第374話 第五章「迅の顔が増える」後編
「条例にする?」
「しません」
「即答」
「すべての暴力を予告制にすれば、予告できない救助まで違反になります」
「子どもの案を一息で壊すな」
「壊していません。適用範囲を」
「長い」
少年はもう聞いていなかった。
七瀬は、今の会話を撮っていない。
代わりに、路面へ残った二種類の足跡を紙へ写した。迅の一定した歩幅と、少年が途中で止まり、戻り、また進んだ跡。
「顔を使わない訂正です」
「俺の靴、勝手に使った」
「歩幅だけです」
「俺の」
「公開する前に確認します」
「映像より丁寧」
「映像にも必要でした」
七瀬の右手は、紙へ時刻を書きながら止まった。
「速度を変えています」
「映像は変えてない?」
「一秒当たりの表示枚数を減らしているだけ、と説明するでしょう」
「走って見える」
「はい」
「嘘?」
「はい」
七瀬は初めて、短く言った。
午後一時十二分。
市民記憶庫の小会議室。
七瀬は訂正映像の原版を、封をした箱へ戻した。
石英綺理がラベルを書く。
《撮影者:火群七瀬》
《被写体:竜胆迅》
《目的:現在位置の訂正》
《結果:目的外参照により関連映像増加》
《公開停止》
「失敗、って書かないんですか」
七瀬が訊く。
「何が失敗したの」
「訂正です」
「迅が一人だと示した」
「同時に、素材を増やしました」
「二つ書いた」
綺理はラベルの二行を指した。
「失敗って書くと、全部同じ箱になる」
「私は、撮れば訂正できると思いました」
「思ったことも貼る?」
「必要です」
「本人のラベルに、撮る人の反省を大きくしないで」
七瀬は一拍黙った。
「迅の箱ではありません」
「映ってる」
「私の撮影記録です」
「だから、誰の箱?」
「共同です」
「共同は、持ち主が増える。持ち主が消える言葉にもなる」
綺理は、箱の中央へ一本線を引いた。
左に七瀬。
右に迅。
下に《監視端末が作成した派生映像》。
「三つに分ける」
「派生映像の所有者は」
「分からない」
「運用者です」
「運用者の誰」
七瀬は、停止申請の記録を机へ置いた。
《申請者:公衆端末》
《審査者:中央運用》
「分かりません」
「じゃあ、箱を持てない」
「ログを請求します」
「名前まで?」
「閲覧者、通報者、優先順位変更者。すべてです」
綺理はガラス棒を一度鳴らした。
「監視員の顔も出す?」
「顔は不要です。氏名か、責任を追える識別子」
「辞めたら追える?」
「勤務記録を残します」
「家に帰ったあとも?」
「違法な閲覧なら」
「違法って、誰が決めるの」
「規則と審理です」
「画面を伏せた人も同じ一覧?」
「拒否記録は区別します」
「最初から?」
「何が言いたいんですか」
「七瀬は、見た人を見たい」
「責任のためです」
「薄墨も、安全のためって言う」
「同じにしないで」
「同じじゃない。似た言葉」
綺理は箱の蓋を閉じる。
「誰かの名前を出せば責任になる時と、出した名前へ全部を乗せる時がある」
「匿名なら、逃げます」
「実名なら、戻らないこともある」
「だから、公開範囲を分けます」
「分ける人は誰」
七瀬は答えようとして、止まった。
外の廊下で、イオが止まった時計を分解している。
秒針のない時計。
音だけが三つ、机越しに届く。
「監視員本人も含めます」
「薄墨は?」
「含めます」
「見られた人は?」
「含めます」
「見なかった人は?」
「記録します」
「名前?」
「選べるようにします」
「今、決めた?」
「はい」
「遅い」
「それは、今日二十三回目に聞きました」
「数える人が増えた」
綺理の口元が、ほんの少し動いた。
午後三時五十六分。
東部監視運用所は、閲覧ログの開示請求を拒否した。
《拒否理由:監視従事者の個人情報、報復危険、運用保安》
真琴が文書を三枚並べる。
「どれも理由として成立します」
「だから、見られない?」
迅。
「現行規則では」
「規則が悪い?」
「規則を読んだ者へ、便利すぎます」
「薄墨」
「薄墨一人へ全部を集めないでください」
「集めてない。呼んだ」
迅は運用所の壁面端末を叩かず、呼出欄へ一文字ずつ入力した。
《薄墨影治》
端末が応答する。
《該当する公認従事者はいません》
「いない」
「公認ではないのでしょう」
七瀬は拒否文書を見る。
最下部の発行者欄。
《東部監視管理組合・自動文書》
「また、誰もいません」
「いる」
真琴が文書の左端を指す。
「申請を受け取った端末番号。審査規則を登録した部署。個人情報保護を根拠にした法務担当。自動文書は、空から降りません」
「名前は」
「非公開です」
「役に立たない」
「あなたよりは」
「比べられないくらい?」
「その台詞、流行らせないでください」
七瀬は壁面端末へ近づいた。
肩が痛む。
腕を上げる必要はない高さだったが、身体は先に拒んだ。
右手で申請欄を開く。
《開示対象》
一、監視員氏名。
二、住所。
三、勤務外行動。
四、家族情報。
五、その他。
「選択肢が脅迫みたい」
タマキ。
「氏名を求めると、住所や家族まで求める側に見せます」
真琴。
「欲しいのは?」
「閲覧した担当席。判断時刻。変更理由。承認経路。本人が公開を選ぶ場合だけ氏名」
七瀬は《その他》へ書いた。
送信。
すぐに拒否。
《既に同内容の申請が処理されています》
「速い」
迅。
「読むより速いです」
「俺より?」
「今日は負けています」
午後四時三十七分。
訂正映像の拒否通知は、一枚では終わらなかった。
東部記録所の受信箱へ、二十三件の異議が届く。
《危険人物と同じ歩幅と判定された》
《診療所で呼出を断られた》
《店へ入ると警戒音が鳴る》
《子どもが顔を真似して殴るふりをする》
《本人は竜胆迅ではない》
「最後、必要?」
迅。
「最初に必要です」
七瀬。
「俺でも、困る」
「あなたの場合は、別の確認が要ります」
「本人なのに」
「本人であることと、映像の行為をしたことは別です」
「真琴みたいになった」
「撤回してください」
異議のうち、三件は同じ場所からだった。
南環市場の硝子店。
波佐間啓吾が店の入口へ、白い布を下げている。
《危険人物照合中は入店をお断りします》
迅が布の前で止まった。
「俺、入れない」
「あなた向けではありません」
波佐間は店内から言う。
「顔、俺」
「昨日から、灰色の上着を着た客が入るたび警戒音が鳴る。客同士が疑う。硝子を見に来て、他人の顔色ばかり見る。だから全員止めた」
「商売は」
「止まった」
「監視で窓は守れた?」
「今は、監視から店を守ってる」
波佐間が白布を少し上げた。
「七瀬だけ」
「迅は」
「外」
「同行者です」
「危険人物照合中」
「本人です」
「だから、もっと外」
迅は店先の椅子へ座った。
「差別」
「商売上の安全策」
「店主、強い」
「殴るなよ」
「まだ」
「その言葉を入口で使うな」
七瀬は中へ入った。
店内の硝子板へ、迅が何十人も映る。
外の椅子で、同じ姿勢。
波佐間は一枚の伝票を出した。
「今朝、警戒音で帰った客。窓の修理を頼みに来た。家の窓が割れた理由を、店内で話したくなかったらしい」
「理由は」
「知らない。言わなかった」
「監視端末は」
「《危険人物と同時入店》を記録した」
「同時ではなく、迅は外です」
「顔照合は店の外まで画角に入る」
「客の映像を確認できますか」
「できる。見れば」
「本人の同意は」
「帰った」
「では見ません」
「記録者が見ない?」
「今、必要なのは映像ではなく、警戒音が鳴った時刻と、修理依頼が成立しなかった事実です」
「顔を見れば、客を探せる」
「探してよいか決まっていません」
「窓は割れたまま」
「急ぎなら、匿名の修理受付を出せます」
「誰の家か分からず、どう行く」
「受取場所を客が指定する」
「タマキの仕事」
「はい」
外から声がする。
「料金、取る」
「聞いていましたか」
「硝子、薄い」
「聞こえるよう作った」
波佐間。
七瀬は伝票の裏へ書く。
《匿名修理受付》
《被写体映像を閲覧せず、依頼者が受取場所を指定》
《警戒音発生による不成立分は、店側の損失として別記》
「映像を見れば、早い」
波佐間。
「はい」
「見ないと、面倒」
「はい」
「面倒を誰が払う」
七瀬はすぐ答えられない。
波佐間が言った。
「見ない正義は、見た方が早い人へ仕事を増やす。そこまで書け」
七瀬は欄を一つ加えた。
《非閲覧による追加労働》
「費用負担は」
「未定です」
「それも」
書く。
外の迅が、椅子の脚を一度鳴らした。
「客」
通りの向こうに、灰色の上着の人影。
白布を見て止まる。
顔は布帽子で隠れている。
波佐間が店から出ない。
「修理?」
七瀬が声を掛ける。
人影は頷いた。
「撮影しません。名前も聞きません。受取場所だけ、タマキへ伝えられます」
「画面に出た?」
低い声。
「確認していません」
「どうして」
「確認する許可をもらっていません」
人影は長く迷った。
「窓、二枚。寝室」
「理由は不要です」
「石を投げられた」
本人が、自分から言った。
「警戒人物と同じ家だって」
「迅の?」
「似てる弟が住んでる」
迅が椅子から立つ。
相手が一歩退く。
迅も止まる。
「近づかない」
「画面では、殴ってた」
「何を」
「分からない」
「分からない映像で、窓割られた?」
「そう」
「ごめん」
「おまえが?」
「俺の顔」
「顔へ責任あるの」
七瀬が訊く。
「今日は、あるらしい」
「凱の真似」
「流行ってる」
人影は、笑うかどうか迷い、笑わなかった。
タマキへ受取場所を伝える。
硝子代は、市の補償申請と、監視運用側の暫定負担へ分ける。
認められるかは未定。
波佐間は白布を外さない。
迅も店へ入らない。
その代わり、外の椅子で二枚の硝子を運ぶ木枠を組み始めた。
「できる?」
波佐間。
「箱は得意」
「列車の?」
「いろいろ」
「釘、曲がってる」
「顔じゃなく手を見ろ」
「見てるから言った」
午後五時十一分。
匿名修理の受取札が、一枚戻った。
《寝室窓二枚》
《受取完了》
《映像閲覧なし》
《追加労働:運搬二名・経路確認一名・現地待機十九分》
七瀬は、その十九分を訂正映像へ変えなかった。
見る代わりに増えた仕事を、見えないままにはしなかった。
記録所へ戻り、閲覧ログの開示申請へ添付する。
送信。
すぐに拒否。
《既に同内容の申請が処理されています》
端末の画面が暗くなる。
そこへ、薄墨の顔が映った。
煤色の上着。
片側だけ濃い遮光眼鏡。
背後は、白く潰れている。
『訂正映像は、よく撮れていた』
「使わないでください」
『既に使われた』
「誰が」
『制度が』
「主語」
『便利だろう』
「あなたが使いましたか」
薄墨は答えない。
七瀬は画面の光量を下げた。彼の光過敏へ配慮したのではなく、背景の白飛びを減らすためでもある。
白の奥に、棚の縦線が現れた。
『探す癖は変わらない』
「あなたは、私へ匿名で情報を送りましたね」
真琴とタマキが七瀬を見る。
迅だけは、画面を見たまま動かない。
『質問の順番が悪い』
「十二歳の時から。母のフィルムに欠落があること。編集機の型番。救助映像の時刻差。差出人は毎回違いました」
『役に立った』
「はい」
『礼は』
「あなたが誰か分からない状態で、礼を求めないでください」
『今は分かる』
「では、名乗ってください」
『薄墨影治と記録されている』
「あなたが名乗って」
薄墨の口元が歪む。
『俺が送った』
初めて、主語が出た。
「理由は」
『灯里の記録が、全部一つの善行に編集されるのが嫌だった』
「自分の編集を隠したまま?」
『隠さなければ届かなかった』
「届いた後も隠れました」
『生きるためだ』
「他人の生活を見ながら」
『見なければ、事件は減らなかった』
「減った事件と、増えた監視を同じ数字にしないで」
『同じ街だ』
「同じ記録へ置きます。相殺はしません」
『きれいな言い方だ』
「あなたに教わりました。切り離すと、嘘になる」
薄墨の顔が、一瞬だけ近づいた。
『ログを出せば、低賃金の監視員へ報復が行く』
「氏名の一括公開は求めていません」
『今日、求めた』
「訂正しました」
『映像には残った』
「だから、訂正も残します」
『また素材を増やす』
七瀬の右手が、撮影機へ動きかける。
止めた。
「今は撮りません」
『怖いか』
「増やしたくない」
『同じだ』
「違います」
『画面の中では、どちらも暗い』
薄墨は、朝の豆袋の男の言葉を使った。
この会話も、どこかで見ていた。
「あなたは、全部見ているつもりですか」
『必要なものを』
「必要と決めたのは」
画面が消えた。
返事の代わりに、端末の下部へ一件の通知が出た。
《閲覧ログ開示申請:却下》
《判断者:中央運用》
七瀬は、その画面を撮らなかった。
時刻を紙へ書いた。
紙の下に、空白を一行残した。