第208話 第六章「内側からの合図」後編
「規則、増えた」
迅。
「質問を三つで止める規則もある」
「どっち優先」
「相手が寝てる時は、止める」
「生活」
「そう」
朝食は十五分遅れた。
十一階の女は、遅れた時刻と燃料の追加量を紙へ書き、窓へ出した。
責めるためだけではない。
外の誤読が、内側で何を変えたかを返すためだった。
タマキはその紙を、自分の分類表の一番上へ貼った。
正解した音より、間違えた粥の方を先に見るために。
午前八時四十三分。
久我から通信が来た。
『外部の打音を停止したことは評価する』
七瀬が送話器を取る。
「夜間に乳児を起こした。停止要求を受けたため止めた」
『評価の理由は問うていない』
「記録の理由として答えた」
『そちらは何でも記録する』
「何でもではない」
『撮らないものも選ぶ』
「選んだことを残す」
久我は一拍置いた。
『地下蓋へ触れるな』
タマキが送話器の近くへ寄る。
「誰から」
『久我檻から』
「誰へ」
『塔外の全員へ』
「何のため」
『地下蓋は給水設備の一部だ。外から開けば汚染経路になる』
「中から開くのは」
『認めない』
「理由」
『保安』
「保安って、誰を何から」
『塔内住民を、外部侵入から』
「住民が外へ話しに来たい場合は」
『私を通せ』
「通したくない場合は」
沈黙。
久我の声が、少し低くなる。
『安全を担保できない』
「安全を担保できないと、話せない?」
『話した結果、報復を受ける可能性がある』
「誰から」
『外からも、内からも』
「じゃあ、誰にも知られない話し方は」
『ない』
「作る」
『許可しない』
「久我に許可を取らない方法を聞いてる」
真琴がタマキの肩へ手を置いた。
「質問を重ねすぎるな」
「でも」
「答えない権利を、相手にも使わせろ」
タマキは口を閉じた。
通信の向こうで、久我が息を吐く。
『地下設備の損傷は、全員の水へ影響する。そこだけは交渉しない』
通信が切れた。
「正しい」
轟が言った。
「何が」
「外から蓋を開けるな。汚染経路になる」
「じゃあ、接点は」
「内側から開く」
「久我が認めない」
「久我に開けさせるとは言ってない」
轟は住民改造線の終端へ、丸をつけた。
「この点検槽、正規のポンプ室とは壁一枚で分かれてる。けど住民が再利用管を通した時、壁の下を削ったはずだ。改造痕から見ると、人一人が這える」
「中の人だけが使える道」
由良。
「外からは?」
「蓋を開けなければ入れない」
「内側からは」
「自分で蓋を押せる」
タマキは配管音の紙を見る。
三、二、四。
「三が共通前置き。二が再利用管。四は」
「時刻かもしれない」
七瀬。
「四時は過ぎた」
「四回目の配給後」
「四人?」
「四階?」
可能性が増える。
増えた可能性を、答えとは呼べない。
午後零時十分。
塔の窓に、布が出た。
七階。
青布を左寄せ。
洗濯ばさみ一つ。
由良が息を止める。
「左寄せは、設備を使う」
「一つは」
「一人」
配管が鳴った。
三回。
二回。
四回。
続けて、十二回。
七瀬が時計を見る。
「十二時」
「今?」
「現在、十二時十一分。厳密には過ぎている」
「十二時台」
「または十二階」
タマキは窓を見る。
青布の下へ、細い白い糸が一本垂れた。
先端に、金属の輪。
由良が望遠鏡を借りる。
「ポンプ室の旧鍵」
「知ってる?」
「ノノの腰に昔、同じ輪があった。鍵は錆びて使えない。設備係の印だ」
「一人。設備。十二時台」
タマキが言う。
「来る」
「断定は」
七瀬。
「しない。でも、待つ」
待つ場所も、外側だけでは決めなかった。
地下点検槽の周囲には、古い消毒石の溝がある。
人が近づけば、靴底の泥が溝へ落ちる。
轟は溝の幅を測った。
「ここから内へ、靴を入れない」
「蓋が開いたら話が聞こえない」
タマキ。
「相手が出る」
「出られなかったら」
「声を張る」
「秘密の話なのに」
「じゃあ、蓋の隙間へ筒」
由良が、使っていない索筒を出した。
革を巻いた細い筒。
口元を当てれば、地下の音だけを拾える。
七瀬が止める。
「筒を差し込む行為が、外からの侵入になる可能性があります」
「じゃあ、置く」
由良は筒を溝の外へ置いた。
内側の人が必要なら、自分で取れる距離。
届かなければ、使わない。
タマキは紙を一枚、四つに折った。
一面目。
《誰から》
二面目。
《誰へ》
三面目。
《何のため》
四面目には、何も書かなかった。
「四つ目、空白?」
迅が遠くから聞く。
「三つで止める」
「聞きたいこと、残る」
「残す」
「忘れたら」
「忘れるくらいなら、今すぐ必要じゃない」
七瀬は別の紙へ、記録条件を書いた。
《映像なし。》
《音声は本人確認後に継続。》
《停止の一言で停止。》
《消去を求められた場合、消去した時刻だけ残し、内容を残さない。》
「最後、消した時刻を残すのはなぜ」
タマキ。
「都合の悪い発言を私が勝手に消した、と後で言われた時のため」
「消した人の名前は」
「本人が望まなければ残さない」
「時刻だけで、何が分かる」
「記録が完全ではないこと」
完全でない記録は、弱い。
だが、完全に見える記録は、もっと強く人を閉じ込めることがある。
轟は地下図を床へ広げた。
再利用管が通るはずの壁下には、三本の経路候補がある。
一つ目は、建設時の排泥溝。
二つ目は、住民が後から掘った石鹸水の戻り道。
三つ目は、図面にない空洞。
「空洞?」
タマキ。
「打音が返らない場所」
「人、通れる?」
「分からん」
「さっき、人一人が這えるって」
「改造痕の幅。途中まで」
「途中から狭かったら」
「来ない」
「途中で詰まったら」
「内側が助ける。外は位置を知らない」
「危ない」
「だから、来る人がいると決めない」
タマキは待つと言った自分の言葉を見た。
待っている人間は、相手が来ることを期待する。
期待は、来なかった人へ失敗を負わせる。
彼は分類表へ書き足した。
《接点が開かなかった場合、塔内側の拒否・失敗・拘束のいずれとも断定しない。》
「長い」
迅。
「迅が短い」
「遠くても聞こえる」
「声、大きい」
由良は地下図へ耳を近づけた。
壁の向こうを、人が這う音はしない。
代わりに、水滴。
三秒。
五秒。
七秒。
「誰か来てる?」
タマキ。
「水」
「人かも」
「人なら、速さが揃わない」
「止まってる人かも」
「そう思うと、全部が人に聞こえる」
由良は耳を離した。
斥候は、いるものを見つける仕事だ。
いないものをいることにしない仕事でもある。
七階の青布が、一度だけ畳まれた。
連絡が終わったのか。
準備が始まったのか。
ただ風が弱くなったのか。
四人は意味を足さなかった。
地下で誰かが進んでいるとしても、その人の物語は、蓋が開くまで外から書かなかった。
午後零時四十七分。
地下点検槽の周囲から、人員を下げた。
残ったのは、タマキ、七瀬、由良、轟。
迅は三十歩離れた雪壁の陰。
凱と真琴はさらに遠く。
武装した水務隊と境界警備は、視界から外した。
七瀬は撮影機を地面へ置いた。
レンズを布で覆う。
「記録は」
タマキ。
「音声だけ。相手が拒否したら切る」
「顔は」
「撮らない」
「来た証拠は」
「来た本人が決める」
轟は蓋へ触れず、周囲の雪だけを除いた。
開いた時に泥が内へ落ちないよう、布を敷く。
由良は赤索を腰から外した。
「使わない?」
「帰る場所を、先に決めたくない」
タマキは硬貨を蓋へ置いた。
一回、弾く。
チン。
返事はない。
五分。
十分。
塔の正面で、久我の放送が始まった。
『地下設備周辺の外部人員は退去しろ』
四人は動かない。
『汚染の責任を負える者はいない』
轟が小声で言う。
「負える者はいない。だから汚さない準備をした」
久我の声が強くなる。
『最後の警告だ』
地下で、金属が擦れた。
蓋が一ミリ持ち上がる。
外からは誰も触れない。
内側の手が、重い蓋を押している。
隙間から、湿った空気が出た。
鉄と石鹸と、古いポンプ油の匂い。
蓋は二センチで止まる。
指が見えた。
節の太い、年老いた指。
爪の脇に、黒い油。
「手伝わない」
轟が言った。
「分かってる」
タマキ。
指が一度、引っ込む。
また押す。
蓋が五センチ。
中から、かすれた女の声がした。
「外の坊主」
タマキは身を乗り出さない。
「誰」
「水巻ハツ。六十八。ここのポンプを、あんたが生まれる前から直してる」
「誰へ話す」
「まず、質問の多い坊主へ」
「何のため」
「質問を三つで止めさせるため」
由良が口元を押さえた。
笑いを隠すためだった。
蓋がさらに上がる。
水巻ハツは肩を横にして、狭い隙間から顔を出した。
短い白髪。
透明な四角い眼鏡。
頬にポンプ油の黒い線。
彼女は外の四人を順に見た。
撮影機のレンズが布で覆われていること。
武装者がいないこと。
轟が蓋へ手を出していないこと。
由良の赤索が地面に置かれていること。
「一人で来た」
「確認した」
七瀬。
「顔は撮るな」
「撮らない」
「声は」
「記録している。止める?」
「後で私が聞く。気に入らなければ消す」
「了解」
ハツは蓋を自分の背で支えたまま言った。
「久我を追い出せ、って話なら帰る」
由良が答える。
「残せ、って話でも決めない」
「じゃあ何を決める」
「誰が決めるか」
ハツは鼻を鳴らした。
「それを決めるのに、みんな困ってる」
塔の放送器から、久我がハツの名を呼んだ。
『水巻。戻れ』
ハツは振り返らない。
「檻は、私を見つけるのが遅い」
「逃げる?」
タマキ。
「違う」
ハツの手が、蓋の内側へ掛かる。
「会議を始める」
彼女は蓋をもう一度、自分の力で押し上げた。
外から開けられた入口ではなかった。
内側の人間が、話すために作った隙間だった。