第376話 第六章「証者のストライキ」後編

 午前八時五十三分。

 伏せた画面の三灯が、同時に二つ光った。

 三十八番席。

 赤――非常紐。

 十二番席。

 黄――設備異常。

 ユウと伏木が互いを見る。

「どっち先」

「別々」

 イオ。

「人、足りない」

「私が黄」

「画面、見ない仕事だろ」

「設備担当へつなぐ。内容は見ない」

 ユウは三十八番席の覆いを上げた。

 映ったのは、魚屋の裏路地。

 男が一本の刃物を持っている。

 刃は長い。

 手元へ血のような色。

《進行中暴力の可能性》

「通報」

 伏木。

「待って」

 男の足元に、大きな魚。

 赤いのは鱗と血。

 魚屋の作業。

 しかし、その向こうで別の男が壁へ背を付けている。

 怯えて見える。

「声、ない」

「拡大」

「顔は要らない。手と距離」

 ユウは画角を下へ寄せる。

 刃を持つ男が、一歩近づく。

 壁際の男が、両手を前へ出す。

「暴力」

 伏木。

「手、見て」

 壁際の男は、銅貨を持っている。

 魚代。

 刃を持つ男が、魚を一切れ切り、紙へ載せた。

「商売」

「警報、何で」

「刃物と後退姿勢」

「消す?」

 ユウは映像を切らない。

 魚屋が銅貨を受け取ったあと、壁際の男の肩を強く押した。

 男がよろける。

 笑っていない。

 次の一秒で、刃は台へ置かれた。

 魚屋が男の上着をつかむ。

「今」

 ユウは通報した。

《進行中の身体拘束》

《刃物は台上、使用なし》

《現場へ二名以上》

「刃物あり、だけにしない?」

 イオ。

「警備が刃物へ行くと、台から取る」

「誰が」

「警備も、魚屋も」

 通報を受けた案内員が到着する。

 魚屋は手を離さない。

 男が金をもう一枚出す。

 揉めていたのは、代金不足だった。

 案内員が間へ入り、刃を布で覆う。

 ユウは過去七日の二人の関係を検索しない。

 魚屋の暴力歴も、客の盗難歴も出さない。

 現在の手。

 刃の位置。

 出口。

 それだけを送る。

 四十秒後、拘束が解けた。

「常時見てたら、もっと早かった」

 伏木。

「たぶん」

「過去を見たら、どっちが悪いか分かった」

「今の押した手は、今見えた」

「代金不足は」

「現場が聞く」

「見なかったせいで、判断を押しつけた?」

「現場の人へ、現場の判断を返した」

「きれい」

「嫌い?」

「少し」

 ユウは覆いを下ろした。

 非常対応の記録へ書く。

《映像閲覧範囲:午前八時五十三分十一秒から五十四分三秒》

《対象:手、刃、相互距離、出口》

《閲覧しなかった範囲:過去履歴、住居、交際、配給》

 最初から何も見ないのではない。

 見た後、どこで止めたかを書く。

 十二番席の黄灯は、共同浴場裏の燃料管だった。

 イオは画面を開かず、節点番号と設備図を照合する。

「圧力低下。温度は」

 伏木が数値だけ読む。

「七十二から六十一」

「映像なしで分かる?」

「燃料管なら」

「人が倒れてたら」

「非常紐と衝撃灯は赤になる」

「センサーが壊れてたら」

「現地へ行く」

 轟が工具袋を持った。

「俺」

「左肩」

 イオ。

「管は腰の高さ」

「一人で?」

「二人」

 浅海スエが、監視室の入口にいた。

 手に長い弁棒。

「風呂の管を、画面だけで直す気かい」

「呼んでない」

「黄旗が見えた。外の機械旗、浴場の方へ向いた」

 死角路用に試作していた方向旗を、轟が監視節点へ仮付けしていた。

 レンズが燃料管へ向いたため、外からも分かった。

「見る向きが、呼出になった」

 イオ。

「褒める?」

 轟。

「まだ」

 スエ。

 三人が現地へ向かう。

 監視室には、圧力値だけ残る。

 ユウは魚屋の画面を閉じたまま、設備数値を読む。

 六十一。

 五十八。

 五十五。

 常時映像がなくても、管は数字で苦しむ。

 現地から低音三回。

 スエの合図。

「主弁閉鎖」

 伏木。

 圧力低下が止まる。

 次に低音二回。

「漏れ箇所確認」

 轟の手回し発電が、黄灯へ戻る。

 映像は開かない。

 十一分後、修理完了。

 スエの声が通信へ入る。

『継手の麻が抜けてた。誰かが触ったんじゃない。古い』

「映像で犯人を探す?」

 イオ。

『管に顔はないよ』

「原因」

『点検不足。担当は私』

「責任?」

『修理と次の点検日。減給は後で相談』

「受領」

『監視があって良かった?』

 イオは答える。

「圧力灯と方向旗は」

『カメラは?』

「開かなかった」

『じゃあ、目じゃなくても分かったね』

「全部は」

『全部って言うな。風呂が沸けば、今日はいい』

 通信が切れる。

 伏木が言った。

「通報件数、落ちた」

「設備は直った」

「薄墨は、件数だけ出す」

「私たちは、何を出す」

 ユウは二枚の記録を並べた。

 魚屋。

 燃料管。

 一件は、必要な時間だけ見た。

 一件は、映像を見ずに直した。

「見なかった数じゃない」

「見た理由?」

「止めた理由も」

 午前九時六分。

 処分通知が印刷され始めた。

 三十八番席。

 十二番席。

 四番席。

 拒否入力をした順に、机の脇から白い紙が吐き出される。

《職務命令不履行》

《監視優遇手当の即時停止》

《配給受領枠の再計算》

《宿舎利用資格の審査》

「早い」

 梓が左時計を見る。

「最初の拒否から三十四分。審理なし」

「自動です」

 ユウ。

「自動登録者は」

「中央運用」

「また、名前がない」

 真琴は通知を裏返す。

「異議申立て窓口は午後四時まで。通知が午前九時。勤務終了は午後六時」

「行けない」

「勤務を抜ければ、別の不履行です」

「よくできてる」

 迅が扉の外から言った。

「いつからいたんですか」

 真琴。

「処分の前」

「具体時刻」

 梓。

「分からない」

「監視下で?」

「見てなかった」

 伏せた画面が二十七へ増えている。

 迅は白い処分通知を一枚取った。

「破る?」

 ユウが訊く。

「破ると、なくなる?」

「ならない」

「じゃあ、破らない」

「珍しい」

「今日、何回目」

 イオ。

「数えてない」

「負けた」

 天井の放送器が鳴った。

『東部第三閲覧室へ告ぐ』

 薄墨の声だった。

『現在、一部監視員による組織的な職務放棄が確認された。通報件数は開始前比六十二パーセント減少。これは安全性の低下を意味する』

「通報件数の低下です」

 七瀬が、廊下から音声記録だけ取る。

『映像を見ない行為により被害が発生した場合、拒否者は個別の責任を負う』

 ユウが拳を握る。

『参加を撤回する者は、午前九時十五分までに画面を再開せよ。再開記録は処分審査へ考慮される』

 残り九分。

「脅迫」

 迅。

「労務上は、処分予告です」

 真琴。

「同じ?」

「受ける側の恐怖は似ます。法的評価は分けます」

『安全は、誰かが見続けることで保たれる』

「誰か、じゃない」

 ユウが言った。

 放送器へ届かない声。

「私だ」

 彼女は机の送話器を取った。

「三十八番席、坂下ユウ。午前八時三十二分四秒、目的外閲覧を拒否しました。非常信号は四十一秒で救護へつないだ。過去検索はしなかった。処分通知、午前九時五分五十二秒受領」

 室内の全端末へ、彼女の声が流れる。

「見なかった範囲は私が決めた。見た範囲も私が決めた。事故が起きたら、全部私のせいにはしないでください。起きなかったことも、全部あなたの手柄にしないでください」

 薄墨の放送が一瞬止まる。

 伏木レンも送話器を取る。

「十二番席、伏木レン。妹の帰路確認は続ける。集会参加者の抽出は拒否。時刻――」

 梓が時計を見せる。

「九時七分二十一秒」

「二十一秒」

 三席目。

 五席目。

 拒否した者が、自分の範囲を言う。

 全員ではない。

 画面を戻す者もいた。

 二十四番席の男は、処分通知を見て覆いを上げた。

「子どもがいる」

 彼は言った。

「責めない」

 イオ。

「責めてくれた方が楽だ」

「楽にしない」

「嫌な奴」

「午前九時八分。記録した」

 男は画面を戻したまま泣いた。

 誰も撮らなかった。

 午前九時十五分。

 伏せられた画面は、二十一。

 全停止ではない。

 全員参加でもない。

 通報件数は、開始前の四十七パーセント。

 救護通報、一件。

 設備異常、二件。

 進行中暴力、ゼロ。

 危険予備動作、三件。

 薄墨の放送が戻る。

『処分審査へ移行する』

「受領は九時十五分十一秒」

 梓。

『監視員の生活保障については、組合規則に従う』

「誰が登録した規則?」

 ユウが言う。

 返事はない。

『市民へ。通報減少中につき、外出時は互いを確認し、異常を積極的に報告せよ』

 広場や路地で、赤灯が増える。

 装置の目が減った分、人間の目を増やそうとしている。

 イオは黒板の《見ない》の下へ、新しい一行を書いた。

《見なかった者を見張る》

 白墨を置く。

「これも拒否?」

 ユウ。

「する」

「仕事なくなる」

「仕事は残る」

「私の仕事」

 イオは答えるまでに、七秒かかった。

「残す方法を、これから作る」

「いつまで」

「九月二十五日、日没までに暫定案」

「無理そう」

「そう」

「約束する?」

「完成は約束しない。出す時刻は約束する」

「ずるい」

「期限は、守れる大きさに切る」

 轟が警報箱の手回し軸を締めた。

「柱も同じだ」

「二人とも、建物と時計でしか話せない?」

 ユウ。

「人の話、難しい」

 轟。

「同意」

 イオ。

 九時十七分。

 三十八番席の画面は伏せられたまま、赤、黄、青の三灯だけが生きている。

 灰色の覆いには、ユウが青い爪で書いた。

《見ない範囲も、勤務です》