第375話 第六章「証者のストライキ」前編
九月二十日 午前五時五十九分
勤務は、六時に始まる。
だから水科イオは、五時五十九分四十七秒に話し始めた。
「十三秒だけ、まだ仕事じゃない」
東部第三閲覧室。
四十八席のうち、夜勤者が二十七人。朝勤者が三十一人。引き継ぎのため、十人分だけ椅子が二重に使われている。
机には、現在映像と十二秒前の映像が並ぶ。
壁には、通報件数。
天井には、眠気検知の小さなレンズ。
監視員を監視する装置だった。
「十三秒で済む話?」
坂下ユウが訊いた。
青く染めた人差し指の爪。
昨日より薄い。無意識に噛んだ跡がある。
「済まない。だから、勤務前に始める」
「終わらない話を始めるなよ」
「六時になった」
壁の時計が鳴る。
イオは真鍮装具へ指を置いた。
「ここからは勤務の話。全停止を提案する」
閲覧室の空気が止まった。
画面は止まらない。
一番席に、夜道を走る自転車。
二番席に、寝巻きでゴミを出す老人。
三番席に、閉店後の薬局。
四番席に、迅の過去映像。
「無理」
ユウが言う。
「理由」
「事故が起きたら、私らの責任になる」
「今も起きたら責任?」
「見る仕事だから」
「何を見たら責任になる」
「異常」
「異常は誰が決める」
「またそれ?」
「まだ答えがない」
向かいの席で、頬に三本の電極痕がある青年が手を挙げた。
「全停止なら、俺は参加しない」
「名前を言える?」
「勤務記録にはある」
「ここで呼んでいい名前」
「伏木レン」
イオは紙へ書いた。
「参加しない理由」
「妹が夜勤だ。帰り道の二十九番カメラは残してほしい」
「妹は同意してる?」
「してる」
「毎日?」
「一回、票を出した」
「帰る時だけ見てほしい?」
「そうだ」
「帰宅後も保存?」
「いらない」
「見る人は誰でも?」
「女の監視員がいいって言ってた」
別の席から声が飛ぶ。
「女なら安全って決めるなよ」
「妹が選んだ」
「選べるだけ人がいるのか」
「いない日もある」
「じゃあ、どうする」
声が重なる。
イオは止めない。
十三秒で済まない話は、混ざるところから始まる。
午前六時三分。
閲覧室の扉が開いた。
伏見轟が、手回し式の小さな警報箱を二台抱えて入る。
左肩より上へは上げない。右腰の工具帯が、机の角へ一度当たった。
「重い」
「十三・八キロ」
イオ。
「感想だ」
「数値の方が直せる」
「感想も直せ」
轟は警報箱を床へ置いた。
箱の上に、赤、黄、青の三つの灯。
側面に手動ベル。
背面に紙の記録巻き。
「何ですか」
ユウが椅子から半分だけ立つ。
「見る前に、鳴らす箱」
「見ないで異常が分かる?」
「煙。衝撃。非常紐。店主の押しボタン。五つ別」
「誤報は」
「鳴る」
「役に立たない」
「誤報が鳴らない設備は、本報も鳴らん」
轟は箱の底を指で叩いた。
「見るのは、鳴ったあと」
「遅い」
「常時見るより早い物もある」
「何が」
「煙。カメラは匂い嗅がん」
ユウは画面へ戻る。
「でも、人が殴られる前は」
「殴る顔を先に見分けられる?」
イオが訊く。
「今よりは」
「昨日、危険予備動作が二百四十四件。実際の暴力は?」
「七件」
「残り二百三十七件を見た時間は」
「仕事」
「疲れた?」
「仕事だから」
「答えじゃない」
ユウの青い爪が、机の裏を掻いた。
「疲れた」
小さな声だった。
「何時間」
「十二」
「休憩」
「三十分二回」
「画面から離れた?」
「休憩室にも端末がある」
「勤務じゃない?」
「異常が出たら戻る」
「何秒で」
「九十秒」
「休憩じゃない」
「給料は出る」
「いくら」
「言いたくない」
「言わなくていい」
イオは一度だけ装具へ触れた。
「全停止は撤回する」
室内の数人が、露骨に息を吐いた。
「早いな」
轟。
「三分二十秒」
「反省の話だ」
「それも数えられる」
「数えるな」
イオは黒板へ、白墨で線を引いた。
左に《見る》。
右に《見ない》。
その間へ、五つ書く。
《非常信号後の確認》
《本人指定の帰路確認》
《進行中の暴力》
《設備異常》
《行方不明の現在捜索》
「これは見る」
次に、下へ書く。
《過去行動の連結》
《所属推定》
《集会参加者の追跡》
《配給拒否者の検索》
《閲覧順位の無記名変更》
《勤務目的外の私生活》
「これは見ない」
「誰が決めた」
伏木レン。
「今、私が案を出した」
「偉いのか」
「偉くない。だから、直して」
「ストライキ?」
「全部止めるんじゃない。範囲を止める」
「そんなの、職務放棄扱いだ」
「今の職務規程は、何でも見られるように曖昧」
「曖昧なら、違反か分からない」
「処分する側にも」
「こっちにも」
「だから、名前を書いて断る」
室内の空気がまた変わる。
匿名で見る仕事に、名前で断る。
「報復される」
誰かが言う。
「される」
イオは否定しなかった。
「配給優遇を切られる」
「切られるかもしれない」
「家賃は」
「止まらないよう交渉する」
「交渉できなかったら」
「私が払う、とは言わない」
「言えよ」
「一月しか払えない。二月目に切れる約束は、今ここで売らない」
「じゃあ、何がある」
イオは、轟が持ってきた警報箱を示した。
「見る仕事を分ける。保守。非常紐の点検。案内。保存状態の監査。画面を見ず、削除時刻だけ確かめる仕事」
「全部で何人雇える」
「現時点で、十八人」
四十八席。
三交代。
百人を超える監視員。
「足りない」
「足りない」
「明日班へ入れば?」
ユウが言った。
言い方に棘がある。
「能力を失った人のための組織なんだろ」
「ここにいる全員が入れるとは言ってない」
「選ぶのは誰」
「私たち」
「また見る側だ」
イオの指が止まった。
言い返せない時、装具の刻印を触る癖がある。
一、二、三。
「そうだ」
「能力の代わりに仕事をくれるんじゃない。使える元能力者を選ぶんだ」
「そうなる危険がある」
「危険じゃなくて、もうそうだろ」
「私が、そうした」
イオは言った。
閲覧室の時計が、午前六時九分を示す。
「ここを辞めれば次がある、と先に言った。次を選ぶ権限が私にあるみたいに」
「ないの?」
「少しある。それが悪い」
「じゃあ、どうする」
「採用基準を先に出す。落ちた人にも理由と再訓練を出す。監視員だけで決める席を作る」
「金は」
「ない」
「正直だな」
「午前六時十分快晴。正直でも腹は減る」
「天気、関係ある?」
「ない」
ユウが初めて笑った。
四番席の女性は笑わなかった。
黒板の前へ来ず、画面からも目を離さない。
「私は伏せない」
室内の何人かが、彼女を見る。
「理由を言える?」
イオ。
「言いたくない」
「受けた」
「それで終わり?」
「終わってほしい?」
「責められると思った」
「責めると、参加が増える?」
「減る」
「じゃあ、しない」
女性は画面へ戻る。そこには夜明け前の診療所裏口が映っていた。人影はない。
「一つだけ」
彼女が言う。
「過去の患者は検索しない。入口の現在だけ見る。救護要請があれば顔を拡大する。薬箱の持ち出しは、箱の番号だけ追う」
イオは黒板の《見る》の下へ、そのまま書いた。
「署名する?」
「しない」
「理由」
「契約の署名が増えると、家で夫に見つかる」
空気が少し動く。
「監視に反対されてる?」
「夫は賛成。私が範囲を決めるのに反対」
「名前を出さない記録にする」
「席番号なら、夫は知ってる」
「どうする」
イオは訊き返した。
女性は、画面下の勤務番号札を裏返した。
「今日だけ、四番席を二人で使ったことにする?」
「嘘になる」
「じゃあ、書かない?」
「それも嫌」
女性は長く黙り、机の紙巻きから五センチだけ切り取った。
《診療所裏口・現在のみ》
《決定者は本人》
《氏名公開は本人の指定日まで保留》
最後に日付を書く。
十月一日。
「そこまでに、家を出るか決める」
誰も励まさない。
出る方が正しいとも、残る方が弱いとも言わない。
真琴はまだ来ていない。だから法的保護を約束できる人もいない。
イオは紙を受け取らず、女性自身に机の封筒へ入れさせた。
「見続ける人も、範囲を決める」
ユウ。
「ストライキじゃない?」
「名前は後」
イオ。
「名前を先に付けると、入るか出るかになる」
四番席の画面に、診療所の清掃員が現れた。女性は顔を拡大せず、薬箱番号だけを確認した。
見続けることと、何でも見ることは同じではなかった。
午前七時二十二分。
部分ストライキの案は、十一項目へ増えた。
一、非常信号後の現況確認は行う。
二、本人が指定した帰路確認は、指定時間だけ行う。
三、進行中の暴力は通報する。
四、設備異常は保守へ渡す。
五、行方不明者の現在捜索は、本人情報の範囲を限定する。
六、過去映像を用いた性格推定は行わない。
七、集会、交際、宗教、病歴の目的外追跡を行わない。
八、配給・雇用・住居の選択を検索順位へ使わない。
九、閲覧順位の変更には、変更者、時刻、理由を残す。
十、拒否した監視員を、即時に生活配給から排除しない。
十一、緊急例外を使った場合、二十四時間以内に当事者へ通知する。
「十一番、無理」
伏木レンが言う。
「誘拐犯に通知するのか」
「当事者は被害者だけじゃない」
真琴が、いつの間にか扉の脇へ立っていた。
丸眼鏡が曇っている。
「何時から」
真壁梓も一緒だった。
胸に二つの時計。
「午前七時二十分受領。七時二十一分入室」
「訊いてない」
「訊かれました」
「真琴に」
「主語を」
真琴は眼鏡を拭く。
「午前七時十九分からです。廊下で二分聞きました。盗み聞きではなく、扉が開いていました」
「聞く前に同意は?」
「ありません」
「じゃあ、目的外」
ユウ。
「はい」
真琴はあっさり認めた。
「廊下へ会話が漏れていたことと、私が聞いたことを分けて記録してください」
「面倒」
「同意します」
「真琴が?」
「面倒であることと、必要であることは両立します」
梓が二つの時計を見た。
「十一番。通知時刻を事件終結後へずらせる例外が必要です。ただし誰が終結を宣言したかを残す」
「警備が決める?」
「警備だけでは決めない」
「何人」
「現場、被害当事者側、監査側。最低三者」
「被害当事者が意識ない時は」
「代理を置く。後から本人が変更できる」
「代理が家族じゃない時は」
「また増えますね」
梓は一枚目の紙の角を折った。
「増える規則は嫌いですか」
ユウ。
「好きではありません。少ない規則が人を殺した記録も持っています」
左の時計は七時二十六分十三秒。
右は七時二十四分五十九秒。
二つは合っていない。
「どっちが正しい」
「どちらも。受領系統が違います」
「時刻は一つだろ」
「時計は二つです」
イオが小さく息を漏らした。
「好き」
「何が」
「その答え」
「恋愛の話なら、交際中です」
「時計の話」
「それなら、修理代を請求します」
轟が欠けた前歯へ舌を当てた。
「似た奴、増えたな」
「誰と誰ですか」
三人が同時に訊いた。
「撤回」
午前八時三十一分。
最初に画面を伏せたのは、坂下ユウだった。
三十八番席。
表示されていたのは、共同洗濯場の裏口。
昨夜、落書きがあった場所。
監視順位は高い。
しかし、現在の画面には、女性が二人で濡れた下着を干しているだけだった。
検索命令が出る。
《過去七日・同場所の滞在者を連結》
《落書き関係者候補を抽出》
ユウは、命令欄へ拒否を入力した。
《理由を選択》
「目的外閲覧」
手が止まる。
「押すと、名前が出る」
イオ。
「分かってる」
「押さなくても、私からは言わない」
「それ、優しい?」
「逃げ道」
「逃げたら、何が変わる」
「あなたが決める」
「それ、嫌い」
「私も」
ユウは押した。
《拒否者:坂下ユウ》
《時刻:午前八時三十二分四秒》
《理由:落書き調査を理由に洗濯利用者の七日履歴を閲覧する必要なし》
次に、画面の上へ灰色の覆いを下ろした。
完全に電源は切らない。
煙、衝撃、非常紐の警報だけ、覆いの外の三灯へ届く。
三十八番席の画面が、灰色になった。
部屋の誰かが、息を呑む。
世界の一角が見えなくなった音は、しなかった。
代わりに、紙巻きが動く。
《閲覧停止》
《代替:煙・衝撃・非常紐》
《再開条件:現場からの要請、進行中危険、本人指定》
「二席目」
伏木レンが言った。
彼は妹の帰路カメラを残し、別の画面だけ伏せた。
《市民集会・参加者抽出》
「集会は見るな。出口の混雑は見る」
条件を書き分ける。
三席目。
七席目。
十二席目。
午前八時四十分。
四十八席のうち、十四画面が伏せられた。
通報件数が落ち始める。
一分当たり二十九件。
二十二。
十七。
十一。
「犯罪も減った?」
誰かが冗談で言った。
「一分では分からない」
イオ。
「不安は増えた」
「測れる?」
「私の脈は百六」
「高い」
「薬のせいもある」
「休む?」
「今は」
「今は、何分」
ユウが訊く。
イオは装具から手を離した。
「十五分後に検脈。百二十を超えたら座る」
「自分の規則だけ具体的」
「自分で決められるから」
「人のも、そうしようとしてる?」
「そう」
「うまくない」
「そう」
覆いの向こうで、赤灯が点いた。
三十八番席。
非常紐。
ユウが覆いを上げようとする。
「条件確認」
イオ。
「非常紐だ」
「誰が引いた」
「見ないと分からない」
「見る理由は成立」
ユウが覆いを上げた。
共同洗濯場の裏口。
画面の中央で、浅海スエが紐を引いている。
背後に、倒れた男。
「人が倒れてる」
「通報」
「救護か警備か」
「呼吸を確認」
ユウは拡大しない。
画面上でスエが胸へ手を置き、次に男の口元へ布をかざした。
「呼吸あり。意識なし」
「救護」
通報先を選ぶ。
その瞬間、別の命令が割り込んだ。
《対象男性の過去七日を検索》
《飲酒・暴力・所属を確認》
ユウの手が止まる。
「救護に必要?」
イオ。
「薬歴は」
「本人の携行札か救護側が確認」
「暴力歴があったら」
「救護員へ現場危険だけ伝える。七日分の私生活はいらない」
ユウは検索を拒否した。
救護通報だけ送る。
午前八時四十三分。
警報から通報まで、四十一秒。
常時閲覧時の平均は、三十八秒。
「三秒遅い」
ユウ。
「倒れてから非常紐までの時間は分からない」
「前なら、倒れる瞬間を見てた」
「見てた?」
「たぶん」
「たぶんを、仕事にする?」
「しない」
ユウは画面を見続ける。
救護員が到着する。
男は担架へ載せられた。
スエがカメラへ向かって、指を一本立てた。
「何」
「あとで一件、質問があるって合図」
「知ってる?」
「昨日、決めた」
「現場と」
「うん」
ユウは時刻を記録する。
非常対応が終わる。
覆いを下ろした。
自分から。