第377話 第七章「七瀬がカメラを伏せる」前編

九月二十一日 午前九時四十三分

 東部時計広場の中央には、昔、噴水があった。

 黒雨のあと水は止まり、浅い円形の池だけが残った。今はその底へ演説台が組まれ、周囲を八台の監視端末が見下ろしている。

 八台の向きは、市民から分からない。

 黒い半球。

 動く時も音がしない。

 止まっている時ほど、どこを見ているか想像させる。

 七瀬は噴水跡の中央へ、手回し撮影機を置いた。

 固定台は胸の高さではない。

 腰より低い。

 左肩を上げずにクランクを回せる高さへ、轟が前夜に脚を切り直している。切った脚には、元の長さと切断理由が白墨で書かれていた。

《左肩の長時間挙上回避》

《所有者同意:火群七瀬》

《切断者:伏見轟》

《再延長用部材:台座下》

「書きすぎです」

 七瀬は昨日、言った。

「切ったら、戻す奴が困る」

「戻す予定はありません」

「予定は荷重じゃない」

「意味が分かりません」

「俺も」

 今朝、七瀬は台の文字を撮らなかった。

 広場へ集まった人は、三百人を超えていた。

 黄色い布を腕へ巻いた者。

 監視同意票を破って掲げる者。

 逆に《監視を止めるな》と書いた青い板を持つ者。

 何も持たず、出勤前に足を止めただけの者。

 広場の外周には、監視員の部分ストライキを理由に臨時警備が置かれている。

 真壁梓が、二つの時計を胸へ付け、噴水跡の北に立っていた。

「開始予定は十時」

 梓。

「はい」

「私の左時計では、あと十六分三十二秒。右では十八分一秒」

「どちらを使いますか」

「あなたが選ぶ」

「なぜ二つを合わせないんです」

「一つへ合わせた途端、遅れていた側の記録が消えるから」

「今日は中央鐘を基準にします」

「受領しました。九時四十三分四十四秒」

「片方だけで」

「どちらの?」

「もういいです」

「受領はしていません」

 七瀬は、撮影機の横へ四枚の札を置いた。

 一枚目。

《撮影停止予定 午前十時〇分〇秒》

 二枚目。

《停止理由 広場参加者の顔・行動を監視素材へ追加しないため》

 三枚目。

《代替記録 固定時計、音声、参加者が選んだ手書き人数、警備救護記録》

 四枚目。

《再開条件 本人の個別同意、進行中の重大危険、終了後の公開範囲再確認》

 タマキが札を読み上げる。

「重大危険って何」

「生命、身体へ直ちに危険がある状況」

「財布を取られたら」

「撮影再開の前に、現場確認と本人の希望を聞きます」

「犯人が逃げたら」

「逃走経路の固定カメラは別です。私の撮影機を上げる理由には、自動でなりません」

「殴り合い」

「止める人が必要なら、機材を置いて止めます」

「迅なら」

「本人へ訊いてください」

 迅は噴水跡の縁へ座り、靴紐を結び直していた。

「殴り合い」

 タマキ。

「見てから」

「監視と同じ」

「見る場所、床」

「顔じゃない?」

「足が嘘つかない」

 七瀬が横から言う。

「足も嘘をつきます。逃げるふり、踏み込むふり、負傷の偽装」

「嫌な友達だな」

「第何回ですか」

「数えてない」

「私もです」

 迅の手が止まった。

「珍しい」

「流行らせないでください」

 午前九時五十八分。

 広場の八台の監視端末が、同時に七瀬を映した。

 正面。

 右斜め。

 背後。

 高所。

 広告板には、八つの七瀬が並ぶ。

《公認記録者・火群七瀬による市民声明》

《地域安全のため、全節点で共有中》

「共有を許可していません」

 七瀬は広場の公衆送話器へ言った。

『公道上の公的活動です』

 薄墨の声ではない。

 自動音声。

「撮影目的は、監視網への素材提供ではありません」

『目的欄に《監視制度に関する声明》とあります』

「制度に関することと、制度が所有することは別です」

『異議を記録しました』

「誰が読むのですか」

『異議を記録しました』

「回答になっていません」

『異議を記録しました』

 広場の一部から笑いが起きた。

 笑った人の顔へ、監視端末の赤い枠が付く。

《反応分析》

 笑いが止まった。

 七瀬は中央鐘を見る。

 午前十時まで、十秒。

 右手でクランクを回す。

 固定時計。

 四枚の札。

 広場全体は、顔が識別できない広さだけ。

「午前九時五十九分五十秒。撮影中です」

 五十一。

 五十二。

 左肩は上げない。

 痛みはある。

 痛みを記録の価値へ変えない。

 五十七。

 五十八。

 五十九。

 中央鐘が一度鳴った。

「午前十時〇分〇秒。私は、撮影しない保護〈カメラ・ダウン〉を選びます」

 七瀬はクランクを止めた。

 レンズへ蓋をする。

 撮影機を伏せ、噴水跡の乾いた底へ向ける。

 配信画面が黒くなる。

 完全な黒ではない。

 レンズ蓋の繊維が、光を薄く通している。

 音声だけが残る。

「停止理由は、ここへ来た人の顔と行動を、本人の選択なく監視素材へ追加しないためです。代替記録は、中央鐘、真壁梓の二時計、手書き人数、救護・警備記録、希望者の個別声明です。再開条件は掲示した四項目です」

 黒い画面に、字幕だけが出る。

《映像信号喪失》

「喪失ではありません」

 七瀬。

《映像信号喪失》

「停止です」

 真琴が自動字幕窓口へ訂正を送る。

《映像信号喪失》

「意地になっていますね」

 真琴。

「機械が?」

「登録した人が」

 黒い画面の下へ、視聴数が増える。

 三百。

 八百。

 二千。

 映っている時より多い。

「何もないのに、見てる」

 タマキ。

「何もないからです」

 綺理が言った。

 透明な雨衣。

 右目の六角眼鏡。

 今日は小瓶を持っていない。代わりに、空の札箱を抱えている。

「中身を想像できる」

「想像も監視?」

「本人へ戻さなければ」

 タマキは黒い画面を見上げる。

「俺、今、鼻を掻いた」

「言わなくていいです」

 七瀬。

「見えないから、言った」

「代替記録へ不要です」

「じゃあ、消して」

「音声へ入りました」

「最悪」

 広場に、今度は穏やかな笑いが起きた。

 赤い枠は付かない。

 七瀬の撮影機が止まっているからではない。

 監視端末側の反応分析表示を、部分ストライキ中の監視員が拒否したからだった。

 八台の広告板のうち、三台で赤枠が消えている。

 五台には残る。

 街は一度に変わらない。

 午前十時十二分。

 最初の石が飛んだ。

 直径四センチほど。

 噴水跡の東にある監視端末へ向かう。

 迅が座ったまま右手を出し、石を受けた。

 掌でなく、前腕。

「投げるなら、名前」

 迅が言う。

「何でだよ!」

 黄色い布を頭へ巻いた青年が、もう一つ石を持っている。

「壊す相手に名乗れって?」

「壊した後、誰が直す」

「直さねえよ!」

「じゃあ、火事の警報は」

「監視と一緒だ!」

「同じ箱に入れた奴のせい」

「だから壊す!」

「分ける」

「待ってたら、また撮られる!」

 青年の腕が動く。

 迅は立たない。

 石は投げられなかった。

 後ろから、別の女が青年の手首を掴んだからだ。

「私の店の前のは壊すな」

 波佐間啓吾の店員だった。

 以前、強盗に押し込まれた少年ではない。成人した女性。右頬に、薄い硝子傷がある。

「監視の犬かよ」

「夜、帰る時だけ見てほしい」

「おまえ一人のために、みんなが」

「みんなって誰」

 タマキが割り込む。

「今は話すな、ガキ」

「誰」

「街だよ!」

「街の名前は」

「うるせえ!」

 青年がタマキへ手を振る。

 迅の足が動く。

 一歩。

 青年の肘へ触れ、軌道を上へ逃がす。

 拳は作らない。

 七瀬は撮影機を上げない。

 音声へ言う。

「午前十時十三分二十二秒。広場東、身体接触。撮影停止を継続。代替記録、真壁梓の現場記録、迅とタマキの証言、当事者本人の後確認」

「撮れよ!」

 別の支持者が叫ぶ。

「殴られてるぞ!」

「殴られていません」

 タマキ。

「殴られそうだった!」

「それを撮れって?」

「証拠だ!」

「俺の顔、また増える」

 迅は青年の手首を離した。

「石を置け」

「命令すんな」

「頼む?」

「それも嫌だ」

「じゃあ、値段」

「何の」

「石を置く料金」

「ふざけんな」

「タマキ式」

「俺はそんなこと言わない」

 青年は石を握ったまま、周囲を見る。

 見られている。

 監視端末から。

 人間から。

 黒い配信画面から。

 彼の顔は、七瀬の撮影機には入っていない。

 しかし五台の端末は、まだ広場を撮っている。

「止めたって、あっちは見てるじゃねえか」

「はい」

 七瀬。

「意味ないだろ」

「私が止めただけです」

「全部止めろよ!」

「私に、全部を止める権限はありません」

「正義の記録者だろ!」

「それは肩書きではありません」

「広告に出てる」

「広告が間違っています」

「便利だな。使われた時だけ違うって言えて」

 七瀬の口元が水平になる。

 青年の言葉は、薄墨のものではない。

 だから余計に痛い。

「便利にしてきた部分があります」

「何だよ」

「撮った事実があれば、撮らなかった人より正しいように振る舞いました」

 広場が静かになる。

「今も、撮らない方が正しいって顔してる」

「しているかもしれません」

「じゃあ、何が違う」

「止めた時刻と理由を残します。撮らなかったことを、善人の証明には使いません」

「何の役に立つ」

「あなたが石を置いた理由を、私の映像だけにしないためです」

「置くって決めてねえ」

「はい」

「決めろって顔だ」

「見ないようにします」

 七瀬は青年から視線を外した。

 誰も見ないわけではない。

 迅が距離を測り、梓が手を空け、店員が青年の手首から離れている。

 青年は、石を噴水跡の縁へ置いた。

「名前、言わねえからな」

「求めていません」

「処分すんだろ」

 梓が答える。

「現時点では、器物損壊未遂と身体接触未遂。本人確認は必要ですが、公開名は不要です。事情聴取を拒否する権利と、後日呼出しの方法を説明します」

「警備のくせに、逃がすのか」

「逃がすとは言っていません」

「面倒くせえ」

「本日三十二人目です」

 真琴。

「数えるな!」

「同じ言葉が規則になるので」

 青年は顔をしかめた。

「おまえら、全員嫌いだ」

「同意は不要です」

 真琴が言う。

 午前十時四十分。

 石ではなく、金槌が出た。

 黄色い布を腕へ巻いた三人が、監視端末の支柱へ駆ける。

 一人目が梯子を掛ける。

 二人目が支柱の保守蓋へ金槌を振る。

 三人目が警備の進路へ布を広げる。

 狙いはレンズではない。

 電源と通信線。

「止めて!」

 七瀬が叫ぶ。

「撮れ!」

 支持者の一人が返す。

「証拠を残せ!」

「壊さないで!」

「おまえのためだ!」

「私のために、他人の設備を壊さないで!」

 一人目が梯子を上がる。

 迅は二人目へ向かう。

 凱が三人目の布をつかむ。

 七瀬は、撮影機を伏せたまま走った。

 左肩を上げない。

 右手で伸縮棒を抜く。

 金槌が保守蓋へ落ちる。

 七瀬の棒が横から入り、柄へ当たる。

 金槌は支柱を外れ、地面へ。

 衝撃が棒を伝い、左肩の奥へ入った。

 息が止まる。

「撮る人が、壊す側を守るのか!」

「撮る人だからです!」

 七瀬は棒を右へ持ち替える。

 二撃目。

 相手は空手経験がある。

 肘を畳み、七瀬の棒の内側へ入る。

 七瀬は低い蹴りで前足を外す。

 倒さない。

 支柱から距離を取らせる。

 梯子の上で、一人目がケーブルへ刃物を当てた。

「切るな!」

 轟の声が広場を震わせた。

 彼は走らない。

 支柱の根元へ入り、梯子を両手で支える。

「何で支える!」

 上の男が叫ぶ。

「落ちたら、床が悪者になる」

「意味分かんねえ!」

「俺もだ!」

 轟は左腕を肩より上げない。

 右腕と胸、腰で梯子を受ける。

「降りろ。切るなら地面で話す」

「切った方が早い!」

「線、火災警報と共用だ」

 男の刃が止まる。

「嘘だろ」

「配線図、見るか」

「監視の資料なんか」

「監視じゃない。工事の図だ」

「同じ箱だろ!」

「だから分ける。今切ると、分ける前に全部死ぬ」

 男は梯子の上で揺れた。

 轟の左肩が、わずかに下がる。

「早く」

 イオが梯子の下へ来た。

「左肩、十二秒以上保持しない」

「数えるな」

「八、九」

「降りる!」

 男が言った。

 轟は梯子を支えたまま、足場を一段ずつ指示する。

 七瀬の相手は、支柱から離れた。

 しかし今度は、伏せた撮影機へ向かう。

「なら、これを上げろ!」

 機材の取っ手を掴む。

 七瀬も反射的に左手を伸ばした。

 肩が上がる。

 痛みは、刃物のように鋭くない。

 濡れた砂袋を、関節の内側へ詰められたように重い。

 相手が撮影機を引く。

 七瀬は離さない。

「撮れよ!」

「あなたの顔を、あなたの怒りより先に残しません!」

「綺麗事だ!」

「はい!」

「認めるな!」

「今、肩が痛いので、長く話せません!」

 迅が横から撮影機の脚を踏む。

「離せ」

 相手へではない。

 七瀬へ言った。

「機材を」

「離すと倒れます」

「俺が踏んでる」

「あなたは機材の扱いが」

「肩よりは、まし」

 七瀬は離した。

 相手も、引く先を失って尻餅をつく。

 撮影機は倒れない。

 迅の靴の下で、固定脚が少し曲がった。

「壊しましたね」

「曲げた」

「同じです」

「轟が直す」

「勝手に仕事を増やさないで」

 轟が梯子を下ろしながら言う。

「請求する」

「誰へ」

「二人」

「私も?」

「機材、肩で持った」

「それは請求理由ですか」

「修理と治療、同じ財布に入れるな」

「分かりました」

 七瀬は左腕を下ろした。

 指先が少し痺れている。

 新しい断裂の感触ではない。

 しかし、長く上げる動作はもう実用にならないと、身体が先に言っている。

 七瀬はその判断を、機材の故障として説明しなかった。

「左肩、上げ続けられません」

 周囲へ言う。

「撮影は」

 支持者の一人。

「低い固定台。右手。交代。本人同意。方法を変えます」

「もう撮らないんじゃないのか」

「今日は、停止条件が続いています」

「逃げてる」

「そう見える記録も残ります」

 七瀬は、黒い配信画面へ戻った。

 音声は途切れていない。

 午前十時四十七分。

「身体接触と設備損壊未遂がありました。私は撮影を再開しませんでした。代替記録は、警備記録、設備点検、当事者確認、複数の音声です。撮影停止の判断が適切だったかは、後で異議を受けます」

 画面の視聴数が、四千を超える。

 誰も映っていない。

 午前十一時二分。

 監視端末の向きが、一台だけ変わった。

 壊したのではない。

 轟が支柱の回転環を緩め、梓が保守権限を確認し、波佐間啓吾の店員が店前カメラの共同利用者として同意し、ユウが閲覧席から画角を確認した。

 レンズは広場から外れ、東部第三閲覧室の外窓へ向いた。

「中は映らない」

 タマキ。

「窓が反射している」

 七瀬。

「誰が見てるか分からない」

「窓の外に、勤務者名を出す欄を作る」

 イオ。

「顔は?」

「希望者だけ」

「顔なしで、誰か分かる?」

「勤務番号と、後から責任を追える二鍵」

 綺理。

「また鍵」

「一人が持たない」

 監視支持者から怒号が飛ぶ。

「運用室を晒すな!」

「監視員が襲われる!」

「見る者を脅すのか!」

 七瀬は公衆送話器を取る。

「顔は公開しません。住居も家族も公開しません。誰がどの画面を、何の理由で、何時から何時まで見たかを、本人と監査者が確認できる形で残します」

「犯罪者に手の内を教える!」

「現在も、犯罪者はカメラ位置を見ています。市民だけが、レンズの向きを知りません」

「隠すから守れるんだ!」

「隠した判断が、間違った時に戻れません」

「戻る間に死んだら!」

「見続けても死ぬ人はいます」

「だから見るんだ!」

「だから、見た後の責任を残します」

 声は割れない。

 左肩は痛い。

 関係ない。

 広告板が急に明るくなる。

 黒い配信画面が消え、別の映像へ切り替わった。

 十二歳の七瀬。

 洪水後の仮設診療所。

 泣いている女性へ、撮影機を向けている。

《息子さんの名前を》

 幼い七瀬の声。

《今、聞くの?》

《記録しないと、行方不明一覧へ》

《顔をどけて》

 女性が手を出す。

 映像は、その手がレンズを覆う直前で止まる。

 次。

 列車事故の負傷者。

 七瀬が担架の横を歩きながら質問する。

《誰が切離しを命じましたか》

《痛い》

《時刻だけ》

《あとにして》

 次。

 病院の暗闇。

 七瀬がカメラを下ろす前、患者の呼称を確認している。

 次。

 記憶競売所。

 灯里の編集上の加害を知った直後も、七瀬は機材を止めていない。

 映像の隅に、薄墨が現れた。

『火群七瀬は、撮る者の責任を語る』

 広場の誰も、彼の本体を探さない。

『だが、撮らない選択をしたのは、自分の正しさが疑われた今日だ』

「違います」

 七瀬。

『違う部分を、撮ればいい』

「今は撮りません」

『都合が悪いから』

「人の顔を増やしたくないからです」

『過去には増やした』

「はい」

『母も増やした』

「はい」

『俺も切った』

「はい」

 薄墨は一瞬黙った。

 自分の主語が出たことに、自分で驚いたようだった。

『では、同じだ』

「同じ記録へ置きます。同じ責任にはしません」

『便利な分け方だ』

「あなたも、匿名証人を守る時に使います」

『守った者はいる』

「晒した者もいます」

『撮って救った者はいる』

「傷つけた者もいます」

『相殺するか』

「しません」

『では、何のために並べる』

「片方で片方を消さないためです」

『観客は、簡単な方しか見ない』

「観客を理由に、編集者が簡単にしていいことにはなりません」

『全部を出せば、被害者が死ぬ』

「全部は出しません」

『隠せば、加害者が逃げる』

「隠した人を残します」

『俺の名前を出すか』

「出ています」

『俺が選んだ名ではない』

 七瀬は一拍置いた。

「では、今ここで使う呼称を」

『交渉か』

「確認です」

『薄墨でいい』

「範囲は」

『この事件の記録。母へは使うな』

「受領しました」

『従順だな』

「あなたが選んだ範囲だからです」

 薄墨の映像が少し乱れた。

『黒い画面は、逃げる者にも使える』

「はい」

『見えない間に、誰かが傷つく』

「はい」

『それでも残すのか』

「見える場所だけで暮らせない人がいます」

『犯罪者も』

「犯罪者だけではありません」

『区別できるか』

「事前には、完全にできません」

 広場がざわつく。

 七瀬は続ける。

「だから、死角に緊急呼出、複数出口、照明、利用者の選択、後からの状態確認を付けます。見えないことだけを安全とは呼びません」