第373話 第五章「迅の顔が増える」前編
九月十八日 午前六時四十一分
竜胆迅は、同じ朝に七人いた。
一人目は東環橋のたもとで、閉店した薬局の鎧戸へ拳を向けている。
二人目は南の共同食堂で、配給鍋の列へ割り込んでいる。
三人目は第八診療所の裏口から、白い箱を抱えて走り去る。
四人目は旧広告塔の鏡廊下へ入る。
五人目は西市場の硝子店前で、店員の肩をつかむ。
六人目は鉄道側線で赤い連結錠を殴る。
七人目は、火群七瀬の横に立っていた。
「増えましたね」
七瀬が言う。
「食費も七倍?」
「犯罪歴が七倍です」
「減らして」
「本人に言われても」
東部環状路の広場に、臨時の監視掲示板が三枚並んでいた。
中央の板には、七つの迅が二秒ずつ切り替わっている。
《危険人物・同時出現照合中》
《類似行動を発見した場合は接近せず通報してください》
どの映像も偽物ではない。
薬局の鎧戸は昨日、迅が固定具の緩みを確かめた時の映像だった。拳ではなく、指の背で鉄板を叩いている。
共同食堂では、低血糖で倒れかけた小麦の代わりに鍋を受け取った。列へ割り込んだのではなく、厨房側から呼ばれた。
第八診療所の白い箱は、返却期限を過ぎた冷却材。
硝子店では、落ちてきた看板から店員を引いた。
赤い連結錠は何か月も前に壊している。
撮影時刻は、それぞれ違う。
季節も違う。
迅の学ランの破れ方さえ違う。
しかし、掲示板の下部に時刻は出ていなかった。
画面の右端には、小さな文字で《関連映像》とだけある。
「嘘ではありません」
七瀬は言った。
「じゃあ、本当?」
「順番が嘘です」
「映像は正直って言ってた」
「言っていません」
「顔がそう言う」
「あなたの顔は何を言っていますか」
「七人分、眠い」
迅は欠伸をした。
掲示板の赤い警戒枠が、彼の口の開きへ合わせて一段濃くなった。
《威嚇行動の可能性》
「欠伸が」
「危険なんでしょう」
「街が寝不足」
「あなたが大口を開けるからです」
広場の北側で、瓶が割れた。
七瀬が振り向く。
青い前掛けの少年が、地面へしゃがみ込んでいた。足元に透明な欠片。向かいには、両手を広げた迅の映像が流れている。
「来るな!」
少年が叫んだ。
実際の迅は、七瀬の左にいる。
「俺、ここ」
「動くな!」
「ここにいるなら、そっちは誰だ」
「映像です」
七瀬が答える。
「じゃあ、こっちも映像かもしれないだろ」
少年の手には、割れた瓶の首が残っていた。
指が震えている。
迅は両手を上げた。
右手の環指と小指が、他の指よりわずかに遅れて伸びる。
「近づかない」
「映像と同じだ」
「何が」
「両手を上げてから飛び込んだ」
「いつ」
「今朝、見た」
「撮ったのは三月です」
七瀬が掲示板へ近づく。
「そこで止まって!」
少年の瓶が七瀬へ向いた。
迅の重心が沈む。
七瀬は右手だけを横へ出した。
「動かないで」
「瓶」
「見えています」
「手、震えてる」
「あなたの右手もです」
「俺のは古い」
「彼のは今です」
七瀬は手回し撮影機を地面へ置いた。
レンズを少年へ向けない。
「あなたの名前を訊きません。瓶を置けとも、まだ言いません。映像を止めます」
「止めたら、何が本当か分からない」
「今、あなたが怖いことは分かります」
「顔が七つあるんだぞ」
「顔は一つです。映像が七つです」
「同じだ」
「同じにした人がいます」
七瀬は掲示板の停止端子へ手を伸ばさず、脇の公衆呼出器を取った。
「監視運用室。午前六時四十五分。広場中央掲示板の関連映像表示を停止してください。理由は、時刻非表示による現場誤認。代替は現地警備員の音声確認と、固定時計を含む一画面です」
『停止権限がありません』
「誰にありますか」
『中央運用です』
「担当者名は」
『個人情報です』
「受領時刻と担当席は」
『同じく非公開です』
「では、停止申請を受領した記録番号を」
『申請内容を審査中です』
「審査者は」
『個人情報です』
瓶の先が少し下がる。
少年は、七瀬より呼出器を見ていた。
「止められないのか」
「まだ」
「だったら、あんたも役に立たない」
「はい」
七瀬は言った。
迅が彼女を見る。
少年も見る。
「役に立つまで、ここにいます」
「撮るのか」
「撮りません」
「証拠がなくなる」
「瓶の破片は残ります。呼出記録も残ります。私と迅が証言します。向かいのパン屋から、店主が見ています」
パン屋の入口で、粉の付いた女が小さく手を上げた。
「顔は撮りません」
少年は瓶を置いた。
迅がすぐには近づかない。
「足、切ってる」
「見れば分かる?」
「床に血」
少年の左足首に、細い赤い線があった。
迅は自分の上着を脱ぎ、地面へ置いた。少年との間へ滑らせる。
「踏むと、もう切らない」
「近づくな」
「近づかない」
「名前は」
「竜胆迅」
「画面と同じじゃないか」
「そう」
「否定しろよ」
「俺の顔」
「何をした」
「いろいろ」
「役に立たない答えだな」
「七瀬より?」
「比べられないくらい」
少年の口元が一瞬だけ緩んだ。
午前六時四十八分。
掲示板の映像が止まった。
七人の迅が、同じ瞬間に消える。
残った画面には、文字だけが出た。
《表示停止》
《停止理由:現場混乱》
《申請者:公衆端末》
「申請者が消えています」
七瀬が言う。
「止まったからいいだろ」
少年。
「よくありません」
「細かい」
「次に止める人がいなくなります」
迅が上着の端を足で少年へ近づける。
「細かい奴がいると、道が残る」
「おまえが言うと信用できない」
「俺も」
午前八時十九分。
七瀬は東部記録所の屋上へ、十二個の時計を並べた。
一つは真壁梓から借りた。
一つは市場の魚屋から。
一つは共同浴場。
一つは鉄道保守所。
一つは壊れていて、午前二時十四分で止まっている。イオが「止まった時計も映せ」と言って置いた。
「動かない時計で訂正できるんですか」
七瀬が訊く。
「全部が同じ時刻なら、誰かが合わせたと思う」
イオは真鍮装具の刻印を指でなぞっていた。
「十一個が動いて、一個が止まっている方が、現物らしい」
「らしい、は嫌いです」
「午前八時十九分十二秒。あなたが嫌った」
「記録しないで」
「記録した」
屋上の端に迅が立つ。
七瀬は固定台を低くし、時計と迅の全身、背後の煙突、東環橋の鐘を一画面へ入れた。
「ここから南環市場まで、連続で撮ります」
「歩く?」
「はい。編集せず、各地点の時計を映し込みます。現在のあなたが同時に複数地点へいないことを示します」
「走ったら?」
「歩いてください」
「遅い」
「訂正です」
「俺が遅いと、偽物が先に着く」
「先に着かせません」
七瀬はクランクを回す。
午前八時二十分。
迅が屋上の階段を下りた。
七瀬は撮影機を右手で操作し、左肩へ負担を掛けないよう胸部支持具へ重さを逃がす。固定台はタマキが畳み、背負う。
「料金」
「後で払います」
「何の料金」
「機材運搬」
「撮られる料金は?」
迅が訊く。
「あなたが請求しますか」
「七人分」
「一人分も払いません」
「労働搾取」
「歩いているだけです」
「見られてる」
「それを訂正しています」
「訂正って、先に間違われないと仕事ない?」
「怪我人と同じ言い方をしないで」
「医者は仕事あると嬉しい?」
「ミソラに訊いてください」
「怒る」
「正確な答えです」
東環橋を渡る。
橋上の監視端末が、七瀬の撮影を検知した。
《公認記録者による訂正映像》
《関連映像へ登録しますか》
「登録しません」
七瀬は拒否欄を押す。
端末がもう一度訊く。
《地域安全の向上に協力しますか》
「質問を変えています」
「断る?」
「断ります」
《拒否理由を選択してください》
一、機材不良。
二、被写体の不同意。
三、個人情報。
四、その他。
「五、目的外利用」
七瀬は空欄へ書き込んだ。
《入力内容は改善のため保存されます》
「断った理由まで素材」
迅。
「はい」
「黙る?」
「黙ったことも記録されます」
「便利」
「誰に」
「見てる方」
南へ一・四キロ。
七瀬は、迅が一枚の画面から出ないよう追う。
露店の布が視界を遮るたび、位置を変える。肩を上げる。下ろす。右へ回る。
午前九時三分。
左肩の奥で、細い熱が走った。
撮影機の重さは支持具へ逃がしている。
しかし、視線の高さを保つため、左肘を繰り返し持ち上げていた。
「交代」
迅が言う。
「撮影者が変わると、連続性が」
「切れる?」
「はい」
「肩も切れる」
「切れません」
「顔」
「何ですか」
「機材が痛い時の顔」
「私が痛いんです」
「言った」
「言っていません」
「今」
七瀬は口を閉じた。
迅が撮影機へ手を出す。
「触らないで」
「じゃあ、止める」
「訂正映像が途中です」
「途中で止めたって撮る」
「何を」
「肩」
「撮りません」
「じゃあ、残らない」
「残します」
七瀬は録画札を一枚取り、時刻を書いた。
《午前九時四分。撮影者の左肩痛により中断。代替記録:同行者三名の位置証言、東環橋・南市場間の通行札》
クランクを止めた。
迅の顔が、映像の中で一つになる。
その直後、街角の掲示板が更新された。
《危険人物・竜胆迅の現在位置確認に協力してください》
《訂正映像提供:火群七瀬》
屋上から撮った最初の十秒。
東環橋で端末を拒否した五秒。
露店前で布を避けた三秒。
三つの迅が、別の角度で並んだ。
「増えた」
迅が言う。
「止めたのに」
タマキ。
七瀬は画面を見た。
「撮影した時点で、公開回線へ拾われています」
「登録、断った」
「地域安全端末は、公道上の公認記録者映像を緊急時に参照できる契約です」
「公認って便利」
「誰に」
迅が七瀬の言葉を返した。
七瀬は答えなかった。
画面の三人の迅が、同じ方向へ走り始めた。
自動編集は、彼が歩く映像を二倍速にしていた。
向かいの細工店から、少年が一人出てきた。
迅を見る。
画面を見る。
もう一度、迅を見る。
両手を胸の前へ上げ、拳を作った。
「こう?」
迅は拳を作らない。
「何が」
「危ない人の歩き方」
「歩き方に拳いらない」
「画面では走ってる」
「俺は歩いた」
「証拠」
少年は悪意なく訊いた。
七瀬の撮影機は止まっている。
「今、証拠を増やすと、また走らされます」
「じゃあ、ないじゃん」
迅は道端の水桶を指した。
「水、揺れてない」
「走っても揺れない時ある」
「影」
「影は嘘つくって、祭りの劇で見た」
「靴の泥」
「分かんない」
「強いな」
「負けた?」
「証明できない」
少年は拳を下ろした。
「じゃあ、危ない人?」
「今は、道を塞いでる人」
迅は一歩横へ退く。
少年の進路が開く。
「これで?」
「ちょっと安全」
少年は通り過ぎた。三歩先で振り返る。
「殴る時は、先に言って」
「相手にも?」
「みんなに」
「殴れなくなる」
「安全」
迅が七瀬を見る。