第207話 第六章「内側からの合図」前編

二月二十四日 午前二時十七分

 タマキは、建物が寝言を言うとは思っていなかった。

 眠っている人間が百人いれば、建物は百通りの音を出す。

 便所の水。

 夜泣きで沸かす湯。

 咳のあとに開く蛇口。

 凍結を避けるため、糸ほど細く流し続ける水。

 その全部が、地下の配管へ集まる。

 だから最初、規則に見えた音の半分は、規則ではなかった。

「三、二、一」

 タマキが言う。

 仮設幕舎の床下で、鋼管が鳴った。

 コン、コン、コン。

 間。

 コン、コン。

 長い間。

 コン。

「昨日と同じ」

 七瀬は時刻を記録した。

「同じじゃない」

「差は」

「最後の一回が、四秒遅い」

「誤差では」

「人が叩いてるなら、迷った時間かもしれない」

「水撃なら」

「圧が戻る時間」

「どちら」

「分からない」

「なら、分からないと書く」

「書いて」

 タマキは耳を鋼管へ当てた。

 冷たさが頬骨まで伝わる。

 迅は毛布を肩へ掛け、隣でしゃがんでいた。

「寝ないの」

「聞いてる」

「寝ながら聞けない?」

「おまえが床を叩く」

「建物」

「今のはおまえ」

 タマキは小さな木槌を手にしている。

 鋼管の分岐へ番号を書いた紙札を結び、外側から返事を試していた。

 一本目。

 弱く二回。

 塔の内部から、返事はない。

 二本目。

 弱く二回。

 十分後、上階で水洗便所が流れた。

 三本目。

 弱く二回。

 直後に、赤ん坊が泣いた。

 塔の三階だ。

 窓が開く。

「夜中に叩くな!」

 女の声が飛んだ。

 タマキは木槌を下ろした。

「すみません!」

「誰だ!」

「外の、配管を聞いてる者!」

「聞くだけにしろ!」

 窓が閉まった。

 迅が毛布の中で言う。

「怒られた」

「分かってる」

「質問、多い」

「答えが必要だった」

「寝てる人から?」

 タマキは返さなかった。

 自分の問いは、相手へ答える仕事を発生させる。

 誰から。

 誰へ。

 何のため。

 三つ揃わないものを通さないのは、便利だった。

 だが、夜中の二時に「何のため」と聞かれる側は、便利ではない。

 七瀬が記録紙へ一行加えた。

《外部照会による乳児覚醒。三階住民より停止要求。以後、能動打診を停止。》

「そこまで書く?」

「音を読もうとして、音を増やした」

「失敗?」

「出来事」

「同じでは」

「失敗と決めるのは、結果を見てからでも遅くない。出来事は今書かないと消える」

 タマキは木槌を布で包んだ。

 もう使わない。

「質問って、殴るのと似てる?」

 迅が言った。

「どこが」

「相手へ返事を要求する」

「殴られたら、返さなくてもいい」

「質問も」

「答えないと、答えない意味を勝手に足される」

 七瀬が撮影機の電源を切った。

「だから、答えない状態も記録する」

「何て」

《未回答》。賛成でも反対でもない」

 鋼管が鳴った。

 コン。

 コン、コン。

 コン。

 三人とも黙る。

 今度は外から叩いていない。

 タマキは時計を見る。

 午前二時三十八分。

 七瀬が過去の記録紙を並べる。

 二月十八日、午前六時十四分。

 二月十九日、午前七時九分。

 二月二十日、午前五時四十二分。

 二月二十一日、午前十一時二十七分。

 二月二十三日、午前九時三十八分。

「全部、窓札が変わる前」

 タマキが言う。

「正確には、三分から九分前」

「配管を叩いてから、窓へ布を出す?」

「または、配管の操作によって窓の布が必要になる」

「漏水?」

「可能性」

 迅が毛布を脱いだ。

「轟を起こす」

「寝かせて」

「建物の話」

「右肩、痛めてる」

「痛いと寝言で答える?」

「迅よりは」

 轟は起きていた。

 幕舎の奥で、塔の配管図を裏返している。

「古い図面が嘘をついてる」

「図面は喋らない」

 タマキ。

「だから訂正しない。人間より厄介だ」

 轟が床へ広げたのは、建設時の原図ではなかった。

 住民が三年前に作った給排水修理表。

 余白へ、別の色で細い線が足されている。

「ここ」

 塔の七階から、内壁沿いに地下へ下りる線。

「正規の排水管じゃない。洗濯水の再利用管だ。生活排水を濾して便所へ回してる」

「住民が作った?」

「継ぎ手の型が階ごとに違う。工事業者なら揃える。中の人が、手に入る部品で少しずつ伸ばした」

「音、通る?」

「水が流れてなければ、正規管より通る」

「どこへ」

 轟は地下ポンプ室の脇を指した。

「ここ。廃止された点検槽」

「外から入れる?」

「図面では塞がってる」

「図面が嘘なら」

「現物へ聞く」

 午前四時一分。

 轟、タマキ、迅、七瀬は、塔の南側へ回った。

 地下点検槽の外蓋は、雪と泥の下にあった。

 直径七十センチ。

 中央の取っ手は錆び、周囲へ古いコンクリートが盛られている。

 轟は手袋を外し、蓋の縁を指でなぞった。

「一度、開いてる」

「いつ」

「十年以内」

「幅が広い」

「錆は日付を言わない」

 縁の一部だけ、コンクリートが薄い。

 工具の痕がある。

 それを隠すように、灰色の泥を塗っている。

「内側から?」

 七瀬。

「両方」

 轟は泥の剥がれ方を見る。

「外から開けた痕が古い。内側から押した痕が新しい」

 タマキは蓋へ耳を当てた。

 地下から、水滴。

 遠いポンプ音。

 さらに、人の咳。

「いる」

 迅の手が蓋へ伸びる。

 轟が手首を止めた。

「開けるな」

「人がいる」

「中から開けようとしてる」

「手伝う」

「外が先に動いたら、押し返したことになる」

 迅は手を引いた。

 内側で金属が鳴る。

 一回。

 二回。

 三回。

 止まる。

 タマキが地面へ数字を書く。

「三。階?」

「この管は七階から地下までつながってる」

 轟。

「じゃあ、三は何」

 七瀬が記録紙をめくる。

「三回の後、窓札が変わった例を分ける」

 五件。

 最初の三回は共通。

 その後の二回、四回、一回が異なる。

 タマキは塔を見上げる。

「最初の三は、呼び出し」

「根拠」

「全部にあるから」

「全部にあるものが呼び出しとは限らない」

「始まり、でもいい」

「書き方を変える」

 七瀬は《呼び出し》を消し、《共通前置き》と書いた。

 タマキは少し不満そうだった。

「意味がない」

「意味が分からないという意味がある」

「便利な言葉」

「便利だから乱用しない」

 内側から、さらに音。

 二回。

 間。

 四回。

 タマキが過去記録へ指を走らせた。

「三、二、四」

「今日初めて」

「返事が必要?」

「能動打診は停止した」

「でも、相手から来た」

「受信と返信は別」

 迅が言う。

「また聞くだけ?」

 タマキは木槌を出さなかった。

 代わりに、自分の硬貨を一枚、蓋へ置いた。

 指で弾く。

 チン。

 一回。

 軽い音。

 鋼管の打音と区別できる。

「誰から」

 タマキが小声で言う。

「外のタマキから」

「誰へ」

「中で叩いた人へ」

「何のため」

「聞こえた、とだけ」

 硬貨をもう一度弾く。

 一回。

 内側は静かだった。

 十分。

 二十分。

 迅は壁へ背を預けた。

 七瀬は肩を冷やしながら記録を続けた。

 轟は蓋の周囲を掘り、開閉方向だけを確認した。

 午前四時三十七分。

 内側から、硬いものが蓋へ触れた。

 チン。

 一回。

 硬貨に近い音。

 タマキは笑わなかった。

 笑えば、意味を足す気がした。

「聞こえた、だけ」

 七瀬が書いた。

 午前六時十五分。

 仮設幕舎へ戻ると、凱と真琴と由良が待っていた。

 机の上には、七瀬の窓札記録が日付順に並ぶ。

 タマキの配管音記録は、音の間隔ごと。

 轟の配管図は、正規線と住民改造線で二色。

 情報は多い。

 意味は少ない。

「まず分類する」

 真琴が言った。

「支持、反対、中立」

「駄目」

 由良と七瀬が同時に言った。

 真琴は眼鏡を押し上げる。

「承知している。あえて、最初に最悪の分類を提示した」

「何のため」

 タマキ。

「全員が否定しやすくするためだ」

「自分が賢く見えるためじゃなく?」

「その効果も否定しない」

 迅が椅子へ座る。

「分類しない」

「それでは運べない」

 真琴。

「何を」

「情報を」

「そのまま運べ」

「百件の記録をそのまま現場へ持ち込めば、必要な時刻に必要な判断ができない。分類は削る行為だが、削らないことも判断の放棄になる」

「長い」

「要するに、何を捨てたか書いて分類する」

 七瀬が紙を三枚置いた。

《生活》

《危険》

《意思》

「同じ札が複数へ入ってよい」

 白布、上下二度。

 これまでは救難信号と推定されていた。

 配管音の直後、白布が出た例は四件。

 うち三件は、その後に湯気が窓から増えている。

 轟が言う。

「湯沸かし用の水量不足」

 由良が窓位置を見る。

「四階は乳児がいる家。九階は透析をしてる爺さん。十一階は共同炊事場」

 白は救難ではなく、沸騰水の優先配給を求める生活札だった。

「でも一件、湯気が増えてない」

 タマキ。

「八階西」

 七瀬。

「板札《介入不要》と同じ窓」

「医療?」

「断定しない」

 青布。

 右寄せ。

 洗濯ばさみ二つ。

 配管音は、共通前置きの後に二回。

「再利用管の異常」

 轟が言う。

「洗濯だけじゃない。便所用の濾過水が止まってる階」

 赤布。

 右寄せ。

 三つ。

 迅へ「来るな」と言った窓。

 配管音は、共通前置きの後に一回、長い間、三回。

「人が来るな」

 迅。

「それだけじゃない」

 由良が七階の住民表を見る。

「ノノの隣は、夜勤明けの看護師。向かいは高熱の老人。廊下へ人が集まるな、かもしれない」

「迅だけじゃない?」

 タマキ。

「迅を代表にしてる可能性はある」

「名誉」

 迅。

「迷惑の代表だ」

 凱。

「同じ」

「違う」

 分類が進む。

 支持でも反対でもない。

 水。

 熱。

 病人。

 乳児。

 漏水。

 睡眠。

 配給の遅れ。

 廊下を空けてほしい時刻。

 生活の情報は、政治的な意思より細かかった。

 そして、政治的な意思と無関係ではなかった。

 水が届いている人間は、配給制度を支持しやすい。

 診療を受けるため許可札を求められた人間は、同じ制度を嫌う。

 久我の警備がなければ外から襲われると思う人間は、鍵の集中を受け入れる。

 鍵がなければ自分の部屋へ戻れない人間は、その安全を檻と呼ぶ。

「生活と意思を分けたら、嘘になる」

 タマキが言った。

「分けないと、生活の困り事を投票へ変える」

 七瀬。

「両方へ入れる?」

「入れる。ただし、同じ一件だと分かる印をつける」

 真琴が細い二重線を引いた。

「法では、同じ事実が複数の意味を持つことを嫌う」

「生活は?」

「法より先にある」

「名言?」

「苦情だ」

 分類表ができても、音の意味はまだ仮だった。

 タマキは、仮を本物の顔で使わないため、外側に小さな配管を組んだ。

 轟が廃管を三本。

 水務隊が弁を二つ。

 七瀬が時刻計。

 真琴が札。

 一号管へ水を満たす。

 二号管は半分。

 三号管は空。

「叩く人、見ない」

 タマキは背を向けた。

「誰が叩いたか分かると、音より人を読むから」

「おまえも顔で決める?」

 迅。

「顔じゃない。癖。轟は強い。七瀬は間隔が正確。迅は面倒で一回しか叩かない」

「正解」

「まだ叩いてない」

 最初の音。

 コン、コン。

「二号。水半分。叩いたの七瀬」

「管は二号。叩いたのは私ではありません」

 振り返ると、真琴が木片を持っていた。

「間隔、七瀬に似てた」

「法文を読み上げる間を一定にする訓練の結果です」

「似るんだ」

「人を消して音だけ読む試験で、人を推定した」

 七瀬が記録する。

《音響判定は、既知人物の癖による補完が混入する。》

「失敗?」

「条件が増えた」

 二回目。

 カン。

 短い高音。

「三号。空。迅」

「違う」

 叩いたのは水務隊の若い技師だった。

「迅は」

 塔を見ている。

「面倒で参加してない」

「それは当たった」

「判定対象ではありません」

 真琴。

 三回目。

 低い音が二つ。

 最後に、小さな震え。

「一号。満水。轟」

 正解だった。

「なぜ」

 七瀬。

「音じゃない」

「何」

「地面」

 轟が叩くと、管だけでなく荷重板も揺れる。

「音響試験で振動を使った」

「配管の合図も、壁と床へ来る」

「では、記録項目へ振動を追加」

 タマキは不満そうに帽子を直した。

「正解したのに」

「方法が分かったから、次も使える」

「褒めて」

「褒める。音だけではなく、振動まで読んだ」

「長い」

「正確」

 試験を十回。

 タマキが音だけで当てたのは六回。

 振動を足して八回。

 叩いた人まで当てようとすると五回へ下がった。

「人を足すと外れる」

 迅。

「人間の話なのに」

「だから、合図の意味と送った人を分ける」

 七瀬は分類表へ新しい欄を作った。

《音響上の推定》

《生活記録との一致》

《発信者確認》

《未確認》

 午前八時十七分。

 塔の配管が鳴った。

 三回。

 二回。

 長く一回。

 タマキは表を見る。

「十一階。炊事用水、停止」

「根拠」

 七瀬。

「三は共通。二は再利用管。長い一回は止める」

「十一階の根拠は」

「直前に白布が十一階」

「白布は湯」

「湯を止める合図」

「または湯が必要」

 タマキは迷った。

 久我の配給時刻が近い。

 共同炊事場で大量の湯を使えば、下階の医療水が減るかもしれない。

「止める」

 タマキは外側の共鳴箱で、停止の返答を送った。

 三分後。

 十一階の窓が開く。

「誰だ、湯を止めろって返したの!」

 年配の女が鍋蓋を振っている。

「外のタマキ!」

「こっちは湯が足りないって言ったんだよ!」

 タマキの肩が落ちた。

「逆」

 迅。

「分かってる」

 炊事場は一度、火を止めていた。

 麦粥の鍋が冷えかける。

 再点火すれば燃料を余計に使う。

 朝食が十五分遅れる。

 塔内の人間にとって、タマキの誤読は紙の上の間違いではない。

 温かい食事が遅れる。

「訂正を」

 七瀬。

「俺が送る」

「内容」

「さっきの停止は外の誤読。取り消し。必要な湯量をもう一度」

「謝罪は」

「入れる」

「音で?」

「できない」

 タマキは大きな紙へ書いた。

《十一階。外のタマキが「湯不足」を「湯停止」と誤読した。停止返答を撤回する。朝食を遅らせた。すみません。必要量を別の形で示してほしい。》

 紙を塔へ向ける。

 年配の女は望遠鏡で読む。

 鍋蓋を一度、頭上へ上げた。

「許した?」

 迅。

「分からない」

 タマキ。

「受け取っただけかもしれない」

「学習した」

「した」

 十一階から、白布の横へ三つの椀が出た。

 必要量を、椀三杯として示している。

 水務技師が概算する。

「一椀二百五十。三つなら七百五十ミリ」

 由良が首を振る。

「共同炊事場の椀は大きい。四百」

「どっち」

「容器を見せてもらう」

 タマキは同じ大きさの椀を、外から三種類掲げた。

 十一階の女が、一番大きい物を指す。

「一・二リットル」

 必要量が確定する。

 タマキは分類表へ書き足した。

《音だけで量を決めない。単位を双方で見せる。返答が行動を要求する場合、発信者の再確認を待つ。》