
七歩目の庇から七階の窓枠までは、腕一本分。
窓が開けば入れる。
開かなければ、窓の右脇にある薄い補修壁へ拳を返すことになる。
そこだけ、古い外壁材が新しい。
色が少し白い。
目地が浅い。
内部へ鉄筋を通した跡がない。
迅が七歩を完成させた状態で殴れば、穴は開く。
穴だけでは済まない。
補修壁の内側は、住戸の台所だった。
配管図では、流し台の上。
棚の中身が落ちる。
壁の破片が飛ぶ。
水道管を巻き込めば、七階だけでなく六階の天井まで濡れる。
「壁、一枚」
迅が言う。
「壊せる?」
轟は聞いた。
「壊れる」
「質問と答えがずれてる」
「俺がやれば、壊れる」
「できるかじゃない。壊していいかだ」
「駄目」
迅は即答した。
轟が頷く。
「なら道じゃない」
迅は塔を見上げたままだった。
七階の窓は閉じている。
青い布が右寄せで一枚。
洗濯ばさみは二つ。
由良の説明では、配管か洗濯設備の不具合。
ただし、誰へ何を求める合図かは不明。
「窓を開けてもらえれば」
「誰に」
タマキが言った。
「中の人」
「何のために」
「入る」
「入って何をする」
「鍵を開ける」
「どの鍵を、誰の許可で」
迅は黙った。
タマキは十四歳だった。
年下に詰められて黙るのは、迅にとって珍しくない。
「質問、多い」
「迅の答えが少ない」
「釣り合ってる」
「帳簿なら赤字」
轟が北西面の図面へ指を置いた。
「窓が開いても、七階から正面玄関まで階段を下りる必要がある。久我側が十五人近く。住民が廊下へ出ていたら、追う側も避ける側も危ない。しかも階段は水槽の外壁に巻き付いてる。そこで暴れたら、振動が配管へ行く」
「暴れない」
「おまえが言うと、約束じゃなくて希望だ」
「静かに倒す」
「倒すな。通れ」
「相手が通さない」
「なら、相手が通す理由を作れ」
迅は轟を見た。
轟は黒板の禁止事項を、携帯用の板へ書き写していた。
すでに二十四項目ある。
迅はその板の最下段へ、自分の指で一行加えた。
《壁を殴らない》
白い粉が指先についた。
「書けるじゃないか」
「字じゃない」
「読める」
「ならいい」
午前五時十六分。
東の空が、まだ光る前だった。
塔の七階で窓が開いた。
赤い外套の子どもが、顔を出した。
足場を落とした前の日、迅へ二度「来るな」と言った子だ。
今日も同じ外套を着ている。
袖が長い。
左の靴だけ、爪先へ白い布を巻いていた。
子どもは窓から、細い紐を垂らした。
先に、小さな靴が結ばれている。
黄色。
右足用。
底が半分剥がれていた。
「靴」
迅が言った。
「見れば分かる」
タマキ。
「俺に?」
「それは分からない」
子どもが紐を揺らす。
一度。
二度。
三度。
七瀬が望遠鏡を上げた。
「窓の右。青布。洗濯ばさみ二つ。前回と同じ。靴底修理の依頼と推定する」
「推定?」
「本人の発言がない」
七瀬は撮影機を向けなかった。
子どもの顔ではなく、窓枠と紐の動きだけを時刻記録へ取る。
「受け取る?」
タマキが迅へ聞いた。
「受け取る」
「誰から」
「七階の子」
「誰へ」
「俺へ」
「何のため」
「靴を直す」
「鍵を開けてもらうためじゃなく?」
迅は子どもを見た。
子どもも迅を見ている。
「違う」
「確認した?」
「してない」
「じゃあ、交換条件にしないと決めた?」
「決めた」
「受理」
タマキが紐の落下位置へ木箱を置いた。
靴が雪へ直接触れないようにする。
久我側の警備員が七階の廊下へ現れた。
子どもの肩へ手を伸ばす。
迅の右足が半歩前へ出た。
庇までの七歩が、視界の中で点になる。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
体が先に覚える。
だが警備員は、子どもを乱暴に引かなかった。
窓から身を乗り出しすぎないよう、外套の背をつまんだだけだった。
子どもが何か言う。
警備員が下を見る。
迅と目が合った。
若い男だった。
鼻の横に古い切り傷。
右手には短い棒。
左手で、子どもの紐が窓枠へ擦れないよう持ち上げている。
「修理だけだ!」
男が叫んだ。
「鍵は開けない!」
「分かった」
迅は答えた。
男は拍子抜けした顔になった。
「……聞こえたのか」
「声、大きい」
「そっちが遠いからだ!」
「遠いのは、そっちも同じ」
子どもが笑った。
男は笑わなかったが、紐は切らなかった。
靴が木箱へ着く。
迅はそれを取った。
底は、糸ではなく接着だけで留められていた。
水に濡れて剥がれている。
爪先の内側に、赤い蝋筆で小さく《チ》と書いてあった。
「靴、直せる?」
タマキ。
「できない」
「受け取ったのに」
「できるやつへ持っていく」
「誰」
「轟」
轟は首を振った。
「建物と靴底を同じにするな」
「剥がれたものを戻す」
「縮尺が違う」
「小さい方が簡単」
「世の中、そうなら苦労しない」
それでも轟は靴を受け取った。
仮設幕舎の工具箱から、薄い革片、ゴム糊、麻糸を出す。
左肩を上げず、右手で千枚通しを使った。
迅は向かいに座る。
「見て覚えろ」
「靴屋になる予定ない」
「壁を壊さない人間は、直し方を一つくらい知っておけ」
「壁と靴は違う」
「さっき同じにしたのはおまえだ」
迅は黙った。
轟が剥がれた底へ細い穴を開ける。
接着剤を塗り、革片を挟み、糸で縫う。
「力を入れすぎるな」
「入れてない」
「針を持ってない人間の台詞じゃない」
「見てる」
「見てる時に肩が固い。自分でやる時は折る」
「靴底を?」
「針を」
轟は最後の結び目を作った。
右肩を軽く回す。
足場を支えた時の打撲が、まだ黄緑色に残っている。
「乾くまで一時間」
「急いでる」
「糊は迅の都合で乾かない」
「殴れば」
「乾く前に剥がれる」
「冗談」
「分かりにくい」
「俺も」
迅は黄色い靴を見た。
七階の子どもは、片方だけ白布を巻いた足で窓辺にいる。
靴を待つ時間、外へ出られない。
だが、外へ出られない理由の全部が久我ではない。
靴が壊れている。
廊下に配給列がある。
祖母が眠っているかもしれない。
外にいる大人が怖いかもしれない。
迅が怖いかもしれない。
助けを求める人間は、助け以外の生活もしている。
午前六時二十二分。
環水三号塔の北西へ、天環水務隊の第二班が到着した。
班長は、鋼製の伸縮梯子を見せた。
「七階まで三段継ぎで届く。窓へ直接架ける」
「駄目」
轟。
「まだ説明していない」
「荷重点が外周帯一か所に集中する。昨日の足場崩落で帯の北側は信用できない」
「地上から支える」
「地上が凍ってる」
「杭を打つ」
「振動を入れるなと書いた」
班長が黒板を見る。
「禁止ばかりだ」
「壊す方法は多い。残す方法は少ない」
「少ない方法をいつまで探す」
「見つけるまで」
「住民が待てる保証はない」
「壁が待てる保証もない」
「壁より人だ」
「人が住む壁だ」
二人の声が低くなる。
凱が間へ入った。
「梯子は待て」
班長が睨む。
「おまえに命令権はない」
「ない。だから命令ではない」
「では何だ」
「失敗した時、誰が住民へ家を返すかの確認だ」
「我々は救助隊だ」
「答えになっていない」
「救助の結果として損傷が出ることはある」
「その損傷を受け入れるのは、救助する側か」
班長は口を閉じた。
凱は続けない。
黙らせることと、答えを得ることは違う。
迅は伸縮梯子を見た。
使えば早い。
七歩より安全かもしれない。
ただし、窓へ梯子を架ける行為そのものが、内側では侵入になる。
久我の放送器が鳴った。
『外の者へ。七階北西窓へ接近した場合、窓を閉鎖する』
低く、切れ目の短い声。
『住民の修理依頼は、侵入許可ではない』
「分かってる」
迅は塔へ言った。
放送器から返事はない。
久我は聞いているはずだ。
聞くことと返すことを、彼女は別々に管理している。
午前七時八分。
靴底の糊が乾いた。
迅は紐へ靴を結ぶ。
結び目は、七瀬が確認した。
落下防止の二重結び。
ただし、子どもが自分でほどける向き。
「返す」
タマキが言った。
「誰から」
「俺から」
「誰へ」
「七階の子」
「何のため」
「歩くため」
「鍵は」
「関係ない」
「受理」
紐が上がる。
途中、風で外壁へ当たりそうになる。
迅は手を伸ばした。
届かない。
赤索が横から走った。
由良が塔の補強帯へ索を掛け、靴の紐を外壁から十センチ離して支える。
「《帰巣線》は荷物便じゃない」
「使ってる」
「今日は修理靴の帰路」
「帰る場所、靴にもある?」
タマキ。
「履く足が決める」
由良は索の張りを緩めた。
靴が七階へ着く。
子どもが両手で受け取った。
その場で履く。
爪先を床へ二度打ちつけた。
底は剥がれない。
子どもは窓へ顔を出した。
「直った!」
「見える」
迅。
「ありがとう!」
「轟が直した」
「迅が持ってた!」
「持つだけなら誰でもできる」
「じゃあ、次も持って!」
迅は返事をしなかった。
子どもが笑う。
背後の警備員も、今度は口元を隠しきれなかった。
久我の声が割って入る。
『修理品の返却は確認した。窓を閉めろ』
子どもが窓を閉める。
黄色い靴が最後まで見えていた。
靴を返した後、迅は北西面の七歩を地面へ描いた。
白墨では雪に消えるため、黒い小石を七つ置く。
一歩目、雨樋受け。
二歩目、換気箱。
三歩目、外周帯。
四歩目、洗濯台。
五歩目、庇の縁。
六歩目、補強帯へ片手。
七歩目、窓脇。
「侵入しないと言った」
轟。
「道を見る」
「見るだけの人は、靴を脱がない」
迅は登攀用の靴紐を締めていた。
「確認してから」
「誰へ」
「中」
「どうやって」
迅は小石の横へ、壊れる可能性を書く。
二歩目。
《換気箱・薄い》
三歩目。
《外周帯・北側未確認》
四歩目。
《洗濯台・住民増設》
七歩目。
《補修壁・台所》
字は左手で、短い。
七瀬が撮影する。
「これは、作戦案として公開しますか」
「中へ見せる」
「公開範囲は塔内だけ?」
「外も見える」
「久我にも」
「隠して登るよりいい」
轟が迅を見る。
「許可がないまま、計画を見せて登れば、許可を求めたことになると思うなよ」
「思ってない」
「顔が思ってる」
「顔で決めるな」
真琴が、図の下へ一行足した。
《この掲示は侵入許可の要求であり、無回答を許可とみなさない。》
「長い」
「必要です」
タマキが言った。
「期限」
「何の」
「返事を待つ期限。ずっと無回答なら、迅はずっと待つ?」
迅は塔を見た。
「午前九時」
「誰が決めた」
「俺」
「なぜ」
「日が上がる。氷が緩む」
轟が補修壁の温度を測る。
「九時半までは大きく変わらん」
「じゃあ九時半」
「待つ期限を、構造だけで決めるな」
「他に」
「中の配給時刻。七階は九時十分。廊下へ人が増える」
「なら九時前」
「人が増えるから急いで入るのか」
「逆」
「何が逆」
「人が増える前に、窓を開けるか聞く」
「聞き方は」
迅は答えられなかった。
七階の子どもへ、靴の紐を通して紙を上げる案が出た。
すぐにタマキが止める。
「靴の修理と侵入許可を結ぶ」
「別の紐」
迅。
「受け取っただけで答える仕事が増える」
「窓札」
「今の札は設備不具合。意味を外から変えない」
久我の放送へ尋ねる案。
返事はなかった。
正面扉の受話器は、まだ設置されていない。
由良が、赤索を持ち上げた。
「索へ札を付けて、七階の手前まで上げる。受け取るかは中。窓へ触れない」
「誰が受け取る」
「決めない」
「久我が取る」
「それも中の一人」
「住民へ届かない」
「届くことを外が保証しようとすると、窓へ入る」
真琴が短い文を書いた。
《七階北西窓を通る許可を求めます。許可しない、回答しない、条件を付ける、いずれも可能です。靴修理とは無関係です。》
「長い」
迅。
「あなたの行動が短すぎる」
札は赤索で上がった。
七階の窓から二メートル下。
そこで止める。
十分。
二十分。
三十分。
誰も取らない。
久我の警備員は窓から見ていた。
子どもも、奥にいる。
「無回答」
七瀬が時刻を記録する。
「拒否?」
迅。
「拒否ではありません」
「許可でもない」
「そうです」
「じゃあ下ろす」
由良は索を戻した。
紙は開かれていない。
迅は小石を片づけなかった。
道がある事実は残る。
許可がない事実も残る。
午前九時二十分。
轟は別の計測へ移った。
七瀬は窓札の照合へ。
由良は東側の索具点検へ。
凱は交代要員の衛生説明へ。
見張りがいなくなったのではない。
全員が、それぞれの仕事へ戻った。
迅は小石を見た。
無回答を許可にしない、と書いてある。
その文を読んだ。
読んだ上で、九時半までなら構造は持つ、と考えた。
許可を得るためではない。
窓の近くで、もう一度聞くため。
言い換えれば、聞く位置を自分で決めた。
迅は図の下へ、左手で一行書いた。
《許可なしで接近する。責任・竜胆迅。》
正直に書けば、正しい行動になるわけではない。
それでも、隠して登るよりは、失敗の持ち主が分かる。
迅は外套を脱いだ。
午前九時三十一分。
迅は北西面の下へ戻った。
梯子は撤去されている。
水務隊の班長は、不満を紙へ残して別の持ち場へ移った。
轟は柱の微振動を測っている。
七瀬は窓札と配管音の時刻を照合している。
由良は塔の反対側。
凱は外の交代要員へ、水を使わない手洗いの順番を説明していた。
誰も迅を見ていない。
迅は雨樋受けへ足を掛けた。
一歩目。
鉄が冷たい。
二歩目。
四階の換気箱へ、右足の外側だけを置く。
三歩目。
外周帯へ指を掛け、体を横へ送る。
右の小指と薬指が痺れる。
寒い日は、骨が治っても神経が昔の怪我を覚えている。
迅は左手を使った。
四歩目。
六階の洗濯台へ着く。
窓の内側で、人影が動いた。
棒を持つ者が二人。
警告はない。
一人目が窓から短い鉄棒を突き出す。
迅は外へ退いた。
五歩目。
踵が庇の縁へ落ちる。
攻撃を譲った距離が、体の中へ沈む。
短い熱。
二人目が上階から鎖を振り下ろす。
迅は洗濯台の外へ体を逃がした。
六歩目。
空中に足場はない。
左手一本で補強帯へぶら下がる。
右腕へ冷たい痛みが走る。
七階の窓が開いた。
黄色い靴。
赤い外套。
「来るな!」
子どもが叫んだ。
迅は七歩目を置けた。
庇は目の前だった。
そこへ右足を乗せ、窓脇の壁へ拳を返せば、侵入口が開く。
棒を持った男たちも、迅が壁を壊すと分かった。
一人が子どもを引く。
一人が台所の棚を押さえる。
その棚の上に、瓶が六本あった。
茶色い薬瓶。
青い蓋。
壁の向こうは、ただの壁ではない。
人が物を置く場所だった。
迅は庇を踏まなかった。
腰をひねる。
六歩までに溜まった熱が、行き先を失う。
七退一還〈セブン・リターン〉は完成しない。
完成しない力は、消えるわけではない。
体へ戻る。
脇腹が内側から殴られたように縮む。
呼吸が止まる。
迅は左手を離した。
落ちる。
六階。
五階。
外周帯へ右前腕を掛ける。
古傷が痛む。
勢いを殺しきれない。
四階の換気箱へ足を当てる。
薄い金属が凹む。
「迅!」
地上から轟の声。
赤索が飛ぶ。
由良ではない。
由良の予備索を、凱が投げた。
結び目は下手だった。
だが輪は大きい。
迅は左腕を通す。
凱と轟と水務隊員三人が、索を引く。
地面へ落ちる寸前、迅の背が雪を掠めた。
受け身を取る。
右腕を庇い、左肩から転がる。
止まった時、空は白かった。