第148話 第十二章「初演のあと」後編

「報告を」

「札は持っていかない」

「複製を」

「誰の許可」

「集計は公表情報だろう」

 七瀬が答える。

「人数と時刻は公表。個別発言と券番号は本人または保管担当の許可が必要」

「保管担当は」

「三者。タマキ、劇場会計、外部記録室。三つの箱を別々に置きます」

「不便だ」

「一つ奪われても全部になりません」

 連絡員は人数表だけを受け取った。

 具体的な次の議題については、誰も言わない。

 今夜の拍手が、今夜の統治同意にはならなかった。

 確定したのはそこまでだった。

 午後四時十二分

 小舞台は、紅牙座の倉庫にあった。

 大道具の余り板を並べただけ。客席は折り畳み椅子十二脚。照明は手持ち灯三つ。幕はない。

 カナタが床へ白い線を引いている。

「何を作る」

 迅が入口で訊いた。

「まだ」

「題名」

「ない」

「役」

「二人か三人」

「王と狼?」

「出さない」

「客は」

「十二人」

「少ない」

「帰りやすい」

 カナタは椅子を六脚ずつ、左右へ分ける。中央に幅一・二メートルの通路。後方だけでなく、左右にも出られる。

「何を見せる」

「途中で止める稽古」

「面白くない」

「面白くする」

「失敗したら」

「僕の失敗」

「乱馬は」

「助言するって」

「断った?」

「半分」

「便利だな」

「使う僕が困る」

 カナタは右の靴紐を二回、左を一回結び直した。

 左右が違う。

 まだ気持ち悪そうに見える。

「同じにしないのか」

「今日は」

「昨日だけじゃなく」

「昨日、同じにしなかったから。今日すぐ戻すと、昨日を役にしたみたい」

「難しいこと考えるな」

「舞台は難しい」

「役者は続ける?」

「続ける」

「紅牙座で」

「うん」

「乱馬と」

「たぶん」

「演出は」

「これから」

「俺たちの仕事へ来るか」

 迅が聞いた。

 誘いではないように言おうとして、誘いに聞こえた。

 カナタは白線の端を足で押さえる。

「行かない」

「即答」

「僕の舞台がある」

「まだない」

「だから作る」

「助けは」

「料金を払えば頼む」

「巴みたいだ」

「高い?」

「本人へ言え」

 カナタは椅子を一脚、わざと斜めに置いた。

 凱なら直す。

 迅は直さない。

「客が転ぶ」

「直す?」

「おまえの舞台だ」

「不親切」

「自分で決めろ」

「昨日と同じ」

「便利だからな」

 カナタは椅子を真っ直ぐにした。

 それからまた少しだけ斜めへ戻す。

「どっちだ」

「入口の人が、ここで一回止まる角度」

「邪魔だ」

「止まって、出口を二つ見る」

「演出?」

「安全」

「似てるな」

「違う。たぶん」

 カナタは、白線を引き終えると、小舞台の中央へ立った。

 客はいない。

 十二脚の椅子だけ。

 入口に大道具の年配女性。

 反対側の出口に、昨夜台詞を言わなかった女優。

「何をするの」

 女優が訊く。

「止める稽古」

「何を」

「僕を」

「どうやって」

「どこでも」

「曖昧」

「試す」

 カナタは右手を上げる。

 舞台の声を作る。

「八つの道を――」

「止めて」

 女優が言った。

 早い。

 最初の一文にも入っていない。

 カナタの口が開いたまま止まる。

「理由は」

「聞くの?」

「……聞かない」

 大道具の女性が笑う。

「今、続けたかった顔だね」

「うん」

「止める?」

「止める」

「次は」

「今、考える」

 カナタは舞台を降りる。

 客席の一番端へ座る。

 右の靴紐を一回結ぶ。

 左へ手が伸びる。

 止める。

「気持ち悪い?」

 女優。

「すごく」

「結べば」

「止められた後だから、今は変えない」

「誰が決めた」

「僕」

「また演出?」

「癖」

「違いは」

「分からない」

 女優は中央へ立つ。

「じゃあ私がやる。止めたくなったら言って」

「次は」

「言わないで」

 カナタは口を閉じる。

 自分が止める側になると、合図を早く出したくなる。

 正しい場所を探したくなる。

 女優は何もせず、舞台中央で一分立った。

 カナタは三度、止めようと思った。

 足の位置が悪い。

 光が暗い。

 客に背を向けている。

 どれも怪我には繋がらない。

 止めない。

 一分後、女優が自分で言った。

「終わり」

「何だったの」

「立つ稽古」

「面白くない」

「面白くするのは、あなた」

「難しい」

「演出家でしょ」

「今夜だけ」

「今日は昼」

 カナタは笑った。

 拍手はない。

 それでも三人は残った。

 残った理由は、それぞれ違った。

 迅は笑い、小舞台を出る。

 カナタは追わない。

 空白の旗へ入らない。

 迅たちの便利な助っ人にもならない。

 十二脚の椅子と、まだ名前のない演目が彼の仕事だった。

 その十二脚のうち、十一脚目が壊れた。

 カナタが《止める》と言う練習を終え、座ろうとした瞬間だった。座板の裏で乾いた音がして、右後ろの脚が外側へ開く。

「止めて!」

 カナタは叫んだ。

 誰より早く自分で止めたのに、椅子は待たなかった。尻が床へ落ちる。両手は上げたまま。右足首を捻らないよう、左へ身体を逃がすところだけは役者の身体だった。

 迅が一歩出て、止まる。

「助ける?」

「笑ってから」

「もう笑ってる」

 カナタは床へ座ったまま言った。

 大道具の若者が青くなって駆け寄る。

「昨日、荷重検査を――」

「昨日の私は、今日より軽かった?」

「そんなはずは」

「じゃあ椅子が疲れた」

 残った二人の役者が、最初は遠慮し、それから吹き出した。大道具の若者も、壊れた脚を握ったまま笑った。

 迅がカナタへ手を出す。

「立つ?」

「右から」

「昨日は左って言った」

「今日は椅子が右を裏切った」

 迅は右手を差し出し、カナタは左手で掴んだ。二人とも左右を間違えたことに気づいて、また笑った。

 笑い声は客席へ届かない。拍手にも、支持にも、続演要求にも数えられない。

 大道具の若者は壊れた椅子へ赤い紐を結び、《使用停止》と書いた。カナタはその下へ、自分の字で付け足した。

《停止を言えた。座るのは失敗》

「初演の題にする?」

 若い役者が聞いた。

「長い」

「短くすると?」

「椅子」

「内容が分からない」

「分からないまま、十二脚目を調べよう」

 拍手はなかった。

 代わりに、四人で十二脚目をひっくり返す音がした。

 午後六時四十六分

 最後に返す物は、王衣装だった。

 凱は楽屋の鏡前に立った。

 白い王冠。

 金糸の外套。

 銀の剣。

 左膝装具へ巻く予定だった金布。

 衣装係が一点ずつ確認する。

「王冠、内側の布に汗染み。洗浄」

「費用は俺へ」

「出演者負担ではありません」

「契約では」

「公演中の通常汚損」

「途中で外した」

「頭から落としていません」

「床へ置いた」

「乱馬さんが拾いました」

「いつ」

「照明事故の前」

 凱は知らなかった。

 乱馬は王冠を場面へ使わず、舞台袖へ戻していた。

「剣、傷」

「迅が投げた」

「小道具部負担です」

「本人へ請求しないのか」

「演出許可の範囲」

「台本外だ」

「乱馬さんが拍子木を鳴らした」

「便利な許可だな」

「使う私たちが困っています」

 衣装係は金布を畳む。

「装具を隠さなくてよかった」

「あなたが断ったので」

「映像では目立った」

「王にも悪い膝があると、子どもが喜んでいました」

「なぜ喜ぶ」

「自分も装具を付けているから」

 凱は鏡の中の左膝を見る。

 壊れた身体を見せることと、見世物にすることは同じではない。

 誰が見せると決めたかで変わる。

「その子の名は」

「聞いていません」

「それでいい」

 衣装係が受領票を差し出す。

 凱は右手で署名する。

《獅堂凱。王衣装一式返却。》

「役名欄は」

「空白で」

「昨夜の役を記録しなくてよいですか」

「返す物に、役名はいらない」

 衣装係は受領票を半分に切り、控えを渡す。

「また王役を頼まれたら」

「断る」

「すぐに?」

 凱は鏡を見る。

 自分の普段着。

 白い外套の襟が少し曲がっている。

 胸の鈴も斜め。

 直す。

「台本を読む」

「出る可能性が」

「断り方を選ぶ」

「役者みたいですね」

「嫌なことを言うな」

 衣装係が笑って出ていく。

 楽屋には凱だけが残る。

 鏡の周りの電球は半分消されている。客席から拍手は来ない。大道具を運ぶ音と、遠い掃除の箒だけ。

 王冠がなくても、頭皮にはまだ重さが残っている。

 凱は外套の裾を揃える。

 左膝の装具の留め具を締める。

 普段の靴を履く。

 鏡の中へ、王でない自分を作ろうとしない。

 作れば、それも役になる。

 扉の外で足音が止まった。

 ノックはない。

「凱」

 名を呼ぶ声。

 迅だった。

 廊下の向こうで、十二脚目の椅子がまた短く軋んだ。

「止めます!」

 カナタの声。

 直後に、裏方と役者の笑いが起きる。成功した演目を祝う笑いではない。同じ失敗を見つけ、誰か一人へ押しつけずに止まれた笑いだった。

 凱の口元も動いた。

 迅が訊く。

「何」

「椅子が、また失敗した」

「座る?」

「修理してからだ」

 拍手ではない笑いが、楽屋まで届いた。